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湧網線の幻影を追って 1998年8月
今日の走行ルート:浜佐呂間〜計呂地〜中湧別〜湧別〜三里浜〜サンゴ岬〜キムアネップ岬(約105キロ)
廃止になった湧網線の跡を辿りながら、計呂地や芭露の駅跡を訪ねつつ、中湧別へ行き、さらに名寄本線湧別支線の廃線跡、サロマ湖の湧別側の砂嘴などをめぐるサイクリングの記録です。
雨の中の出発
いま、浜佐呂間の民宿にいる。昨日の夕方から雨だったが、今朝もまた予報通りの雨である。
レインウェアに身を包み、荷物の防水対策も万全にして、7時に出発。さほど強い降りではないが、それでも普通の感覚ならとても自転車で走る気にはならない天候である。
降りしきる雨を衝いて国道238号線を湧別方面へ向かう。
旧国鉄・湧網線は浜佐呂間からしばらくはサロマ湖を離れ、内陸部の集落を結んで走っていたが、国道はほぼ湖に沿って続く。といっても、林の中を抜けたり、丘陵を越えたりで、常に湖岸に沿って走るというわけでもない。
湖の岸辺に出ても、対岸は雨に煙って霞んで見えず、焦点の定まらない茫漠とした眺めはまるで海のようでもある。もっとも、風景を楽しむゆとりがあるはずはなく、顔をしかめて濡れた路面を見つめ、ひたすら黙々とペダルを踏み続ける。
出発時よりも雨が強まり、靴の中まで浸水してきた。気持ちが悪いので、途中にあった公衆便所の軒下で靴も靴下も脱いで、サンダルに履き替える。
誰に頼まれたわけでもないのに、なんでこんな雨の中をシャカリキになって突っ走っているのだろう。ふと我に返ると虚しさが込み上げてくるが、旅なんてものは本来、用もないのに、あちこちほっつき歩くことであって、そこに真っ当な意味を求めること自体がナンセンスなのだ。まぁ、それはそうだとしても、何もこの雨の中を走らなくても…とは自分でも思うが、まぁ、仕方がない。
道の駅
さて、サロマ湖の展望地として有名な幌岩山の麓を陰鬱な気分で走っていくと、「道の駅・サロマ湖」という施設があった。
この「道の駅」というものがいつ頃から出現したのか知らないが、今では各地の主要道沿いに続々と建設されているようである。高速道路のサービスエリアみたいなものだが、駐車場に食堂や売店、トイレ、公衆電話などが備わっているほか、さまざまな観光施設が併設してあったりもするらしい。クルマで旅行する観光客の多くは有名観光地以外は素通りしてしまう。そこで各市町村が地元に「駅」を設置して、客を引き寄せ、観光振興や物産販売に結びつけようという狙いがあるのだろう。ちなみにここは佐呂間町の施設である。
道の駅を実際に目にするのはこれが初めてだが、残念ながら営業は9時からで、まだ開いていない。せっかく雨宿りができるかと思ったのだが、仕方がない。また走り出す。
計呂地
温泉ホテルなどもある富武士(とっぷし)を過ぎ、やがて長い坂道にかかる。坂はいつでも辛いが、雨の方は小降りになってきた。
坂の頂上が佐呂間町と湧別町の境で、そこで2人のチャリダーとすれ違う。同類がいると、やはりホッとする。
水飛沫をあげて坂を下ると、まもなく計呂地の集落。時刻は8時45分。浜佐呂間以来の大きな集落で、沿道に商店が並び、郵便局やガソリンスタンドなどもある。ここにはかつて湧網線の駅があった。ケロチなんていかにも北海道らしくて、響きがユーモラスで、好きな駅名だった。ただ、どんな駅だったかというと、何度も通ったはずなのに、あまり記憶がない。
その計呂地駅は今もあった。交通公園として保存整備されていたのだ。プラットホームには蒸気機関車C58−139号機と2両の客車が横付けされ、客車は簡易宿泊施設として開放されていて、この時間でもまだチャリダーやライダーがたむろしていた。1泊300円だそうである。
嬉しいことに雨がすっかり上がった。ここからは湧網線の線路跡と連れ添うように、終点の中湧別をめざそう。
計呂地を9時過ぎに出発して、国道をひたすら西へ。
やがて、再びサロマ湖の広大な湖面が右に広がり、その湖岸には雑草に埋もれた湧網線の路盤が現われる。国道と湖の狭間で、ほかに転用のしようがないから、そのまま放置してあるのだろう。できることなら、湧網線の全区間をサイクリングロードにしてほしかったけれど。
それはともかく、このあたりは車窓からサロマ湖を眺められる唯一の区間であった。列車の窓から撮った氷雪のサロマ湖の写真が今もアルバムに残っているが、それと同じ風景が変わらずにあった。もちろん、今は雪も氷もないけれど、湖面は陰鬱な鉛色で、上空の雲は重く低く、冬の印象と大差はない。
芭露
