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超能力開発研究所
Supernaturalism

第一話 お化け考

第十章 おわりに

この記事を終わるに当たり、お化けや神仏など科学的に解明できない存在に関する筆者の意見をまとめておくことにする。
論語では「子怪力乱神を語らず」というが、筆者はそれほど君子でもなければ論語の信奉者でもない。春秋戦国時代の時代背景を考えるに、論語は乱れた社会を安定した社会に変化させようとするあまり、あまりに保守的であることは否めない。よって論語はブレークスルーには役に立たないのである。お化けなどは論語でいう「乱神」に相当し、それこそ「論外」にあたる概念である。
しかし、論語嫌いの筆者であり、ブレークスルーを探すのが大好きな筆者だから、乱神についてどんどん語ってしまうのである。。

10.1 一神教の神
筆者があまりに日本的な密教徒である故か、聖書をなんべん読み返してみても一神教の神という概念がわからないのである。わからないというより「腑に落ちない」のである。

そんな筆者もニール・ドナルド ウォルシュ が著した「神とひとつになること」という本にぶつかった。
その本にはこうある。
宇宙には、必要性は存在しない。何かが必要になるのは、特定の結果を求める時だけだ。宇宙は特定の結果を求めはしない。宇宙そのものが結果だからだ。神の思いにも必要性は存在しない。神が何かを必要とするなら、それは神が特定の結果を求める時だけだ。神は特定の結果を求めはしない。すべての結果を生み出すのは神だから。
この文を 度欲風に解釈 するとこうなる。
一神教では、この宗教を信じると最後の審判の時に地獄に落ちず天国に行けるようになる。だから敬虔でいなさい。そのためには宗教で教えることは必ず守らなければならない、と言っている。
しかし、神が完全であるなら、不足はない、すなわち必要性は存在しない。したがって人間に何かを命じることはない。
神が完全であるなら、その子である人間に「罪」作りなことをさせる必要はまったくない。
しかし、聖書には種々の戒めなどの「信者遂行義務事項」がある。
ということは「神は完全だ」という前提が間違えているという結論に至る。
では中東の人たちはなぜ「神は完全だ」と考えたか?不完全であるということはその反対の極に「完全なものが存在する」と考えた。それを中東の人たちは「神」と名付けた。これは白黒をはっきりつけないと脳の中の考えの整理ができない中東の人の脳の癖によるものである。少々の矛盾は「信じる」という行為で思考停止させてしまい隠蔽してしまうのである。

さて、聖書の教え通り地獄に落ちたらどうなるか? 灼熱地獄に針地獄。肌はボロボロになり血だらけ、ひどい痛みが体中を走り、それが未来永劫に続くのだ、と言われて「うっへぇー大変だ」と思う人は相当に正直な人である。換言すれば相当に「単純」な人である。ちょっと考えてみたらこの話は矛盾だらけであることが分かる。
「体中を痛みが走る」ということは肉体が復活しているという条件が必要になる。だから一神教の教えでは最後の審判の時に魂が肉体を伴って復活するといわざるを得ない。
が、ちょ、ちょっと待ってくれ。
肉体が復活するためには最低条件として生きていた時と同じ材料すなわち元素がそろわなくてはならない。論理的にはそのとおりでしょ!
しかし、その元素は食物連鎖で何度も人間の肉体に利用されている、と学校でならった。この理論によると、一度に複数の魂が肉体を伴い復活しようとしても魂の間で元素の取り合いになり、完全な肉体には復活しえないのである。これも論理的に正しいでしょ!
だから、生きている肉体が存在しえないのだから、地獄の責め苦には遭わない。すなわち天国と地獄の論理はまるで役に立たないことになる、という結論に「論理的に」至ってしまう。ようするに天国と地獄の話は「子供だまし」なのだ。だから筆者は天国と地獄の話を信じないし、それに基づく一神教の教えは受け付けられないのである。
このように聖書の内容を現代科学的な理屈で詰めていくと話が通じなくなってしまう、と指摘すると一神教の信者たちは烈火のごとく怒るのである。だから読者はこんな討論には加わらないことをお勧めする。

10.2 神仏エネルギー (Nur Islam)

筆者は約二十年前から時折瞑想することで精神の安定を図ってきた。その結果、 第六章「超能力者について」 に書いたようないろいろなことができるようになった。お化けを手のひらで探し出すことも可能になったのである。お化けを手で探しているあいだに妙なことに気がついたのである。イスラムの礼拝の方角や 神社仏閣の伽藍の中心線 (5.5項「超常現象その五 ジャワ島のヒンドゥー・仏教寺院」)にもお化けと同じようなエネルギーの固まりを感じたのである。
このイスラムの礼拝の方角はキブラと呼ばれ、メッカのカーバ神殿の方角にあたる。 その位置は21°25'21.04"N, 39°49'34.33"Eである。
普通のムスリムに尋ねると「キブラはメッカの方角だからあっち」と水平方向に指をさして教えてくれるだろう。しかし、その指の先は宇宙であり地球の表面の一地点ではない。なぜなら地球は球形だからだ。「頭のよい子は考える」ことをしなくてはならないのである。
もう少し三次元幾何学的に言うと、地球の中心点とカーバ神殿、測定点の三点を含む平面が地球の外周と交差する曲線上の測定点における方向である。この説明であなたがわからなければそれでよい。詳しく説明する必要はない。説明してもどうせわからないだろうからだ。
正距方位図という地図でキブラの方向が分かると言われているが、地球儀で三次元的に見るとどうもその根拠は薄弱である。
またムスリムたちは方位磁石を常に持ち歩いて、礼拝の都度キブラの方角を確かめている。しかし、磁北極と真北が一致する地点は地球上でも少ない。日本では磁北極は真北から西に7度10分ずれている。

