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 暴風の野付半島   1998年8月

 1997年に続いて1998年も根室から尾岱沼まで同じルートを走った。前年は暴風雨の中、悲惨な目に遭ったが、今回は曇り空で、風がかなり強かった。とにかく、また尾岱沼のキャンプ場に泊まり、一夜が明けた。


 早寝早起きがすっかり定着して、今日も5時起床。相変わらず風が強く、テントがバタバタいっている。外は曇りで、夏とは思えぬ肌寒さ。去年の夏も北海道はうすら寒い雨や曇りの日が多かったが、今年もなかなか好天には恵まれない。
 尾岱沼青少年旅行村を7時に出発。いったん尾岱沼の街に戻ってセイコーマートで買い物をした後、改めて北へ向かって走り出す。しかし、きつい向かい風で、まるでスピードが出ない。
 キャンプ場前を過ぎて、林の中の道をしばらく行くと当幌川を渡り、標津町に入る。左手に牧草地が広がり、最果ての名峰・斜里岳が見えてきた。

     ポン茶志骨

 尾岱沼から10キロ近く走るとポン茶志骨。ここに野付半島への分岐点があるが、それより先に道路際の草むらからキツネの頭がのぞいているのが目に入った。
 自転車を停めて、のぞき込むと、右半身を下にして横たわり、顔だけ見れば安らかに眠っているようだ。しかし、腹部から後肢の付け根にかけてはごっそりと肉が抉られている。クルマにはねられた後、ほかの獣やカラスに食われたのだろうか。無残としか言い様がない。
 これも北海道の現実として、カメラを向けたがシャッターを押すのはやめた。

     野付半島

 そこから相変わらずの強風に少しためらいながらも野付半島へと右折する。
 そもそも野付半島は、半島とはいっても、実際は海流によって運ばれた砂が堆積してできたひょろりと細長い砂嘴で、先端部がエビの背中のように丸まって野付湾を抱き込んでいる。尾岱沼という地名の語源もアイヌ語の「オタ・エトゥ」で、砂の岬の意味であるという。
 明治・大正期の文人、大町桂月はここを「北海の天橋立」と賞賛したそうだが、僕は去年「北海道の鼻毛」という表現を思いついた。
 その砂嘴を貫くのが「フラワーロード」と名づけられた一本道。左にはずっと根室海峡が続き、その沖合には国後島が浮かんでいるはずだが、今日は霞んで見えない。野付から国後島まではわずか16.5キロ。これは本土からの最短距離である。
 はじめは湿原だった右手にもやがて野付湾が広がった。右も左も海。こんな道は滅多に走れない。
 半島には地図上ではポンノウシ、ポンニッタイ、エキタラウスといったアイヌ語地名が点在しているが、ほとんど人は住んでいない。時折、海辺に番屋があるばかり。
 道は南東方向へほぼ一直線に続いており、風は北寄りなので、往路は追い風になるかと思いきや、横風だ。しかも、半端な強さではない。風は間断なく吹き続け、そこに時折、一段と強い突風がぶわっと来る。道の左端を走っていたのに、あっという間にセンターラインまで持っていかれる。たまには観光客のクルマやバイクも通るから、危険極まりない。あまりスピードも出ないから、せいぜい時速15キロ程度で、ゆっくり走るしかない。

 単調な砂浜が続く根室海峡の海岸線とは対照的に草原の湖を思わせる野付湾の海面は近づいてきたかと思えば、また遠ざかり、こんもりとした森や瀟条たる湿原に移り変わったりする。野付半島は砂嘴とはいっても、なかなか多彩な自然を秘めているのである。 

     ナラワラ

 再び別海町に入って、まもなく右手の湿原の対岸に「ナラワラ」。砂地に育ったミズナラの林が海水に侵食されて立ち枯れ、白い幹の群れが不思議な景観を生んでいる。滅びゆく森。今は青々としている背後の森もやがては同じ運命を辿るのだろう。
 あまりに風が強くて、ここで引き返そうかと思いつつも、さらに先へと進む。