サロマ湖が山林の向こうに遠ざかり、線路跡もどこかへ消え、今度は「愛ランド湧別」という湧別町の道の駅を通過。
まもなく芭露(ばろう)という地名に出会う。かつて湧網線が通っていた集落で、ここにも駅が残っていた。しかも、これまでに見てきた卯原内や能取、計呂地の各駅は記念館になったり、駅舎が撤去されたり、公園になったりしていたが、この芭露駅はほぼ原形を留めているようだ。
小さな古い駅舎、板で土止めをした盛り土のホーム、かぼそい線路。すべてが往時のまま。唯一、変わったのはホームに立つ駅名標。もともと駅舎に背を向けて立っていたのをこちら向きに立て替えたせいで、隣接駅名、計呂地と中湧別の方向が逆になっている。そして、ホームも線路も、うっすらと草むして、レールは赤く錆びついている。構内をはずれたところで、線路は生い茂る雑草の中に消えている。もう湧網線が蘇ることはない。すべては歴史の中に封印されたのだ。
この廃駅は駅舎が無料宿泊所として開放されていて、数台のバイクが駅前に止めてあり、駅の中に人影が見えた。彼らはもう湧網線が生きていた時代を知らない世代だろうが、芭露駅は今もなお旅人の拠点になっているという意味において、「駅」としての生命を保っていると言えるのかもしれない。
中湧別
そんな芭露駅をあとに、湧網線の幻影を追い求める旅も最終コースとなった。駅名標にあった通り、芭露の次は終点の中湧別である(実際にはこの間に福島と五鹿山という2つの仮乗降場があった)。両駅間の距離は9.9キロ。再び線路跡を見失ったまま、国道を走り続け、湧別町から上湧別町に入ってまもなく国道238号線と242号線の合流点を左折。少し南へ走ると、中湧別の市街で、10時半に旧中湧別駅の跡地に建設された道の駅に着いた。
道の駅「中湧別」は尖塔をもつモダンな建築で、上湧別町文化センターTOMの中にある。内部には図書館、多目的ホールのほか、漫画美術館が併設され、これが最大の売り物になっているようだが、それにしても立派な建物である。平成ニッポンの田舎に続々と建設されている豪華施設の典型的な建築様式とも言えるけれど。
ところで、この文化センターの敷地がかつては鉄道駅であったとは俄かに信じがたいが、ちゃんと証拠が残されている。プラットホームの一部と跨線橋、それに除雪車や貨物列車の車掌車などが保存展示されているのだ。
あの中湧別駅がこんなになってしまったのか、との感慨を抱かずにはいられない。中湧別は名寄本線の途中駅で、湧網線を分岐するオホーツク沿岸地方の鉄道の要衝であった。湧網線が廃止されるのは十分予想できたけれど、一応は「本線」を名乗り、沿線に紋別市という都市を擁する名寄本線まで廃線になるとは思わなかった。しかし、北海道内のローカル線は情け容赦なく切り捨てられ、とりわけオホーツク沿岸部は釧網本線を残すのみで、あとは全部消えてしまったのだった。
湧別線
ところで、内陸部の遠軽から一直線に伸びてきた名寄本線のレールは中湧別で大きく左へカーブしてオホーツク沿いに紋別方面へ向かっていた。一方、ここで分岐する湧網線は逆に右へカーブして網走をめざしていた。この2つの線路の間に実はもう1本、海へ向かって直進する線路があった。それが通称「湧別線」、正確には名寄本線の支線である。中湧別と湧別駅の間のわずか4.9キロの路線で、この区間を列車が1日に朝夕のたった2往復だけ走っていた。もちろん、この区間も名寄本線の名寄〜遠軽間(138.1㎞)と同じ平成元年4月末で廃止されている。僕は昭和58年3月28日に一度だけこの線を往復している。べつにどうということもない路線だったけれど、今から思えば貴重な体験ではある(それほどでもないか)。当時の乗車記録は
こちら
。
湧別線の跡をたどる
その湧別線の跡を終点までたどってみよう。
中湧別から湧別までの線路はすでに完全に消滅して、その跡地がずっと道路になっていた。しかも、非常に立派な道路である。幅の広い2車線道路の両側に緑地帯があり、その外側にはカラフルなレンガ敷きの歩道がある。全体の幅員は鉄道時代の5〜6倍はあるだろうか。しかも、通行する車や歩行者はほとんどない。それもそのはずで、この区間には鉄道廃止前からの在来の幹線道路が並行しているわけだから、新たにこんなに立派な道を造る必要があったのか、と首を傾げたくなる。
とにかく、もはや鉄道時代の面影は見出せないまま、のんびり5キロ近く走ると、前方に現われた広場がかつての湧別駅跡地らしい。現在は「すぱーく湧別」という屋内ゲートボール場をはじめ、湧別町立図書館、文化センターなど真新しい豪華公共施設がひっそりと立ち並んでいる。
