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北海道自転車紀行*1997年 夏

尾岱沼〜野付半島〜標津〜知床半島・羅臼

 釧路からスタートした1997年夏の北海道自転車旅行。根室を経て、昨日は凄まじい雨と風の中、野付湾に面した別海町の尾岱沼までやってきました。今日は野付半島に立ち寄ったあと、いよいよ知床半島へと向かいます。

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     尾岱沼の朝

 別海町・尾岱沼(おだいとう)の青少年旅行村キャンプ場で迎えた朝。
 真夏とは思えない、ひんやりとした空気の中でカラスだけが元気に飛び回っている。上空はまだ紫がかった灰色の雲に覆われているが、水平線近くだけ雲が切れて、ホワイトの絵の具にわずかにオレンジ色を溶け込ませたような色が広がっている。
 穏やかな野付湾にも淡い光の色が満ちてきて、低く垂れ込めた雲が鮮やかに燃え出すと、やがて野付半島の向こうから何日ぶりかの太陽が顔を出した。海辺でご来光を拝むのは旅の楽しみである。昨日の天候があまりに悲惨だったので、このまま天気は回復傾向と信じたい。なにしろ、これから今回の旅のハイライトともいうべき知床半島へ向かうのである。
 それにしても、テントでの寝袋生活というのは意外に快適なものだ。昼間体力を使っているせいか、実によく眠れる。夜中に目覚めることもなく完全に熟睡して、一夜明ければ気分爽快。早寝早起き。なんて健康的な旅なんだろう。

 誰よりも早く活動開始して、テントを撤収。この作業にもだいぶ慣れてきた。ただ、テント、寝袋、レインウエアなど、アウトドアグッズというのはコンパクト設計なのはいいけれど、コンパクト過ぎて、袋に元通りに収納するのが難しい。一度生まれた赤ん坊を再び母親の胎内に戻す作業に近いのではないか、とすら思ってしまう(さすがにそれほどではないけど…)。というわけで、かなり苦労しながら、なんとかテントや寝袋を無理やり収納袋に押し込んで、一応の雨対策でビニール袋にくるみ、自転車の荷台に積んで、しっかり固定し、6時15分に出発。

根室海峡と国後島     野付半島へ

 キャンプ場をあとに、白々とした曇り空の下、まずは国道244号線を北へ向かう。
 林の中を4キロほど走って別海町から標津町に入り、さらに5キロほど行くと、ポン茶志骨という奇妙な地名に出会い、ここで右へ道が分岐している。これが野付半島への入口。せっかくだから寄ってみよう。

 そもそも野付半島は半島とはいっても実際は潮流によって運ばれた砂が堆積してできた細長い砂嘴であって、先端部がエビの背中のように丸まって、野付湾を抱き込んでいる。尾岱沼という地名の語源もアイヌ語の「オタ・エトゥ」で、砂の岬の意味であるという。砂嘴としては日本最大規模だそうだが、仮に北海道の形を動物の頭にたとえて、知床半島が角、根室半島が舌だとすれば、地図上の野付半島は鼻毛程度の存在でしかない。
 その半島を貫くのが「フラワーロード」と名づけられた一本道。左にはずっと根室海峡が続き、その沖合には国後島の蒼い島影が浮かぶ。野付から国後島まではわずか16.5キロ。これは本土からの最短距離だそうだ。
 はじめは湿原だった右手にもやがて野付湾が広がった。右も左も海である。
 単調な砂浜が続く根室海峡の海岸線とは対照的に、草原の湖を思わせる野付湾の海面は近づいてきたかと思えば、また遠ざかり、こんもりとした森や湿原に移り変わったりもする。野付半島は砂嘴といっても、根室の春国岱と同じように、なかなか多彩な自然を秘めているのである。

 起伏はほとんどないのに、風が強いせいか、ペダルが少し重い。やはり疲労がたまっているのだろうか。道は直線的に果てしなく続き、ともすれば走る気持ちが途切れそうになる。北海道の鼻毛は意外に長いのだった。

