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《旅のアーカイヴス》

 稚内から東京へ  昭和60(1985)年3月14日〜16日

 昭和60年晩冬/早春の北海道旅行。東京を急行「十和田」で出発してから17日目の夕刻、最北の街・稚内に到達しました。あとはもう帰るだけ。ここでは稚内から東京までの長い道のりを列車と青函連絡船を乗り継いで3日がかりで帰った記録を紹介します。
 ちょうど3月14日は東北・上越新幹線の上野〜大宮間開業日で、これに合わせて全国ダイヤ改正が実施されました。北海道では札幌〜稚内間の急行「宗谷」と「天北」がディーゼルカーから14系客車に置き換えられ、東北地方では旧型客車が全廃となりました。


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急行「天北」の先頭に立つDE10-1695(稚内にて)     客車急行「天北」号

 雪晴れの稚内駅のホームには札幌行きの急行「天北」が横付けされて発車を待っていた。
 昨日、音威子府から稚内まで乗ったのも同じ「天北」号だったが、昨日と今日ではその姿がまるで違う。古びたディーゼルカーからイメージ一新、ライトブルーの車体に白いラインを2本巻いた14系客車列車に生まれ変わっていたのだった。先頭にはローカル線用のディーゼル機関車DE10-1695がついている。乗り込んだ車内はリクライニング式シートで、おんぼろディーゼルのくたびれた座席とは格段の差がある(乗車車両はオハ14-538)

 今日3月14日から実施された全国的な国鉄ダイヤ改正の目玉はなんといっても東北・上越新幹線の上野・大宮間開業である。しかし、北海道内に限れば札幌と稚内を結ぶ2本の昼行急行、「宗谷」と「天北」のブルートレイン化がひとつの目玉となっているようだ。これで道内の主な長距離急行列車(ニセコ、まりも、大雪、利尻、宗谷、天北)が14系ブルートレインで統一されたことになる。これを記念して国鉄北海道総局で「ブルートレイン・フェア」というのをやっていて、この列車の車内でも各座席にプレゼント付きのアンケート葉書が置いてあった。

 ところで、今日は同行者がいる。稚内のモシリパ・ユースホステルで同宿だった兵庫県のTさん。今朝は宿で知り合った仲間たちと一緒にバスで日本最北端の宗谷岬へ行ってきて、僕は今夜の札幌行き夜行急行「利尻」にでも乗ろうか、と考えていたのだが、Tさんが昼前の急行「天北」で塩狩温泉へ行くというので、僕もその気になり、2人分の宿の予約をしてもらったのだった。
 ついでに書いておくと、今年は流氷がオホーツク海岸だけでなく日本海側にも進出し、利尻・礼文島は完全に包囲されて船が通えず、一時は深刻な食料危機に陥ったという。流氷はさらに54年ぶりに天売・焼尻両島付近まで南下したということで、ようやく海が開いた今も宗谷岬にはまだ流氷がかなり残っていた。風が強くて、むちゃくちゃ寒かったッス。

 さて、11時43分、急行「天北」は稚内駅のホームを離れた。
 稚内の市街を眺めながら、ゆっくりとウォームアップして、南稚内を出ると、宗谷本線を右に見送って天北線に入る。昨日闇の中を走り抜けてきたところを今日は晴天の下、再び辿っていくわけだ。
 朱色の機関車に牽かれた6両の青い客車はしばらく稚内湾を見ながら走るが、声問を通過するあたりで海に別れを告げると、まっすぐ雪原を突っ切り、そのまま宗谷丘陵に足を踏み込む。
 昨日は暗くてよく分からなかったが、本当に雪が深い。しかも、無人の地だから、線路以外は除雪もされず、白い真綿のような雪がやわらかな曲線を描いて、堆く積もっている。まるで巨大なマシュマロの上を走っているようだ。
 沿線の道路も冬の間は通行止めらしく、雪の中から道路標識が頭だけ出していたりする。それで初めてそこに道路が埋まっているのが分かるわけだ。Tさんもしきりに感心して、
「ここなら列車から飛び下りても大丈夫だな」
 などと言っているし、僕も久しぶりに車内で話し相手がいるので、やけに多弁になる。

