このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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・・・これより約半年後、親会社が「亜鉛精錬に関する貨物輸送をトラックに切替」を発表した。
これまでの間、赤/青色の更新機が入り、「朱の原色同士の綺麗な重連」を撮る事が限られてしまい、
綺麗な編成を撮るべく機関車のローテーションを見、敢えて原色重連を狙っていたものだ。
やがて、重連が単機になり、そして、文字通りの単機回送も出てきて、この列車の終焉の可能性は濃厚になった。
こうなると、もう、「原色重連」に拘るわけには行かず、暇があったら即、神岡行きをしていた。
空を見て余程悪条件でない限り、仕事の後眠いのにもかかわらずハンドルを握った。
気付いたら漆山の有名ポイントに来ていてその間の事は一切覚えていなかったと言う事もあった。
(どうやら、体が 神岡貨物を無意識に求めていたようだ)
10月中旬になると、「重連」は解消し文字通りの「単機」になった。
神岡鉱山前駅や精錬所にあった多くの貨車が日に日
に少なくなり、そして、ヤマへ向かう列車は機関車のみ
→ヤマから下りる列車は神岡の貨車を富山方面に回送する事、
が多くなり、貨車を繋いではいるが、本来の使命・硫酸輸送を果たす事は少なくなった。
撮影する側は、
「数両の貨車はいつ、無くなってしまうのか?残り数両の内、○両は今日/○両は明日?」など、
鉱山前駅の貨車の両数のチェックが欠かせなくなった。
或いは、「高山国道事務所のHP」の船津北の画像を見て鉱山前駅の機関車を確認し※2006年現在・駅は映らなくなった
(道路状況画像右端に偶然映っていた、一度、カメラの角度がおかしくなった時HP作成者にメールしてこれを直してもらった事もあった)、
即、笹津へ急いだ事もあった。
・・・そして、2004年11月26日・遠くに高らかな汽笛と2700馬力のエンジン音を残して 山列車 は永久に去ってしまった。
親会社は2005年始めに貨物輸送休止を発表していたが、事実上、この日が貨車を従えての最後の日であった。
神岡にある亜鉛精錬事業の物資運搬・・神岡鉄道の一番の使命である。旅客列車も勿論、数本ではあるが
毎日走っているが、ここの鉄道部門の収支の実に、7〜8割もが「一日一往復/週6本」の貨物列車が稼ぎ出していた。
「貨物がなくなったらこの鉄道の行く先は・・・」・・貨物がなくなった今、心配する声があちこちで聞こえてきた。
そして2005年6月30日、「鉄道廃線への準備を進めて行きます」との発表がなされた。ここでは、「存続の可能性を妨げない」
と書いてあるものの「鉄道会社は進んで存続の運動はしないが他よりその機運があるときにはそれを妨げない」ということだろう。
・・・これは、「3月31日で無くなった日立電鉄」と全く同じではないか?私はそう思った。
鉄道会社が廃線の方針を打ち出した以上、その準備は着々と進んでいる訳で、
若し、廃線を食い止めようとするならば、
後はもう、時間の問題・鉄道の諸設備が健全な時に手を打たねば間に合わなくなってしまう。
そして、その時が過ぎてから・その時を間に挟んで存続運動をする・続けるとしても並々ならぬ苦労が伴う。
例として、日立電鉄線・「廃線前から廃線後暫くの間存続の運動をしてきた常陸太田市も遂に、存続断念」がある。
2006年上半期・・神岡鉄道のHPにも「廃線」を肯定する記述が見られた。
余程のどんでん返しがない限り「神岡鉄道の廃線は確実なもの」となった。
フォトコンテストが開かれているが、
私は「今まで撮らせてもらった 神岡鉄道 にお礼の意を込めて」応募しました。
「神岡鉄道存続の材料」・・・全路線の実に7割もがトンネルである特異な路線状況を観光に使えないか?と、私は思う。
トンネル内は比較的涼しいので冬の雪対策をしっかりすれば何かの貯蔵に使えると思う。
★写真の掲載順序は「場所の順番を優先しているので」撮影日時は前後していることがあります。
終
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