このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
タイタニックの真実 titanic the real | ||||||||||||||
1:タイタニック製造月日 2:クマの人形ポーラの話 3:救命ボートが少なかった訳 4:見張り用の双眼鏡がなくなる 5:タイタニック号沈没の恐ろしい噂 6:沈没の原因の裏側 7:通信士の仕事 8:他の船からの氷山警告 9:他客船が救命に行かなかった訳 10:舵手ヒッチンズの疑惑の行動 11:不運なタイタニック号 12:タイタニック号からの救命信号 13:差別される三等乗客 14:4本目の煙突はダミーだった | ||||||||||||||
1:タイタニック製造月日 1909年3月31日からアメリカにあるホワイトスターライン社が世界最大の大きさと最高の豪華客船を目指して製作されました。スターライン社社長のイズメイ氏。映画でも出演しています。そして約3年の月日が経ち、15000人の人手(主にアイルランド人)2.5cmの鋼鉄の壁約2000枚、約300万個のリベットを用いて完成。タイタニック号は全長269m高さ約50mで世界一大きい豪華客船として一躍有名になった。 1912年4月1日タイタニック号は初運転をします。しかし1912年4月14日氷山衝突事故に合い、これが最後のタイタニックの航海となってしまったのでした。又、タイタニックのもう少し詳しい事は こちら で簡単に紹介しています。 2:クマの人形ポーラの話 映画でも出ていた子、タイタニック号でコマ回しの練習をしていた子です。 あの子は自分のお気に入りにしている‘クマの人形ポーラ‘と、共にタイタニック号に乗船しました。しかし真夜中にたたき起こされ救命胴衣をつけらされて訳の分からないまま甲板に出ました。 そして救命ボートに母とポーラと一緒に乗りました。結局その子は助かりましたが、ポーラをどこかに落としてきたらしく探しまわりました しかしなかなか見つからないないのであきらめようとした時に同じボートに乗り合わせた船乗りがポーラをボートで拾ったらしくそれをあの子に届けてやったそうです。そして無事にポーラと再開を果たす事ができたそうです 3:救命ボートが少なかった訳 皆様ご存知の通りタイタニック号には乗員892名・乗客1320名、計2212名もの人間が乗っている中で救命ボートの数はたったの20艘です。1艘約、60人乗れるボートです それでは約1200人しか乗る事ができません。何故ボートはこんなに数が少なかったのでしょうか?それは1つがデッキが狭くなる。とか沈まない船には多くはいらないとか、色々な反対意見が出され積むのを止めたそうです。元々当時は英商務省の規定では定員分の救命ボートは乗せなくても良かったのです。実際にも事件当時、皆は混乱し、60人用ボートにはほとんど満員乗っていません。不安定になるなどという話が出ていたからです。そして話によると11歳の少年もボートに乗せてもらえないと言う事も起きました。沈没後、船に残った1502人は海で凍死しました。 2212人中703人しか助かっていません。もし救命ボートが人数分あればこのような死者数を出さないで済んだでしょう。この事件以来、どの船も救命ボートを人数分積むように言われました。 救命ボートの明細は こちら で紹介ます。 4:見張り用の双眼鏡がなくなる 当時見張りをしていたのはフレデリックとリーでした。 しかし見張り用双眼鏡が何故か無いのでした。それにより氷山の発見が遅れた最大の原因とも言われています。 なぜ双眼鏡がなくなったのか・・・それはなんとある乗務員が自分の部屋にしまいこんでいたと言うのです。当時出航間際に高級船員の入れ替えがあり双眼鏡責任者の乗務員が乗船しなくなってしまったのでした。タイタニック号の姉妹船オリンピック号には双眼鏡専用のロッカーがあったのですがタイタニック号にはなかったため不便したそうです。 タイタニックを降りる事になった乗務員デイビット・ブレア(※)は双眼鏡を自分のキャビンのロッカーにしまい込んでしまったのです。 ブレアは双眼鏡のありかを告げるのを忘れたのかはたまた告げたもののありかを聞いた者が忘れてしまったかです。 ※当時高級船員の入れ替えがありましたが、航海士長になるはずだったマードックは大型客船の経験がないために1つ格下げされ、1等航海士に。航海士長はヘンリー・ワイルドに。2等航海士だったブレアですが2等航海士からは役が定着しており2等航海士ライトラー(以下乗務員通路参照)だったので降りる事になったのです。 5:タイタニック号沈没の恐ろしい噂 ある学者がエジプトにある宝を発掘しました。(ミイラ)それを持ち帰って研究をしようとしました。 しかしその学者が高熱を出し、死んでしまいました。それを引き取りに来た別の学者がまた高熱を出し死んでしまいました。そして1人の学者も高熱を出して倒れました。 これでは自分も死んでしまうと思い、博物館に寄付する事を決意しました。しかし運送中もなにかが起きるに違いないと思った彼はなんと絶対に沈まないあのタイタニックに乗せて博物館へ届けました。しかし案の定、タイタニックも海底に沈没してしまいました。 実際に遺留品からはこれが引き上げられています。今は無事に博物館に展示されているようです。 6:沈没の原因の裏側 タイタニック号に使われている鉄などは当時とてももろくさらに低温の水には特にもろくなると最近の研究で出ています。 もうひとつは防水壁(浸水した際に水を食い止める役割を果たす)にもあると言われています。タイタニック号に存在する防水壁は 全部で15個。しかし完全ではありませんでした。当時はこれだけあれば充分であろうと言われていました。