 列車は宗谷丘陵を横断して鬼志別に着いた。
 3年前にこの付近を散策したことがあって思い出深い。丘陵が雄大な稜線を描く広々とした土地で、今日は青い空と白い丘のコントラストがくっきりとして美しい。あの丘の向こうはオホーツクの海岸だろうか。今はただ未知の風景を想像するばかりである。いつの日か、あの丘を越えて、彼方の風景をこの目で確かめてみたい(と、この時思ったわけですが、まさか 丘の向こうの海岸を自転車で通りかかる日 が来るとは予想もしませんでした)

 鬼志別からは猿払原野の真ん中を縦断して、やがて右手に凍ったクッチャロ湖が見えると浜頓別。北見枝幸へ通じる興浜北線の分岐駅である(もちろん、当時は 猿払〜浜頓別間の天北線跡を自転車でたどる日 が来ることも想像すらできませんでした)
 浜頓別を発車すると、再び雪深い山間に分け入るが、同じ天北線でも昨日とはまるで印象が違う。旅の印象とは天気や時間、同行者の有無などによってガラッと違ってしまうものだ。
 昼はとうに過ぎているので、車内販売の弁当を買った。Tさんは弁当を開けると、横に包装紙を並べて写真を撮っている。いつもやっているらしい。同行者がいる時は恥かしいからやらないそうだが、僕の前では恥かしくないのか、平気で弁当の記念撮影をしていた。

 音威子府(おといねっぷ)には14時27分に到着。3分停車。ここから再び宗谷本線に入り、天塩川沿いに開けたところを走る。
 美深で下り「天北」と行き違い、名寄に15時30分に着くと、機関車を大型のDD51に付け替えるため14分停車する。すかさず鉄道マニア(いわゆる鉄チャン)と思しき人たちがカメラ片手に降りていくと、
「おお、さすが鉄チャンだなぁ」
 と小馬鹿にしたように言いながらTさんまでカメラを手にして行ってしまった。僕は座席で留守番。

 和寒(わっさむ)到着は16時21分。「天北」は塩狩温泉の下車駅、塩狩には停車しないので、1つ手前のここで降りる。
 乗り換えの普通列車まで1時間以上あるので、外へ出てみると、思ったより立派な街で、帰宅途中の女子生徒が目につく。男子もいるが、なぜか女の子の方が目につく(ような気がした)。それで「趣のある街ですねぇ」などと訳の分からないことを口走りながら、あちこち歩き回った。

     塩狩峠

 17時30分発の旭川行き342Dは塩狩峠への急坂をゆっくり上って、10分余りで峠の頂上にある塩狩駅に着いた。雪に埋もれた小さな駅で、周囲に人家はなく、列車から降りた数人はみんなユースホステルへ行く人だった。
 うずたかい雪の壁の間を1分も歩けば塩狩温泉の一軒宿、塩狩温泉ホテルで、ここがユースもやっている。ホテルのフロントで手続きをして、いかにも観光ホテル風の廊下を通って奥の方へいくと、ガラッと雰囲気が変わる。やはりユースホステルはユースホステル風の設備になっているのだった。

 その晩はゆっくり温泉につかり、夕食はみんなでジンギスカン鍋を囲んで、大満足。いつしか窓の外は雪がしんしんと降っていた。
 明日の夜はもう連絡船の上だ。


     塩狩〜和寒〜旭川〜富良野〜滝川〜札幌

 北海道で迎える最後の朝がやってきた。昨夜の雪も止み、よい天気になった。気温は氷点下8度。もうこのぐらいではちっとも驚かない。なんだ、その程度か、ってな感じである。
 そして、最後に神様からのプレゼント。ダイヤモンド・ダスト。窓辺に立って目を凝らすと、空気中で何かがキラキラ輝いているのが微かに分かる。ダイヤモンド・ダストは大気中の水蒸気が凍って、それが太陽の光で輝いて見える現象で、氷点下20度以下になると、よく見えるそうだが、氷点下8度でもわずかではあるけれど確かにキラキラしていた。