     竜神崎

 ポン茶志骨からおよそ15キロ。絶えず左側からの風圧に押されながら走って、ようやく「トドワラ」のレストハウス前を過ぎる。野付半島は野付湾を抱き込むように先端部がくるくると丸まっているため、ここまでまっすぐ伸びてきた道はこの先、右へ右へとカーブしていく。
 途端に風の音が消えた。追い風になったのだ。自転車のスピードが勝手に30キロを軽く突破する。まさに風と一体になった瞬間だった。
 帰りは恐ろしいことになりそうだ、と思いながらも、風に乗ってピューッと飛ばして、2キロ余り先の竜神崎の駐車場に到着。フラワーロードはここが終点で、この先は未舗装で一般車両進入禁止の漁業専用道路が完全に平坦な草原の中を右へ右へとカーブしながらさらに地平線の果てまで伸びている。この広大さは半島の先端とは思えないほどだ。
 昨年の夏はこのあたりで丹頂鶴のつがいと頭上を低空で飛ぶオジロワシを見たのだが、今回はどちらも見かけなかった。

 とにかく、駐車場に自転車を残して、歩いて竜神崎灯台へと向かう。ハマナスやノハナショウブが咲く草原の道はビュービューと風が吹き荒れ、立っているのがやっと、という感じ。訪れる観光客やライダーもあまりの暴風で、何も見ないですぐに退散していく。僕も取り急ぎ白亜の灯台の写真だけ撮って引き返す。

 帰りは地獄の向かい風。なんとか愛車のもとへ戻って、走り出すが、なかなか進まない。
 空気がパンパンに充満した巨大な風船にぶち当たり、無理やりメリ込んでいく感覚。そのぐらいの風圧である。
 ペダルを全力で漕いでも時速8キロが精一杯。レストハウスまでの2キロ余りがなんと遠いことか。しかも、どんよりとした空からは雨まで落ちてきた。
 強風を物ともせずに走り去る(ように見える)クルマやバイクを横目に、自転車旅行者の悲哀を噛み締めつつ、俯いたまま黙々と重いペダルを踏む。

     トドワラ

 やっとの思いでトドワラのレストハウスに辿り着いた頃には雨も強まってきた。
 トドワラは海水に浸食されて死に絶えたトドマツ林で、野付半島の最大の見どころである。しかし、ここから遊歩道をかなり歩かなくてはならず、この吹き降りの中を行く気にはなれない。
 昨年(1997年)、訪れたが、こんなところだった。

「花々の咲く野道を辿っていくと、トドワラである。野付湾に突き出た砂州にヨシが密生し、その中に白骨と化したトドマツが立ち尽くし、あるいは傾き、あるいは横たわる。まさに木々の死骸。ただ、想像していたほどの規模ではない。森というよりは林、それも疎林に近い。このまま侵食が進めば、やがては消えていく風景なのかもしれない」

 とにかく、今回はトドワラはパスすることにして、レストハウスに避難。折りしも、観光バスが到着して、快適な車内から降りてきた観光客たちは思わぬ強風と雨に驚いた様子である。しかも、とても寒そうにしている。僕はもうこの寒さにはだいぶ慣れた。
 まるで台風のような荒天のお陰で、唯一の避難場所であるレストハウスは活況を呈している。今のところ自転車で来ているのはほかにいないようだから、一番悲惨な状況に置かれているのは僕なわけで、ちょっと途方に暮れる。でも、まぁ、仕方がない。開き直るしかない。

     暴風サイクリング

 さて、当分は天気が回復する見込みもなさそうだし、勇気を出して行くとしよう。雨に濡れた自転車に跨がり、海の狭間の一本道を再び走り出す。
 根室海峡からの風はさらに凶暴さを増し、雨粒はまるで小石のように顔面を打つ。風速がどれほどなのか分からないが、少なくともこれほど強い風の中を自転車で走るのは初めてである。
 昨年の本別海〜尾岱沼間も土砂降りの雨と強風に見舞われ、立ち往生したが、風はあの時以上に強いようだ。しかも、これから20キロ近く先の標津までほとんど無人地帯で、逃げ場はどこにもない。
 いつもなら自転車は道路の左端を走るわけだが、右からの横風に煽られて飛ばされると、そのまま道路際の草原に転落しかねないので、右側(根室海峡側)の歩道を走る。それでも、しばしば凄まじい風圧でハンドルを取られ、歩道から車道に脱輪したり、バランスを崩して転倒しそうになり、慌てて路面に足をついて踏ん張ったりする。大きな荷物を積んでいるので、空気抵抗が大きく、風圧をまともに受けてしまうのだ。向かい風なら進まないだけだが、横風だと身の危険を感じる。自転車にとって横風がどれだけ恐ろしいか、痛切に身にしみた。

