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●朝日文左衛門 守山で遊ぶ


尾府名古屋図 宝永6(1709)年頃の城下図


朝日文左衛門重章屋敷跡看板(名古屋市東区主税町4 十字路角)


写真左 霊松山善篤寺(ぜんとくじ/曹洞宗) 清洲越しにより名古屋城下門前町に移転、万松寺・大光寺と共に府下三刹と言われ、安永5(1776)年山門を除き焼失。昭和16(1941)年現在地に移転、山門は当時の物。右奥に見える大屋根は初代尾張藩主徳川義直生母おかめの方の菩提を弔うため寛永20(1643)年に建立された相応寺の甍。(現:千種区城山地区)
写真右 現在の主税町筋 写真右、当時と同じ場所に現存する希少な武家長屋門(保存のため門構えの左右は解体)。古地図に寄れば朝日家はこの筋に屋敷を構えていた。

写真左 主税町筋と下街道が交差する辺り 東西の主税町筋に対し下街道が南北に枡形を形成し交わっていた。文左衛門もこの角を北に曲がり、大曽根大木戸を通り守山方面へ通ったと思われる。(写真手前から奧が主税町筋、西へ直進すると名古屋城方面、カギ型に写真左から右へ交わるのが下街道)
写真右
 古川 文左衛門が魚取りに度々訪れた金屋辺りの古川。古くは金屋坊村(現金屋)一帯には庄内川から取水した用水や白沢川支流(現古川)が流れ、当時は今よりもうやや南、現在の金屋神明社裏あたりを流れていた。

朝日文左衛門、諱名は重章(しげあき)。その祖は戦国時代甲州武田の農夫、戦で功をなし武田家、そして家康の家臣平岩家に仕え、曾祖父は尾張徳川家御城代組同心になった。21歳で家督を相続し27歳の時御畳奉行に就く。35歳の時父定右衛門の名を継承した。
家禄は知行100石取り、年貢率四公六民で手取りは約40石、役料が40俵程。しかし文左衛門の浪費のため家計は火の車だったと言う。住まいは上記図版、お城から東へ2km弱、現名古屋市東区主税(ちから)町、通りの南におよそ430坪の敷地、家族構成は両親と妻、娘一人、女中、下男など7〜8人程の中級武士。
時代は元禄、関ヶ原の戦いから100年近く経過し武士とは名ばかり、暇と教養は有るが金は無しと言ったサラリーマン武士。文左衛門エリートには程遠く、飲み且つ観劇、魚取り、下世話話大好きと言った軟弱な文学青年、そして文左衛門驚異的な筆まめ。父定右衛門から引き継いだ古書、奇書を筆写し「塵点録」全72冊としてまとめ、元禄4(1691)年18歳から死の前年享保2(1717)年45歳までひたすら書き綴った日記「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき、全37冊、現徳川林政史研究所所蔵)」を世に残した。
鸚鵡返しのままに事象を記す、籠の鳥の如く不自由な身、そんな時代であると揶揄したタイトルではないかとも言われ、直筆原本は既になく複数の人により書写され書庫に納められ、昭和44年名古屋叢書続編巻9〜12に活字本となり昭和59年神坂次郎著「元禄御畳奉行の日記」として世に出た。

元禄14(1701)年3月14日刃傷松の廊下、宝永4(1707)年11月23日富士山噴火、宝永5(1708)年3月8日京都御所炎上、正徳4(1714)年大奥江島生島事件、享保2(1717)年正月18日日向国霧島山噴火、享保2(1717)年奈良興福寺炎上。又元禄15(1702)年10月2日から正徳5(1715)年には尾張藩第四代藩主吉通の生母本寿院の御乱行を記し、見る物、聴く物、藩主、藩政の事、人の動き、天変地異、市井の出来事と赤裸々に書き留めた。故にこの書は尾張藩の秘本として長く城中に秘匿されてしまった。

文左衛門、新聞の三面、社会面、芸能欄的スキャンダルと市井の出来事大好き人間。
物騒な殺人、窃盗、詐欺等の事件。不義密通、心中、駆け落ち、男女の色恋沙汰。零落した武士の話。色と欲に狂った坊主の話。情けない元禄武士の話。寺社の祭礼、花火大会。狼、猪が出現した事。地震風水害。 巡見使の事 。芝居話。文左衛門大好きなご禁制の博打、そして今日の日記と同様日々の天気。これによればこの時代の名古屋は今よりも寒く雪が30cm程積もる事も有ったらしい。
でも文左衛門とて武士、一応の武芸には励んでいた様で槍・剣・柔・居合・鉄砲・弓など道場通いもし、ついには弓術道場主の娘と結婚(後離婚)、現金な物でその後はプッツリと道場へは顔を出さない、何とも解りやすい性格。

さて文左衛門の守山行き
元禄6年10月9日、宵仲間と龍泉寺へ行く、丑の刻帰宅、漢詩を吟じる。元禄6年10月17日、夜龍泉寺へ行く、池にて水浴び、茶屋にて飲食。
御畳奉行就任後は公務にて大森寺(二代藩主光友の生母の菩提寺)へ度々来訪。
宝永4年9月22日、小幡にて茸狩り、大森寺へ行く、酒等快く給ふ。
文左衛門魚取り(魚殺生)が大好き、もちろん大好きな酒をお供に。
元禄7年閏5月22日、晴、唐網を持ち金屋坊(上記写真)へ殺生に行く。宝永3年9月17日、早朝地蔵池へ殺生に行く、一度帰宅後金屋坊へ行くと日に二度魚取りへ出かけている。もちろん他に川名(昭和区辺り)味鋺・勝川(愛知県春日井市)へと月に数度、時には連日魚取り(魚殺生)」へ出かけている。
ところでこの時期、五代将軍綱吉によって貞享4(1687)年発せられた「生類憐みの令」の禁制下。しかし元禄11(1698)年9月18日付、三代尾張藩主綱誠(つななり)は末盛山(現名古屋市千種区)で鹿狩りを行っている。地方では結構拡大解釈で緩やかだったよう。
そして石山寺参詣にも、元禄7年8月22日、勝川へ鮎打ちへ出かける。午後雨石山観音にて焼飯を給ふ。宝永5年2月18日、朝より藤入山(場所不明)へ行く、帰り守山(場所不明)へ行き碁を打ち酒給ふ。翌19日石山寺へ行く。そして同年3月3日、瀬古石山、竜(龍)泉寺へ行く。そして3月15日再度石山寺へ、夫より竜(龍)泉寺へ行く。険坂峻峯を経過し甚だ楽、甚だ興あり等々、文左衛門公務を始め、魚取り、茸狩り、参詣にとよく守山を訪れている。
文左衛門の屋敷から同地まで4〜5km程。 善光寺街道(下街道 )を通り山田の渡しで矢田川を渡河、守山瀬古地内へ。左折すれば 石山寺 、右折すれば金屋坊、直進すれば文左衛門の釣りのホームグランド勝川・味鋺。小幡・龍泉寺・大森へは瀬戸街道を行き来した。

正徳2(1712)年8月20日、不食、酒不進、眼中黄に小便色づき内熱有、今日より玄端薬給。
日記中「酒給」と言う文が多くある事から文左衛門は無類の酒好き、そして遂に肝臓を患い享保3(1718)年9月14日、45歳にて死去。城下門前町善篤寺に葬らた。(現名古屋市千種区 上記写真)。その後の朝日家は吉田孫兵衛の子、善右衛門を養子と迎え家督を相続するも病弱のため出仕ならず知行、屋敷を藩に返上、享保11(1726)年善右衛門病死の後朝日家は断絶した。




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