ナラワラ     ナラワラ

 まもなくナラワラ。砂地に育ったミズナラの林が海水に浸食されて立ち枯れ、白い幹の群れが不思議な景観を生んでいる。滅びゆく森。今は青々としている背後の森もやがては同じ運命を辿るのだろう。
 その木々の墓場で丹頂鶴のつがいが餌を探していた。

     竜神崎

 空を覆う雲の間から少しずつ青い色が覗くようになって、ポン茶志骨から15キロほどで野付半島観光の中心であるトドワラの駐車場に到着。ここまで来る間に僕を追い越していったクルマやバイクが止まっている。道はまだ続くので、さらに半島の先端をめざして2キロほど走る。
 野付湾岸の湿原にまた丹頂鶴が2羽。鶴はすでに何度も見たので、さすがに有り難味が薄れて、「あ、またいるな」という程度になってきた。よく考えれば、贅沢な話ではある。

 半島の東端が竜神崎。頭上には久しぶりに青く光る空が広がって、夏らしい陽射しが照りつけてきた。そして、夏空にそびえる真っ白な灯台。海風にそよぐ草原に咲くハマナスの花。北海道の上空には相変わらず陰鬱な雲が垂れ込めているのに、海に突き出たこの半島のそれも突端近くだけが夏の祝福を受けているかのようだ。

  


     幻の街 キラク

広大な野付半島 まっすぐ続いてきたフラワーロードはここが終点で、この先は未舗装で一般車両進入禁止の漁業専用道路が完全に平坦な草原の中を野付湾を抱き込むように右へ右へカーブしながら、さらに地平線の果てまで伸びている。この広大さは半島の先端とは思えないほどだ。
 そして、この広大な砂嘴が尽きるあたりには幻の街キラクが眠っているはずである。江戸から明治初頭にかけて北方警護と千島への中継地として栄えたと伝えられるが、街はその後、忽然と姿を消し、今やほとんど跡形もないという。はっきりとした記録も残されておらず、その存在は謎に包まれているとのこと。今ではわずかに草原の中に墓石などが埋もれているばかりで、街のあった場所はもはや海面下だとも言われている。そういう歴史を知ると、この輝きに満ちた水と緑と花の大地の自然の苛烈さを思い知る気がする。

     オジロワシ

 来た道をトドワラまで戻る途中、頭上を低空飛行で横切る大きな鳥に出くわした。思わず自転車をとめて見上げる。なんとオジロワシである。褐色の巨体に真っ白な尾羽。間違いない。基本的にオジロワシは冬になると北から渡ってくる鳥だが、少数ながら北海道東部で繁殖するものもいる。きっと野付半島のどこかに営巣地があるのだろう。それにしても、あんな巨大なワシが大空を飛んでいるのを目にするとさすがに感動する。動物園で見るのとは全然違う。あんな風に飛べたらどんなに素晴らしいだろうと憧れにも似た気持ちで、東の空へ飛び去る雄姿を見送った。

     ハマフウロ

ハマフウロ(実は浜中町・涙岬で撮影) さて、野付半島といえば、やはりトドワラが有名。ナラワラはさっき見たが、こちらは海水に浸食されて死に絶えたトドマツ林である。国後島を望む展望台やレストハウスなどがある駐車場からトドワラまで1.5キロほどの遊歩道で結ばれているので、自転車は駐車場の片隅に残して、ほかの観光客に交じって歩く。
 あたりには原生花園が広がり、ここもすでに盛りは過ぎたものの、ハマナスハマフウロカワラナデシコなどピンク系の花がそこかしこで咲いている。
 道端に花の写真と名前を書いた札が立っていて、そのお陰でハマフウロは初めて名前と姿が一致した。これがそうだったのか。とても可憐な淡いピンクの花で、これまでにも浜中町の涙岬や霧多布岬など各地でしばしば見かけた花である。漢字では浜風露。これもなかなかいい。ただ、あとで調べてみると、ほかにエゾフウロとかチシマフウロとか似たような花があるようなので、すべてがハマフウロだったかどうか確証はないが、いずれにせよ、これまで見かけても、名も知らぬ「その他大勢」の花として見過ごしていたものが、これからは確かな名のある花として僕の意識の中にささやかな場所を占めることになった。こうやって少しずつでも自然に関する知識が増えていくのは喜ばしい。名前を覚えることによって、その存在に対する思いが深まるようでもある。