何か鉄道時代の遺物はないかと探したら、突き当たりの新しく立派な消防署の前に「湧別駅の跡」の碑があった。亡くなった人の骨壷を目にして、こんなに小さくなってしまったのか、と思うのと似た気分になった。
湧別の集落の北側はオホーツク海である。湧別川の河口に漁港があり、ホタテの貝殻が山積みになっていた。そのそばに2匹のヤギが繋がれ、ムシャムシャと雑草を食べていた。この場所を今回の旅の北限とする。ちょうど正午である。
(湧別にて。ヤギと一緒に愛車の記念撮影)
三里浜
湧別をあとに海岸線と平行に東南東へ走る。ただし、低い丘に遮られて海は見えない。
次の目的地はサロマ湖の湧別側の砂嘴の先端・三里浜。そこまで続く道路の名は道道656号「湧別停車場サロマ湖線」。こんなところに鉄道時代の名残が見つかった。
濡れた緑の牧草地や畑の中を一直線に6キロほど行くと、サロマ湖の砂嘴にさしかかり、ほどなく右手に湖面が見えてきた。
常呂側の砂嘴は住む人もなく、自動車の乗り入れも禁止されているが、湧別側は先端近くまで道路が伸び、沿道には漁村があるほか、キャンプ場や民宿、リゾート施設まである。道はほぼ湖に沿って続くが、左手には相変わらず丘が連なり、木々が茂り、海は見えない。
湖畔の道を8キロほど走って、登栄床(とえとこ)という集落を過ぎると、ようやく左に海が見えて、湧別から40分弱で道路の終点、三里浜に着く。
砂嘴はこの先で途切れ、サロマ湖とオホーツク海を繋ぐ湖口になっている。これは昭和4年に人工的に開削されたものだそうだ。
浜辺の堤防には浦島太郎の物語の各場面がカラフルに描かれている。海岸砂丘の末端部にあたるこの一帯が「竜宮台」と呼ばれているからである。明治・大正期の文筆家・大町桂月がサロマ湖の砂嘴を、まるで竜宮へ続いているかのようだ、と賛美したのに因んでいるらしく、常呂側の砂嘴の道も「竜宮街道」と名づけられている。
その竜宮台には三里浜キャンプ場があり、かなりの賑わいである。ここでテントを張るのも面白そうだが、明日のことを考えて、今回はやめておこう。次回があるかどうか知らないが。
登栄床
20分ばかりの滞在で13時ちょうどに竜宮台をあとにして、来た道を引き返す。
ホタテ貝とシマエビの漁で潤っているのか、御殿のような家が並ぶ登栄床の集落に藤尾シーフロンティアというホタテ料理の店を見つけ、ここで昼食。
帆立定食(1,200円)を注文したら、ホタテ焼きにホタテ刺身、ホタテフライ、ホタテ汁とまさにホタテ尽くしで、ボリュームもある。鮮度も高いから味は言うまでもない。これは後で知ったことだが、地元の旅情報紙にも「ホタテ定食がメチャクチャうまい店」と紹介されていて、メチャクチャかどうかは知らないが、とにかく美味かった。
キムアネップ岬へ
サロマ湖最西端に位置するサンゴ岬に立ち寄り、丁寧という土地で国道238号線に戻る。ちょうど芭露と中湧別の中間地点である。時刻は14時半。あとは今朝走ってきた道を引き返すだけだが、また雨が落ちてきて、たちまち本降りになった。
再び濡れ鼠になって突っ走り、14時45分に道の駅「愛ランド湧別」に着き、ここで30分ほど雨宿り。
雨が少し弱まってきたので、再び走り出し、15時24分に計呂地を通過。
丘陵地帯を越えて佐呂間町に入ると突然雨が止み、それどころか路面も全く濡れていなかった。
結局、この日はサロマ湖南東部に突き出たキムアネップ岬のキャンプ場にテントを張る。
再び雨が降り出したが、5キロ離れた浜佐呂間まで夕食の買い物に出かける。
湿原地帯から湖畔の樹林帯に入ると、まさに緑のトンネルで雨も気にならなくなった。走る車もほとんどないし、自転車も軽いからビュンビュン飛ばす。前方をキツネが横切ったり、林の奥からエゾセンニュウの澄んだ声が聞こえたりで、5キロという距離もちっとも遠く感じなかった。
夜はキャンプ場内の管理棟へ。ここにコインシャワーがあるのだ。管理人のおじさんと目が合うと、「寒いねぇ」と話しかけられる。ずっと話し相手を探していたのだ、といった様子である。
おじさんによれば、8月になってからこの半月で太陽が出たのはわずか2日間だけだといい、「農家は大変だよ」とのこと。佐呂間町はカボチャの生産が盛んだが、低温と日照不足のせいで、花が咲いてもすぐに落ちてしまうのだそうだ。管理人室にはストーブがついている。
「この寒い中でみんなよくキャンプなんかするよねぇ」
そう言われれば、そうかもしれない。
今日の走行距離は116.2キロ。明日は山を越えて一気に屈斜路湖まで行く予定。
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