 昨日稚内から一緒にきたTさんは道東方面へ向かうといって早く発ってしまったが、僕はほかの人たちと朝風呂に入り、さっぱりした気分で出発の準備を済ませた。あとはもう帰るだけだ。
 それから玄関前にてみんなで記念撮影。こうして旅先で出会った多くの人々のアルバムに僕の顔が残ることになる。そのうちの何人かが将来アルバムをめくった時、そういえばこんな奴がいたなぁ、なんて思い出してくれるとしたら嬉しいことだ。日本中で一体何人が僕の写った写真を旅の記念に持っているのだろう。考えてみると、ちょっと面白い。

 記念撮影の後、駅のそばで雪に埋もれてひっそりと立つ長野正雄という人の殉職慰霊碑を訪れた。彼はこの塩狩峠の急坂で機関車から外れて暴走する客車を身を挺して止め、乗客の生命を救った鉄道員で、三浦綾子の小説『塩狩峠』はこの実話を題材にした作品である。

塩狩駅にて さて、塩狩駅9時06分に発車した音威子府行きのディーゼルカーはユースのヘルパーさんたちに見送られて動き出すと、和寒へ向かってどんどん下っていく。旭川とは反対方向だが、これで和寒へ行けば、塩狩には停まらない札幌行きの急行列車に乗れ、旭川に早く着けるのである。今日は愛知県から来ているYさんと旭川まで同行するが、その先はまだはっきりと決めていない。

 和寒で30分ほど待って急行「紋別」(遠軽始発、名寄本線経由、キハ56-118ほか))の乗客となり、再び塩狩峠を越えてノンストップで10時35分に旭川に着いた。
 ここでYさんと別れ、ひとり列車を降りる。今日は深夜便の連絡船に乗るつもりなので、まだ時間的には余裕がある。とりあえず、駅前から久しぶりで自宅に電話を入れ、いま旭川にいて、東京に着くのは明日の夜になることを伝えた。家にはめったに連絡をしないので、僕は旅行中ほとんど行方不明の状態になっている。

 それから数十分後、僕は旭川と富良野を結ぶ富良野線のディーゼルカー(キハ27-8ほか2両編成)に揺られていた。車窓に起伏に富んだ雄大な丘陵が続き、真っ白な丘にぽつんと木が1本…という感じのメルヘン調の風景が展開する。カレンダーの風景写真などでもお馴染みのヨーロッパ風の牧歌的な眺めだ。今度、北海道に来るチャンスがあったら、この辺にもしばらく滞在して丘の道を歩いてみたいと思う(その夢は 自分の自転車で丘の道を自由気ままに走り回る という最高の形で実現しました)

 旭川から1時間20分。カラフルな屋根の住宅が多くなり、スキー場が見えてくると、まもなく根室本線と合流して終点の富良野に着く。ドラマ『北の国から』で有名になった北海道のど真ん中にある町だ。そういえば、『北の国から』の最終回は雪の降る夜に浜小清水のユースホステルで見たのだった。

 その富良野では何もせずにわずか4分後の12時44分発の滝川行き普通列車に乗り換える(キハ56-25に乗車)。
 空知川の清流に沿って走る列車の車内では若い旅行客が居眠りしていたりして、まったくののんびりムード。僕も川の流れを眺めたり、旭川で買った新聞に目を通したりして過ごし、13時58分に滝川に着いた。

 滝川は函館本線上の駅で、旭川から直行すれば普通列車でも1時間弱の距離だが、そこを2時間半以上もかけて大回りしてきたわけで、あまり常人のすることではない。しかし、旅は近道するよりは遠回りした方が、急ぐよりはゆっくりした方が面白い、というのも一面の真理ではあると思う。

 さて、滝川駅のホームの立ち食いスタンドでそばを食べて、14時11分発の札幌行き急行「かむい6号」に乗車。同じ区間を走る特急「ライラック」に比べると気の毒なほど空いていて、ガラガラだ(乗車車両はクハ711-202)。
 車内はポカポカと暖かで、陽のあたる座席でのどかな顔してぼんやりしていると、たちまち眠くなる。