     トドワラ

トドワラ とにかく花咲く野道をたどっていくと、トドワラである。野付湾に突き出た砂州に白骨と化した木々が立ち尽くし、あるいは傾き、あるいは横たわる。まさに木々の死骸。ただ、想像していたほどの規模ではない。森というよりは林、それも疎林に近い。このまま浸食が進めば、いずれは完全に消滅する風景である。

 ひたひたと澄んだ水が寄せる浜辺を歩いていると、砂州の先端部に人気のない船着場があって、小さな遊覧船が停泊していた。
 野付半島の大半は別海町に属しており、特にこのトドワラは別海町の代表的な観光資源でもあるが、半島の付け根部分は標津町に属しているため、トドワラ一帯は別海町の海を隔てた飛び地のようになっている。そこで対岸の尾岱沼漁港と半島を結ぶ町営の観光船が運航されているわけである。
 キャンプ場でもらった観光パンフレットによれば、遊覧船からは「のんびりとひなたぼっこを楽しむゴマフアザラシの群れを見ることができます」とも書いてある。乗ってみたいが、自転車があるので、そうもいかない。
 しかし、水底まで光が届く遠浅の海を眺めていると、いかにもアザラシが棲んでいそうな気配はある。元来、水深が5メートル足らずと極めて浅いうえに海草が密生する野付湾はさまざまな生物を育むとても豊かな海なのである。特に北海シマエビの絶好の繁殖地として知られ、真っ白な三角帆に潮風を受けて走る打瀬船によるエビ漁は尾岱沼の風物詩でもある。これは6月から7月と10月が漁期だそうで、今は見られない。

     標津

 デラックスな観光バスがぞくぞくと到着して人波が押し寄せるトドワラをあとにして、フラワーロードをポン茶志骨まで戻る。
 帰りは追い風で調子が出てきたが、同時にペダルが重く感じられる理由も判明した。昨日の大雨でチェーンのオイルがすっかり流れてしまったようなのだ。ペダルを漕ぐと、キシキシという摩擦音が聞こえる。オイルは持参していないので、この先の標津でなんとかしよう。
 再び曇り空の244号線に入り、北へ3キロほどで標津(しべつ)市街にさしかかった。まもなく日用雑貨を売る店があったので、ここでスプレー式の潤滑オイルを購入し、さっそく店先でチェーンやギア周辺に注油してやると、たちまち自転車が元気になった。

 さて、標津の中心部にやってきた。知床半島の南の玄関口に当たり、また尾岱沼やトドワラへも近い観光の拠点で、かつては鉄道(標津線)が通じ、釧路からの直通列車も乗り入れていた。前回、知床半島の羅臼へ行った時には標津まで列車で来て、ここから羅臼まで約50キロの道のりはバス代を節約するためヒッチハイクをした。今はもう鉄道は廃止されてしまったが、旧根室標津駅に近い海岸に立つ北方領土館は記憶のままだ(その日は休館日で入れなかったのだが)。
 その北方領土館で展望室から国後島を眺め、北方領土関連の展示資料や北海道の野生動物の剥製などもざっと見てから、根室標津駅の跡地を訪ねてみた。