 途中、何かの拍子にチェーンがはずれるアクシデントまであったが、なんとかポン茶志骨まで戻って、ようやく国道に復帰。もう一度、事故死したキツネの死顔を拝んでから標津へ急ぐ。だんだん建物が増えるにつれて、風の威力も和らいできたようだ。

     標津サーモンパーク

 ポン茶志骨から4キロほど走って、正午前に標津町の中心部に着き、まずは標津サーモンパークに寄ってみる。高い展望塔をもつ、いかにも平成バブル建築風の観光施設である。
 雨は止んだが、相変わらずの強風の中、命からがら文明世界に生還した気分なのだが、ここでは観光客がまるで何ごともなかったかのように歩いているのがなんだか不思議である。 
 とにかく、610円払ってサーモン科学館という建物に入ると、ここには国内外のサケ科の魚類が大小さまざまな水槽で飼育されているほか、サケに関する展示も充実していて、なかなか見応えがある。また標津川から導いた魚道の側面をガラス張りにして、秋にはサケが遡上する様子を観察できるような工夫もしてあるなど、よくできた施設ではあった。

     根室標津駅跡

 展望塔から大平原と根室海峡の景色を眺め、13時にサーモンパークをあとにして、次に旧根室標津駅の跡を訪れる。
 標津は知床半島の南の玄関口に当たり、また尾岱沼やトドワラへも近い観光の拠点で、かつては鉄道(標津線)が通じ、釧路からの直通列車も乗り入れていたのだ。
 初めて知床を訪れた時(1985年)は、標津まで列車で来て、ここから羅臼まではバス代を節約してヒッチハイクをした。その意味でも思い出深いところである。
 標津線の廃止は平成元年4月末。辺境ローカル線の終着駅にしては立派だった鉄筋コンクリート造りの駅舎は完全に姿を消し、レールも撤去され、広々とした構内は夏草に覆われ、ピンクのムシトリナデシコが一面に咲いている。往時を偲ばせるものはほとんど残っておらず、わずかに信号機や標識灯の残骸が打ち捨てられているばかり。
 トドワラやナラワラのようにゆっくりと少しずつ死滅していくのと違って、人工の建造物はあっという間にこの世から消えていくのだ。(写真は1997年夏)

     北国の旅の風情?

 旧駅前食堂で昼食後、標津をあとに羅臼へ向かって走り出す。しかし、標津川を渡ったあたりで、ちょっと考えてしまった。家並みが途切れると、またまた強い向かい風。こんな中をまだ50キロも走るのは無謀ではないか。しかも、この先は知床半島である。どんな目に遭うか分かったものではない。今日はここでやめよう。尾岱沼から実質的に15キロしか進んでいないが、まぁ、いいや。標津にもキャンプ場があるが、この強風下ではテントを張る気にもならないので、民宿を探そう。
 あっさり羅臼行きを断念して、標津の町なかに戻り、いくつかある民宿のうちの一軒を訪ねる。玄関を開けて、声をかけると、お婆さんが出てきた。飛び込みだけども、もちろん宿泊OK.。外にトタン張りの車庫があって、自転車はそこに置くといい、という心遣いも嬉しい。時刻はまだ15時になったばかり。
「羅臼まで行くつもりだったんですけど、風が強くて…」
 そう言い終わるより先にお婆さんは「それはやめたほうがいい」と首を振る。こんな風の中を行くなんてとんでもない、といった口ぶりである。予定は狂ってしまったが、なんだかホッとした。
 部屋に通され、窓の外を見やると、裏庭の先に堤防があり、その向こうは不気味な灰緑色の海。赤色灯台の立つ突堤を回り込んで、白波が次々と押し寄せ、係留された小舟が荒波に翻弄されている。妙に寒々しく、もの淋しい光景である。
「寒かったら、ストーブをつけなさい」
 お婆さんにそう言われて、いくらなんでもストーブをつけるほどではない、と思っていたが、ひとり熱いお茶を飲んでいると、なぜか火が恋しくなって、結局、ストーブをつける。テレビをつければ、高校野球中継。ストーブに当たりつつ、夏の甲子園を観る。これも北国の旅の風情というべきなのだろうか。
 今日の走行距離は67.4キロ。明日はいよいよ知床峠を越えて、宇登呂をめざす。

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