     札幌

 列車は白く明るい石狩平野をビュンビュン飛ばし、15時21分に札幌到着。
 ホームに降り立つと、あぁ、帰ってきたなぁ、と思う。釧路行きの夜行で発ったのが2月28日の晩で、今日はもう3月15日。この半月ほどの間に旅した最果ての地もすでに遠くなってしまった。
 東京から札幌に着いた時には憧れの都へついにやってきた、という感激があったけれど、道内をぐるっと巡って札幌に戻ると、旅ももう終わりか、と寂しい気持ちになる。しかし、実際には東京まではまだ1,000キロ以上もの長い旅が残っているのだ。
 函館を深夜に出航する連絡船に乗るには札幌を19時過ぎに出る特急に乗ればよい。時間はまだあるので、荷物はロッカーに預け、札幌の街をぶらぶらと歩き回る。さすがに中心部は汚れた雪が少し残るばかりで、路面も乾き、行き交う人々のファッションも最果ての地とは違って華やいだものが目立つ。

 街を徘徊するうちに日が暮れて、ひんやりとした空気を心地よく感じながら駅に戻り、この前も入ったカレーショップに寄った。半月前にはいかにも不慣れな新人だったアルバイトの女の子(ちょっと小泉今日子似)がすっかり一人前になって、忙しそうにテキパキと働いていた。

 さあ、あとはもうただひたすら列車と船を乗り継いで帰るだけだ。
 改札口の上部に設置された発車案内ボードに小樽行きや手稲行き、千歳空港行きといった近郊電車が次々と表示されては消えていく。それらの列車で家路を急ぐサラリーマンやOLを眺めていると、この土地で生活する人々の日常的な時間と空間の外側にいる異邦人としての自分というものを自覚させられる。そんな瞬間に旅の楽しさと寂しさが凝縮されているように思う。
 その案内板に函館行きの特急「北海4号」の名前が表示され、改札が始まると、やっと自分の居場所を見つけたような気分で僕はホームへ急いだ。

     北海4号

 道内最後の列車は古臭い80系ディーゼル特急で、2両だけの自由席車はすぐ満員になった(乗車車両はキハ80-105)。函館まで4時間半。夜は長い。
 札幌駅のホームに発車のベルが鳴り響く。いよいよ札幌ともお別れだ。
 定刻19時21分、ドアが閉まり、小樽・倶知安回りの函館行き特急「北海4号」はゆっくりとすべるように動き出した。ゴトゴトと構内のポイントを渡り、本線上に出ると、列車は旅の終わりに向けて次第に速度を増していく。
 後ろ髪を引かれる思いで車窓に流れる街のネオンや街路灯を眺めながら、僕はあの札幌駅の雑踏も、華やかな地下街も、カレーショップの女の子も…すべてが浜小清水や羅臼の思い出と同じように少しずつ、しかし、確実に遠ざかっていくのを感じていた。旅の終わりにはいつも一抹の寂しさがつきまとう。

 まったく灯のない夜の山路。列車の窓から漏れる車内灯に照らされて雪だけがほんのりと白い。
 時折、小駅の灯火がひとつ、ふたつ…車窓をかすめ、駅を過ぎればまた仄かに白い闇がいつまでも続く。
 いつまでも…どこまでも…果てしなく…。

 ふと気がつくと、車窓前方に街の灯がチカチカと瞬いていた。時計をみると、すでに23時半を回っている。知らぬ間に函館が近づいていた。
 「北海4号」は函館の夜景に向かってどんどん下っていく。車内にチャイムが流れた。
 まもなく終点に到着するというアナウンスがあり、青函連絡船と明朝の青森からの接続列車、さらに盛岡からの東北新幹線とその上野到着時刻まで案内される。新幹線だと明朝10時過ぎには上野に着いてしまうらしい。でも、それは僕には速すぎる。
 ところで、放送を聞いていると、僕の眠っているうちに連絡船の乗船名簿が配布されたらしく、
『連絡船をご利用されるお客様は先ほどお配りした乗船名簿を乗船の際、係員にお渡し下さい』
 などと言っている。しかし、これは函館駅でももらえるので問題はない。
 列車が函館に近づくにつれ、車内通路に行列ができ始めた。到着と同時にホームを走って連絡船桟橋へ急ごうという人たちである。「そんなに慌てなさんな」と言いたいところだが、まぁ、仕方がない。