     根室標津駅跡

夏草に埋もれた根室標津駅跡 平成元(1989)年4月末で廃止になったJR標津線根室標津駅。辺境ローカル線の終着駅にしては立派だった鉄筋コンクリート造りの駅舎は完全に姿を消し、レールも撤去され、広々とした構内は夏草に埋もれていた。往時を偲ばせるものはほとんど残っておらず、わずかに信号機や標識灯の残骸が打ち捨てられているばかり。トドワラやナラワラのようにゆっくりと少しずつ死滅していくのと違って、人工の建造物はあっという間にこの世から消えていくのだ。野付半島のキラクも同じだったのだろうか。
 阿寒バスの営業所がある旧駅前広場に面して食堂が一軒(右写真の白い建物)。この店で羅臼へのヒッチハイクの前に腹ごしらえをした憶えがある。懐かしく思って入ってみると、店内の様子は昔のままのようだった。ちょうどお昼時でもあり、クルマで来た家族連れがラーメンを食べている。駅を失った“駅前”食堂でカツ丼を食べ、英気を養った。

     知床半島へ

 標津を出発したのは12時10分。相変わらず根室海峡沿いの国道を北上する。今日の目的地の羅臼まであと49キロである。前回は羅臼まで3台のクルマを乗り継いで辿り着いたのだが、途中に羅臼峠などの難所があって、あの道を自転車で走破するのは相当キツイはずだと覚悟はしている。
 標津川を渡り、5キロほど走った伊茶仁(いちゃに)で国道244号線から国道335号線が右へ分岐する。244号線は知床半島の付け根を横切って斜里・網走方面へ抜けてしまうが、335号線はずっと根室海峡に沿って羅臼へ向かう。要するに、ここからいよいよ知床半島である。ヒッチハイクで行った前回はこの分岐点が最初の乗り継ぎ地点でもあった。

 通称「国後国道」と呼ばれる通り、この先、右側には国後島の浮かぶ海がどこまでも続く。左側は草地から山林に変わり、アップダウンの繰り返しとなる。
 多くの旅人が憧れる秘境・知床半島。さすがにすれ違ったり、追い抜かれたりするバイクが多くなった。自転車もわりと頻繁にやってくる。グループで走っているのもいれば、僕みたいに単独で走っているのもいる。男が多いが、女の子もいる。いずれにしても、出会うたびに手をあげて挨拶を交わす。自転車同士ならすれ違うスピードもゆっくりだから表情もよく分かる。走るのに一生懸命であまり余裕のなさそうな人もいるし、余裕しゃくしゃくなのもいる。屈託のない笑顔もあれば、照れたような笑みもある。自転車の旅はいいなぁ、と思うのはこんな時である。調子に乗って走っていると、勢いよく走り去るトラックの風圧で帽子が飛ばされて、慌てて自転車を止めて追いかける、なんていう場面もあったりするけれど…。

 もちろん、旅の手段は自転車やバイクばかりではない。走っているクルマを見ていて、すぐに気づくのはRV車が多いということ。乗っているのはほとんどが家族連れなどの旅行者だろう。クルマというのはカプセル化した日常空間みたいなもので、殻の中に自閉しているようなところがあって、スピードも速いから、旅人同士だからといって挨拶を交わすこともほとんどないが、たまには助手席の人が手を振ってくれたりする。ルーフに自転車を積んでいたから、同じ自転車好きということで応援してくれたのだろう。

 それにしても、前回は車窓に「熊出没注意」の看板が目についた記憶があるのに、今日はあまり見かけない。道路自体も立派になったような気がするし、実際に沿道の各所で道路工事が行なわれている。現在の道路に代わる新しい道路やトンネルを建設しているところもあるようだ。今の道路でも十分に立派だし、わざわざ新しいルートに付け替える必要があるのか、と思うけれど、今や日本中で土木建設工事が地域経済を支える基幹産業になってしまっているらしい。国も自治体も財政状況は厳しさを増すばかりだが、一方で公共工事がなくなれば食べていけない人たちが出てくるという現実もあるのだろう。それが本当に必要なのかどうかを考えることもなく、山は削られ、森は伐られ、海は埋められ、すべてがコンクリートで塗り固められていく。そんな印象だ。