ライバル船会社キュナード社の船にはあった「水密区画」と「縦通防水壁」がタイタニック号にはありません。原因の一つがこの区画と壁を作ると大きな損傷を受けた時に激しく傾くか転覆する可能性があるという事でした。なので縦通防水壁が無くても問題はないだろうと言われたのです。 しかし15ある防水壁は全てが一番上のデッキまでつながっていませんでした。一つは船底からFデッキまで。八つはEデッキまで。そして六つはDデッキまでにしか到達していません。デッキの位置は下図参照。 7:通信士の仕事 通信士、フィリップスとブライドはタイタニック衝突直後から船長に解法令が出せれるまでCQD(SOS信号)を打ち続けていました。 しかしタイタニック号衝突前、彼らは電信など山ほど溜まっておりとても忙しかったようです。 その間にも氷山警告信号は着々と送られてきます。椅子に座ったまま同じ体勢のこの仕事は決して楽では無かったでしょう。 8:他の船からの氷山警告 他客船からの警告をまとめた表です↓
海図に書かれたのは4等航海士ボックスホールによってかかれた1通だけ。 9:他客船が救命に行かなかった訳 最終的に救命に来たのは58海里離れていたカルパシア号でした。しかしそれよりも近い船はいたのでした。 一番近かったのがマウントテンプル号でタイタニック号からわずか14海里しか離れていませんでした。 それはタイタニック号に氷山警告信号を送ったが無視されたのでマウンテンプル号の通信機は電源を落としていたからと言われています。それでタイタニックからのSOSをキャッチできなかったのです。そして次に近かったのがタイタニック号 から19海里離れていたカリフォルニアン号でした。カリフォルニアン号は一回タイタニック号に向けて針路変更していた のですが船長のムーア船長が氷山を恐れ、エンジンを切り電気も全て消していないふりをしたのでした。 そして一番遠かったカルパシア号が4時間かけて救命に行ったのでした。マウンテンプル号とカリフォルニアン号は 全速力で向かえば1時間30分くらいで現場に到着できていました。 1海里1852m 10:舵手ヒッチンズの疑惑の行動 事故当時舵手をしていたのはヒッチンズでした。しかしヒッチンズはある悲惨な行動をしていました。タイタニック衝突後、ヒッチンズはボートに乗って指示係を命じられました。そしてそのボートにはあまり人が乗らないまま降ろされました。しかし船長のスミス船長はそれがあまりにも少なすぎたため、大きいメガホンで呼び戻しました。しかしヒッチンズは聞こえないふりをしてそこから遠ざかったのです。そしてタイタニック号が完全に沈没してしまいました。が、ヒッチンズは「あそこへは戻れない。皆がボートにしがみつき、ボートが転覆する」と 言ったのでした。そして救助されてから数日後・・ヒッチンズはその行動を罪とされ、重い懲役を受けています 11:不運なタイタニック号 タイタニック号は色々な不運にあっています。 1:双眼鏡が無くなってしまった事 4参照 2:当時、風が全く吹いてなかった事 風が吹いていれば波の動きや音などで氷山を発見できたかもしれません。 3:救命ボートを人数分積んでなかった事 3参照 4:もう少し早く舵を切っていれば衝突はまぬがれたかもしれない事 逆に正面からぶつかっていれば沈没はしていないだろうとの事です 5:沈没したのが深夜だった為一番寒い時に沈没してしまった事 6:当時月が出ていなかった事 月明かりで氷山を早く見つけられたかもしれません。 12:タイタニック号からの救命信号 タイタニック号からの世界初の信号・・・それはCQDと言うものだった。 「CQ」は全ての電信局と言う意味で「D」は緊急呼び出しだった。船にもコードがあるらしく、 タイタニック号はMGYというコード名だった。通信士達は信号を打ち始めたがやがてSOSへと変わる。これは1908年により覚えやすいものに改良しようという事で新しく設定されたものだが、まだSOSを使用される事がなかった。記録に残る 13:差別される三等乗客 実際に3等客から下の人達は差別をうけています。タイタニック号に乗船する時に念入りに衛星検査 を受けさせられました。そのほかには簡単にはデッキに出してもらえずずっと閉じ込められていました。救命ボートにもほぼ 1等2等がしめています。「したのやつらは助けるべきじゃなかったんだ」と人間をおもちゃのような発言をした人もいるようです。三等区域からボートデッキへでる道もかなり限られておりまるで迷路のようだったそうです三等の中央階段の仕切りには鍵を閉められなかなか出しててもらえず、「タイタニックは三等船客を差別する意図的な規則が存在した」とタイタニックの船員の 中で言われていたようですがこれが現実だったわけです。 14:4本目の煙突はダミーだった この題名を聞いて「???」と思った人が多数いるでしょう。実はタイタニック号の煙突は4本あるのですが、 なんと一番後ろの煙突はダミーだったのです。前3本からの煙突には 煙がたくさん上がってますが、一番後ろだけはかなり少ないのです。しかもこの煙は煙突からではなく、厨房からだそうです。 当時4本煙突の客船ブームが流行っており4本目は必要ないが、タイタニック号を優雅でゴージャスにみせるためにダミーがつくられました。 | ||||||||||||||
トップに戻る 当HPは参考文書として集英社「タイタニックは沈められた」著者:ロビンガーディナー・ダン・ヴァンダー・ヴァット 実業之日本社「不沈 タイタニック 悲劇までの全記録」著者:ダニエル・アレン・バトラー を参考にさせて頂いております。 |
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