このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

旅のアーカイヴス

名寄本線湧別支線&湧網線 1983年3月28日

 前夜22時15分に札幌を発った網走行きの急行「大雪5号」は午前4時08分、深い闇の中で早くも目覚めた遠軽駅に停車した。プラットホームに降り立つと早朝の寒さが身にしみる。
 降りたホームの反対側には古びたディーゼルカーが車内灯をあかあかとつけて待っていた。名寄本線の一番列車。622D名寄行きで、4両連結だが、そのうち2両は回送扱い。
 18分も停車していた「大雪5号」が4時26分に出ていき、その2分後、4時28分にこちらの名寄行きもエンジンを唸らせて発車。
 「大雪」からの乗り換え客がけっこういるはずなのに、車内は話し声もなく、とても静か。また眠り込んでいる人。闇の車窓にじっと見入る人…。まだ夜の続きで、車内灯の明るさまでが不自然に感じられる。始発列車の持つ独特の気分。

 20分で中湧別に到着。湧網線に乗り換えるため、ここで僕は降りる。いったん改札口を出て、静かな待合室で時間を過ごし、改札が始まると、湧網線の乗り場へ急いだ。
 5時14分発の湧網線始発、網走行き921Dは先の名寄行きが切り離していった2両の回送車であったが、今度も1両は回送扱い。時刻表を見れば、この1両が途中の佐呂間で切り離され、上り始発の湧別行きになることが容易に察せられる。しばらくこの1両、キハ22−321に付き合ってみようと思う(あとで気づいたのだが、この車両には2日前にも 浜佐呂間〜中湧別間で乗車していた )。

 わずかな客を乗せて発車した列車は名寄本線から分かれて右へカーブすると雪原を行く。
 真っ暗だった空もようやく白んできた。もし晴れていれば、ちょうどサロマ湖に昇る太陽を拝めそうだが、ちょっと雲が多くて微妙なところだ。
 列車は芭露(ばろう)を過ぎると広大なサロマ湖の岸辺に出た。湖はまだ全面結氷したまま、雪の下で眠っている。
 だいぶ明るくなり、湖畔の小漁村にも朝が訪れた。
 計呂地(けろち)で白い湖と別れると、列車は丘陵地帯にさしかかる。雲に隠れて昇った太陽の弱々しい光の中で、実に静かで牧歌的な風景が広がる。イメージとしてはパイプオルガンの金色の音色が遠くから微かに聞こえてくる感じ。
 すると、白い雪の上に黒い影がひとつ…。キタキツネだ。かなり遠くではあったが、長くて太い尾を見れば、すぐに分かるその姿。キツネを見るのは初めてで、やっと1度だけカメラのシャッターを押した。
 
 佐呂間到着5時58分。ここで降りる。後ろにつないできた回送車を切り離して、列車は網走へ向けて走り去った。
 残されたキハ22−321は6時14分発の湧別行き940Dとして折り返す。少し間があるので改札を出ようとしたら、駅員が周遊券に途中下車印を押してくれた(中湧別でも押された)。
 僕のほかにもう1人、同じことを考える人がいて、この2人を乗せて列車はいま来た道を戻っていく。キハ22−321にとっては今日の初仕事だが、お客がこんなに少なくては寂しかろう。

 再びサロマ湖を眺めて中湧別に着くと、ここで進行方向が変わり、列車は湧別へ向かう。湧網線が右へ、名寄本線が左へカーブしていき、まるで左右に支線を分岐する本線みたいだが、終点の湧別までわずか4.9キロしかない。この中湧別〜湧別間は名寄本線の一部という扱いで、独立した名称を持たず、列車も1日2往復しか走らない。しかし、歴史的に見れば、名寄本線は遠軽から湧別(開業当時は下湧別)をめざして建設されたのが最初で、大正5年に開業している。中湧別から紋別方面への路線は大正10年開業なので、中湧別〜湧別の線路が本線に見えるのはあながち間違いとは言えないのかもしれない。
 さて、列車は途中、四号線という仮乗降場に停まっただけで、7時16分に終点の湧別に着いた。湧別川の河口、オホーツク海に面した町である。もちろん、用はないので、すぐ引き返す。湧別駅は開業当時のものなのか、古い木造の駅舎があり、駅員もいたような気がするが、この辺は記憶が曖昧である。

 キハ22−321は923Dと名を変えて7時22分に湧別を発車。中湧別に戻ると、バックして再び湧網線に入り、今度は網走まで直通する。
 サロマ湖を見て、森を抜け、牧場や雪野原を突っ切り、常呂からはオホーツクの流氷を眺め、続いて能取湖の岸辺を半周し、網走湖畔をかすめて、10時03分に網走に着いた。

   湧網線は1987年3月、湧別支線は名寄本線の遠軽〜名寄間とともに1989年4月末に廃止されました。
   このあたりの廃線跡の探訪記は こちら


 

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