     薫別

 伊茶仁から十数キロ走って記憶通りの海沿いのカーブを曲がると、薫別(くんべつ)に着く。前回はここでまたクルマを乗り継いだ。あの時、ここまで乗せてくれたおじさんが、毎年秋になると川面が盛り上がるぐらいたくさんの鮭が遡上すると話してくれた薫別川の河口に開けた小さな集落。背後に山が迫る狭い土地に数軒の民家と郵便局と食料品店などがある。さほど暑くはないが、結構アップダウンがきつくて、やけに喉が渇くので、ここで飲み物を買ってひと息ついた。
 薫別の道端に立っていると、ヒッチハイクの少し不安な気分を懐かしく思い出す。あの日も根室海峡は灰色の曇り空を映して静かにうねっていた。季節の違いこそあれ、印象は変わらない。大きく変わったのは道路である。
 薫別から乗った菅原文太みたいな運ちゃんが運転するトラックはすぐさま山中へ入り、曲がりくねった雪道を上っていったはずなのに、いま前方に伸びているのは直線的な切り通し道路である。こんなになってしまったのか。上り坂ではあるものの、もっと険しい山道を覚悟していたから、少々拍子抜けである。

     国後島

 崎無異(さきむい)という土地を過ぎて、植別川を渡ると、標津町から羅臼町に入る。
 このあたりまで来ると、細長い国後島を横から眺めるようになるので、その大きさが実感できるようになってくる。なにしろ、長さは100キロ以上あるので、北の方は霞んで、どこまでが島影なのか判然としないが、北海道・本州・四国・九州を除けば、同じ北方領土の択捉島に次いで一応、日本で2番目に大きな島である。
 その国後の山肌がくっきりとしてきて、本当に近く感じられる。かつてトラックの運ちゃんが「望遠鏡で見るとロシア人が日本に向かって小便してるのが見えるよ」などと言ったのはこの辺だったろうか。

     羅臼峠

 峰浜を過ぎると、いよいよ羅臼峠への上りが始まった。
 あの日、それは3月の初めだったが、知床はまだ風と雪と氷の支配する厳しい世界であった。この峠道に沿って設置された防雪柵は吹き荒れる烈風のせいで無残に折れ曲がり、なぎ倒され、知床の冬の恐ろしさを物語っていた。この国道もひとたび吹雪に見舞われると、あっという間に雪に埋まり、羅臼は文字通り陸の孤島と化してしまうといい、実際、吹きだまりでは道の両側に7〜8メートルの雪の壁がそそり立っていた。内部にまでぎっしりと雪が詰まった峠の電話ボックスは強烈な印象として脳裏に焼きついている。
 そんなわけで、季節は全然違っても、羅臼峠は相当な難所であろうと覚悟していたのだが、どうも様子が違う。もっと急カーブの連続でぐんぐん上っていくような感じだったはずなのに、いま走っている道はそれほど曲がりくねっているわけではなく、勾配も思っていたほどではない。もちろん、疲れているし、坂道を上るのは楽ではないけれど、どうやらここも新ルートに切り替えられてしまったらしい。
 それがはっきりしたのは羅臼峠の頂上に着いた時である。前方にトンネル状のスノーシェルターが口を開けているではないか。こんなものはなかった。冬場はこの道路が羅臼と外の世界を結ぶ唯一の交通路であるから、吹雪のたびに不通になっては羅臼の人々にとって死活問題である。それでこんなに大掛かりなシェルターを建設したのだろう。しかも、峠区間は道路もほとんど直線化されている。あの曲がりくねった旧道はどこに消えてしまったのだろうか。