 特急「北海4号」は23時55分に定刻通り深夜の函館駅3番ホームに到着した。ドアが開くと同時に一斉に車外に吐き出された乗客が勢いよく前方の桟橋へと流れていく。隣のホームには古びた客車に荷物車を連ねた札幌行きの夜行普通列車が発車を待っていて、その車内には北海道に着いたばかりの旅行客が大勢座っている。これから旅の始まる彼らを少し羨ましく思いながら僕は桟橋への階段を駆け上がった。

     青函連絡船「羊蹄丸」

 今度の連絡船は0時40分出航の羊蹄丸。「北海4号」のほかにもう1本、札幌からの特急で0時25分到着の「北斗10号」の乗客を引き継ぐので、桟橋待合室は真夜中だというのに大変な混雑だ。整理する係員も懸命である。
 長らく待たされて、ようやく乗船開始となり、ざわついた行列が少しずつ前進しだした。僕も一歩一歩足を進め、案内所で入手し、住所、氏名などを記入した名簿を係員に手渡して改札を通った。
 ハッチで乗組員に迎えられて船内に踏み込んだ瞬間、すなわち、それが北海道との別れの時であった。しかし、今はとにかく早く座席を確保することが先決である。それで普通船室へ急ごうとしたら、4日前に釧路の宿で一緒だった一橋大学の兄さんに会った。彼は自由席グリーン券を持っていて、1,100円だそうだから、僕も混雑した普通船室は避けて、そっちへ行くことにした。
 係員に尋ねると、そのまま船室に行って座っていればよいというので、2階のグリーン船室へ行って、出航後の検札の際にグリーン券を発行してもらった。グリーンと名のつく席に座るのはこれが初めてだが、さすがにゆったりしていて、夜行便で眠っていこうという場合に限っていえば、1,100円の出費をするだけの価値はありそうだ。一橋の兄さんと話をしているうちにグリーン席もかなり埋まってきた。
 彼は明朝、青森から大阪行きの特急「白鳥」に乗って新潟へ出て、上越線経由で帰京するそうだ。実は僕もそうしようと思っていたのだが、「白鳥」は連絡船が青森に着くと、みんなホームまでダッシュして、あっという間に満席になってしまうといい、疲れそうなので、やめにしたのだ。で、僕は東北本線をのんびりと鈍行乗り継ぎで帰ろうと考えている。新潟回りで帰るというのも素直じゃないが、青森からずっと各駅停車というのはもっと常軌を逸している。しかし、旅の余韻を味わうにはそれもいいのではないか、と思う。

 0時40分、青函連絡船2便、羊蹄丸は静かに函館桟橋を離れた。窓の外を夜景がゆっくりと流れていく。夜更けの街のまばらな灯がなんとなく寂しげで、心に染みる。
 検札も終わり、船内がそろそろ寝静まる頃、北海道の灯は暗い海の彼方に夜空の星の如く遠く微かに見えるだけとなっていた。僕の旅のページがまた1枚、めくられようとしている。


     青森

 羊蹄丸の青森入港は未明の4時30分。
 眠りから覚めて、窓越しに青森港の灯台が青く光っているのを目にした瞬間、自分はもう北海道にいないんだな、と思う。あの北の大地はまた遥か遠い憧れの地になってしまった。

 接岸作業が完了してタラップが下りると、一橋の兄さんとともに連絡船に別れを告げ、「白鳥」のホームへ行ってみた。満員かと思いきや、自由席ですら意外に空席がある。僕も乗ってしまおうかと思ったけれど、それはやめて、ホームで彼を見送った。
りんご市場 連絡船からの乗客を受け継いだ大阪行き「白鳥が4時50分に南へ飛び去り、その3分後には盛岡行き「はつかり」が発つと青森駅は急にガランとしてしまった。僕の乗る列車にはまだ間があるので、いったん改札口を出た。青森駅は最近素通りしてばかりだったので、こうして外に出るのは久しぶりである。
 しばらくは待合室のベンチに座って目を閉じていたが、退屈なので駅の外へ出てみると、本州とはいえ、やはり寒い。
 駅前にリンゴ市場があって、まだ真っ暗で人通りもほとんどないのに一軒だけ店を開けている。裸電球の熱っぽい光に心惹かれてのぞいてみると、おばさんが薄緑色のリンゴを剥いてくれた。甘酸っぱくてとても美味かったので、3つ買ったら、赤い小さなのを1個おまけしてくれた。