地球上どこでもキブラの方角からは強いエネルギーを感じるし、その180度反対側からも同じようなエネルギーを感じることがある。キブラの方角からプラスマイナス3度ずれるとエネルギーはひどく減衰し、その誤差が5度になるとエネルギーはほぼゼロである。

イスラム式の礼拝の最初はキブラに面して立ち両手を前にむけることである。この時点で手のひらにエネルギーを感じなかったら、この礼拝は無効になるのだが、イスラム式では無視して続行している。だから、ちゃんと礼拝していても神との通信ができないので、ひどい病気にかかるのである。
だからムスリムたちはキブラの方角にきわめて敏感なのである、と思われるが、実はエネルギー関連の理由ではなかったのである。
それはあまりにも現代的であるISOの精神にも確実に受け継がれている。その理由とは「第三者の監視の必要性」である。イスラムではちゃんと戒律を守っているかどうかは第三者の目によって確認しなければならないという方式が取られている。人間は怠けたくなる動物だから、「第三者の目を欺くために、みてくれだけやればよい」と考えるようになる。これは一神教のペースになっている性悪説である。ISOでイスラムの教えを解釈すると こうなる
生活習慣病治療のために、筆者はしばしばムスリムたちに正しい礼拝の仕方を教えている。その都度感じるのは「どこのどいつが礼拝の仕方を教えているのだ」という怒りである。

10.3 一神教の神と仏

「神とひとつになること」のニール・ドナルド ウォルシュの真似をして筆者が神と対話した経験では、
(1) 神は一神教で教えるような怖い存在ではない。
(2) 神は大日如来のようにただ存在して我々を見守っているだけである。
(3) 神は我々に対しなにも禁止しないし強制もしない。
(4) 神はインターネットでいえばホストコンピューターに相当し、我々がクライエントコンピューターなのである。一神教の教えとはまるで逆である。すなわち、ホストコンピューターはデータを保管するのみならず、データベースへのクライエントのアクセス要求を許可する。ただしクライエント側の資質などの条件によりアクセスできるデータベースは限られるのである。
(5) 神は我々から離れて存在するのではなく、神は我々の中にあり、かつまた我々は神の中にある。
筆者の理解する神とは仏のような存在である。

10.4 日本のカミと先端科学

さて、日本のカミというとすぐに「一神教の神」と並列に並ばされるが、これは大きな間違いである。日本のカミとは、魑魅魍魎も含めた異次元の存在と解釈すべきである。日本のカミは我々に何も強制しない。我々と喜怒哀楽を共有しているだけである。ヒンドゥー教のデワ・デウィに相当するものだ。
神道はアニミズムだと言われることがある。アニミズムとはあまりに未開な、我々を侮辱していると憤慨される方もいるやもしれない。アニミズムは下等であると決めつけているから憤慨するのだ。
アニミズムは決して下等な宗教ではないのである。
養老猛司氏の説によると人類の発達とは都市化のことであり、脳化であるとのことだ。脳の中にあることだけが真実であると考えるのが現代である。
しかし、実際はアニミズムで敬われている事象には脳の中にない事象、我々が予想もつかないことがたくさん存在するのである。脳の外にあるものを無視することはいわゆる「科学的」ではない。技術革新が長足の進歩を遂げたために、いままで一神教で教えていた、古典物理学的観点を超える多数の事実が見つかったからである。それには量子力学における「不定性の原理」や複雑系の論理などがある。古典物理学的観点で作られいままで支配的であった線形数学は自動制御の分野においてすでに行き詰まりを見せ、複雑系の数学であるファジー理論などがそのブレークスルーに一役買っているのはご存じだろう。

古典物理学は枝葉末節を切り捨てることで我々が感知できる世界の諸現象について説明ができた。計測器の精度が上がったため、マクロとミクロの世界の現象も正確にとらえることができるようになった現在、実験の計測結果は古典物理学では説明がつかなくなってきている。そこで登場したのがそれをカバーできる複雑系である。
枝葉末節を切り捨てて成立した一神教の教えより、複雑系とも呼べるアニミズムのほうが人間社会を含めて自然の現象をより多くカバーしていると考えられるし、有効である。アニミズムを複雑系としてとらえれば一神教は非複雑系(線形)思考であるともいえるだろう。理論というものはより多くの事象をカバーできるものがよりよい理論であると言われている。ということはアニミズムは一神教より高等な理論であるいうことになってしまうのである。

(第一話 終)

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2009-09-09 作成

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