     羅臼

 スノーシェルターの入口で自転車の女の子とすれ違い、内部に反響するトラックの轟音に怯えながら闇を抜けると、あとは一気に下る。
 まもなく左に「ラウス自然とみどりの村」。ここもきれいに整備された新しい観光施設で、キャンプ場もある。羅臼峠を思ったより楽に越えられたとはいえ、なんだか疲れた。今日はここでおしまいにしようかとも考えたが、まだ14時半を過ぎたばかりだし、気を取り直して走り出す。
 羅臼の中心部まではまだ10キロ以上あるが、この先は人家が増えてくる。しかも、御殿みたいな邸宅が多い。羅臼は水産資源に恵まれ、非常に豊かなところなのである。トラックの運ちゃんが、ここは1億2千万だとかあっちは1億4千万だとか、各家の値段を教えてくれたのを思い出す。
羅臼の海と国後島 あの時はちょうど流氷と一緒に羅臼の海へ産卵にやってくるスケソウダラ漁のシーズンで、羅臼漁港は大変な活気だった。雪と氷に閉ざされた早春の北海道の中で羅臼の活況ぶりは際立っていたといってよい。当時、カムチャツカ方面から日本へ飛来するオオワシやオジロワシのほとんどが羅臼一帯で越冬していたのもスケソウ漁のおこぼれを求めてのことであった。しかし、水揚げの様子を眺めていて、目先の利益に狂奔して、こんな勢いで魚を獲りまくっていたら、そのうち資源が枯渇してしまうのではないかと不安に思ったのも確かで、実際に近年はスケソウダラの水揚げが激減している。流氷の減少など環境の変化もあるだろうが、やはり乱獲が大きな原因ではないか。スケソウ漁が不振に陥ると同時にワシも羅臼一極集中から各地へ分散して越冬するようになったという。

 さて、ついに羅臼へ到着した。時刻は15時半。
 前回はユースホステルに泊まって、宿で出してくれる船でワシやトドやアザラシを見るのが目的だったが、悪天候のせいで結局3泊もしてしまった。3日目にやっと乗せてもらった船で沖合の流氷のそばまで出かけ、ワシやトドを目撃できたし、泊まり合わせた仲間にも恵まれて、楽しい思い出がたくさんある。
 その懐かしい羅臼も少し様子が変わっていた。海岸が埋め立てられ、新しいバイパス道路ができ、ユースホステルを経営していた森下旅館も立ち退いて、ユースは場所を移して建っていた。玄関前にバイクが何台か並んでいる。おじさんとおばさんは元気だろうか、と思う。それから、トド料理の高砂食堂もまた寄ってみようと思っていたのに、「ラウス自然とみどりの村」内に移転したとの貼り紙が出ていた。異様な熱気に包まれていた漁港も今日は静かで、人気もあまりない。沖合に横たわる国後島の眺めとカモメの鋭い声だけが変わっていないように思われた。

羅臼漁港から知床の山々を見る 羅臼市街の裏手の丘にも町立のキャンプ場があるようだが、今日は知床横断道路を3キロほど上った地点にある国設羅臼キャンプ場にテントを張ろうと思う。すぐ近くに露天風呂「熊の湯」があるというのが決め手である。
 「熊の湯」は前回も同宿の仲間たちと雪道を50分ほど歩いて行った。とても熱い温泉で、水道も凍っていたので、まわりに積もった雪をぶち込んで温度調節をするという野趣溢れる露天風呂であった。

 羅臼川の急流に沿って宇登呂方面へゆるやかな坂道を上っていくと、ビジターセンターや温泉ホテルがあり、その先で勾配が急激にきつくなると、ついに力尽きて自転車を押して歩き始める。まもなく左手の渓谷から湯気が立ち昇るのが見えてきた。
 そういえば、こんなところだった。あの時はここから先は道路が閉鎖され、ゲートの向こうには1メートルを超える積雪で埋まっていたが、今は緑の中を急勾配が知床峠へと続いている。明日はこの坂道を峠めざして上っていくのである。

 「熊の湯」とは反対側の高台へと急坂を上ると、山林に囲まれたキャンプ場があった。山のキャンプ場はこれが初めて。曇り空を遮るように木々が鬱蒼と生い茂り、しかも地面はジメジメとして、やや陰気な感じである。こんな場所で、ヒグマが出没することはないのか、と不安になる。なにしろ、羅臼は過去にクマが人家に押し入り、冷蔵庫を荒らして逃げたという事件も起きた土地柄である。それでも、キャンプ場は大盛況で、ところ狭しとテントが並んでいるから、まぁ、これだけ人がいれば、クマも出てはこないか。
 ようやく場所を見つけて、テントを張り終え、荷物は適当になかに放り込んで、さっそく露天風呂へ疲れを癒しに出かける。

     熊の湯

 渓谷を渡って木立に囲まれた露天風呂へ行くと、裸の男たちがなぜかお湯の中ではなく、風呂の縁にずらりと腰掛けている。まだ明るさを残す空の下、なんとも異様になまめかしい光景である。
 なんでみんながお湯の外にいるのかはすぐに分かった。とても熱いのである。平気な顔をしているのは地元のジイサンばかりで、ほかの連中はウーッと唸りながら身を沈めても、すぐに飛び出してしまうのがほとんど。水道の水を加えようとして、ジイサンに怒られる人もいる。
「そんなに熱いのが嫌なら、入らなければいいんだ」
 隣で赤銅色に日焼けした気難しそうなジイサンが吐き捨てるように言った。誰にともなくぶつくさ呟くのを聞いていると、だんだんこのジイサンの言いたいことが分かってきた。
 要するに、この露天風呂は羅臼の人々が自分たちのために自分たちで作り、自分たちで管理しているものなのだ。だから、無料なのである。建設にあたって町はお金も出さなかったという。ところが、あとから町は勝手に観光の目玉として宣伝し、夏になると大勢の観光客が押し寄せることになった。どうやらそれが面白くないらしい。
 入れ替わり立ち替わりやってくるジイサンたちはただ入浴にきたというより、観光客の中にマナーの悪い奴がいないかどうかを交替で監視しているようでもある。実際、身体を流さずにいきなりお湯に入ろうとするのがいると、叱りつけたりしている。
 しかし、このジイサンたちを了見が狭いなどと言うつもりはない。僕だって、もし自分が地元の人間であったなら、こんな状況は愉快であるはずがない。
 そもそも旅人というのは、行く先々でその土地の日常への闖入者なのであるから、基本的に遠慮深くなければならない。どこへ行っても我が物顔というのは観光客の特性であって(なぜなら彼らはその土地にお金を落とすお客さんであるから)、その点が旅人と観光客の違いである。もちろん、一人の旅行者を旅人か観光客かと明確に区別できるわけではないが、僕はお客さんヅラするほど地元経済に貢献しているわけではないから、なるべく慎みをもって旅をしなければ、とは思っているわけである。
 それなのに、結果的には邪魔なヨソ者として地元の人々の楽しみを侵害しているとすれば、それは僕としても心苦しい。こうなったら、あまり「熱い熱い」と騒がずにこの熱湯風呂につかるのがせめてもの礼儀というものだろう。なにより、ここまで来て、お湯につかることなく引き返すのでは情けない。
 というようなことを一瞬のうちに考えて、足先をお湯につけると、痺れるような感覚が全身にジンジンと伝わり、思わず足を引っ込めたくなるが、そこをなんとかこらえて、風呂の底に足をつけて踏ん張り、それからゆっくり少しずつしゃがみ込んでいく。同じように我慢して熱湯に耐えている人と顔を見合わせて、お互いに妙な笑みを浮かべながら、ついに首までつかると、しばらくはなんとか我慢していられそうな気がしてきた。
 それにしても、大変な混雑ぶり。どうやら女湯の方はポンプの故障で入浴できないらしく、おばちゃんが「もうおばあちゃんだから構わないわよね」などといって男湯に乱入してきたりして、なんだかすごい雰囲気になってきた。

     羅臼の夜

 自分のテントに戻り、さて夕食は街へ下って何か食べてこようと考えていると、そばでテントを張っているおじさんライダーからお誘いがかかる。
 家族連れやグループが幅を利かす中で、ひとり寂しくキャンプをしている者ばかりが4人集まり、ささやかな宴会。宴の主催者である彼は羅臼の街で調達してきたという地酒と新鮮なボタンエビやホッケなどを用意していて、ホッケはその場で醤油と砂糖で煮付けてくれる。これが結構美味い。僕もキャンプ用の調理道具が欲しくなった。
「ほら、キミは自転車なんだからたくさん食べなきゃ」
 ほかはみんなバイクなので、分け合って食べたホッケも僕だけ1切れ多くもらってしまい、ボタンエビの刺身も勧められる。酒もカップになみなみと注がれる。一番若い大学生が使い走りで羅臼の街まで買い物に出かけ、つまみ類やキュウリなど買ってくる。
 それぞれが思い思いに選んだ旅の道筋が偶然にこの一点で交わり、近接してテントを張った者同士。旅の共感をしみじみと味わいながら、酒を酌み交わし、キュウリに塩をつけて齧っていると、旅はいいなぁ、とつくづく思う。
 しかし、そこにあるのは基本的に酒の肴ばかりで、自分の体力だけが頼りの自転車旅行者としてはいささか物足りない。というわけで、僕は酔っ払う前にみんなに「じゃ、ちょっと行ってきます」などといって羅臼の街へ出かける。
 すっかり暗くなり、クルマの通行もほとんど途絶えた3キロの坂道を一気に下って、街明かりの中にラーメン屋を見つけ、味噌ラーメンを食べ、食料品店で朝食用のパンとみんなへのお土産にバナナを1房買って帰る。

 「ずいぶん早かったねぇ」などと感心され、「これ、お土産」とバナナを出すと、思ったより喜ばれた。酒盛りをやっているところにバナナというのはどう考えても不適切な気もしたのだが、あっという間に食べ尽くされてしまった。残ったら明日の山登りのエネルギー源にしようと思っていたのだけれど…。

 これで終わりならよかったのだが、最後になって非常に困った事態が発生した。
 宴もお開きとなり、かなり冷え込んできたので、もう一度温泉につかってから、テントにもぐり込むと、寝袋が見当たらない。防水のために黒ビニール袋にくるんでいたのだが、それがどこにもないのだ。テントを組み立てる時、その辺に荷物を放り出していたから、そのまま仕舞い忘れたのかと思って探してみたけれど、やはり無い。
 考えられることとしては、①走行中に落とした、②盗まれた、③その他、がある。しかし、落としたというのは考えにくい。自転車の荷台にゴムバンドでしっかり固定していたし、もし途中で落としたとしても、すぐに気がつくだろうと思う。では、盗まれたのか。確かに荷物を置いたまま何度もテントを離れたから、可能性としてはありうるが、キャンプ場にいる人なら自分の寝袋を持っているだろうし、他人の寝袋を盗んでも仕方がないだろうと思うのだが…。それなら、ほかにどんなことが考えられるだろうか。
 さっき、たまたまそんな話題になったのだが、どこのキャンプ場でもキツネが出没し、ゴミ袋などをくわえて逃げていくということ。ここでは見ていないが、尾岱沼では確かにキツネが人間を恐れる風でもなくうろついていたから、そういうこともあるのだろう。しかし、キツネの鋭い嗅覚をもってすれば、化繊の寝袋なんて持っていかないだろう。とにかく、今のところ、僕の寝袋の行方は謎である。
 しばらく寝静まったキャンプ場を探し歩いたが、暗くてよく分からないので、今晩は諦めることにする。といっても、なにしろ寒いので、寝袋なしで寝るのは辛そうだ。というわけで、Tシャツの上に綿の長袖シャツ、トレーナー、下はジーパン、さらにレインウエアの上下まで重ね着して、足にはバスタオルをかけて寝る。それでもまだ寒いが、まぁ、凍死することはないだろう。今は夏なんだし…。でも、本当に夏なのだろうか、こんなに寒くて…。
 とにかく、今日の走行距離は111.3キロ。通算では619.4キロになった。明日は知床峠を越える。大変そうだ。


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