 すっかり夜が明けた青森駅。出航を待つ八甲田丸の黄色い船体を見上げる1番ホームに古ぼけた客車の列が横付けされていた。東北地方の旧型客車は先日のダイヤ改正で全廃と聞いていたが、6時36分発の盛岡行き普通列車はまだ旧型客車の編成だった。色あせた青い客車に交じってこげ茶色の車両もある。暇なので、先頭から車両番号をメモしておいた。

 ED75-1022スハフ42-2233スハ43-2088スハ43-2272スハフ42−2164スハフ42-2144

 列車は青森を出て、雪晴れの東北本線を走る。
 木とニスの匂いの入り混じった独特の香りに包まれて、骨董品のような汽車の旅。
 車窓に広がる雪景色は、大陸的で雄大なフロンティアの北海道とはまるで違って、もっと歴史と風土の匂いを濃密に感じさせる風景だ。黒々とそびえる杉の木にまで民族の血が流れているような気がして、なんだか外国から日本に帰ってきたような錯覚に陥るほど懐かしい景色である。これまで北海道からの帰りはいつも青森から夜行列車に乗っていたので、こんな感覚を味わうのは初めてで、ひとつの発見をしたような気になった。
 もうひとつ、北海道と本州で違うのは車内の温度。本州の列車は窓ガラスが1枚だけなので、北海道の酷寒地向け二重窓車両に比べると車内の保温が不十分で、やけに寒く感じる。まぁ、車両自体が古いせいもあるが、こんなところにも北海道と「内地」の差を実感する。

盛岡駅から岩手山を望む 列車は通学の高校生を乗せたり降ろしたりしながら、ゆっくりのんびり走り、いまだ雪深い十三本木峠を越えて、盛岡には10時41分に着いた。

 盛岡を25分の連絡で発車する一ノ関行きは真っ赤な50系客車列車(乗車車両はオハフ50-2323)。車内は地元客でほぼ埋まり、僕のような旅行者はほとんど見当たらない。
 新幹線の高架橋が目障りな車窓をぼんやり眺めていると、背後で人の気配。振り向くと、背もたれの上から顔を出していた小さな男の子がスッと隠れた。しばらくするとまたヌーッと顔を覗かせてはスッと隠れる。こちらもヒマなので、ちょっと相手をしていたら、母親が気づいて、どうもすみません、と謝った。

 新幹線の開業で、すっかりローカル線に成り下がった昼間の東北線は至ってのどか。山並みを背景に冬枯れの田園が薄らと残雪に覆われて、どこまでも広がっている。農家や鎮守の森が点景となって、絶景ではないけれど素朴で郷愁に満ちた眺めだ。これこそが東北線の魅力であると思う。

 一ノ関では11分待って、12時53分発の仙台行き電車に乗り換える(6両編成。乗車車両はクモハ455−12で、これはあとで気がついたことですが、6年前の1979年4月3日に郡山から上野まで利用した急行「まつしま2号」と同じ車両でした)。
 一ノ関で買った駅弁(ご飯が美味しかった)を食べながら、天気のよい昼下がりの列車旅。車窓には白鳥の飛来地として有名な伊豆沼や風光明媚な松島湾が広がり、目を楽しませてくれた。
 仙台到着は14時42分。

 今度は15時04分発の平行きに乗り換え。夕暮れ間近の常磐線を南へ下る。
 車内には卒業式を終えたばかりの女子学生の桜色の袴姿が目につき、春めいた気分が漂っている。しかし、窓外に目を移せば、ここまで来てもまだ残雪があるから、つい最近降ったのだろう。しかし、それも春の淡雪。いまだ深い雪に埋もれた北の大地の厳しさもここにはない。

 仙台からの乗客は駅に着くたびに減ってゆき、車内は次第に閑散としてきた。
 早朝の青森駅をあとにしてから、すでに10時間。早くも太陽は西に傾いている。寒かった青森の駅前でリンゴを買ったのがずいぶん遠いことのように思い出される。ましてや、急行「十和田」で夜を徹してこの道を北へ向かったことなど、遠い遠い昔の出来事のようだ。
 オレンジ色の夕陽が車内に射し込み、学校帰りの女生徒の頬を染めている。松林の向こうで太平洋が青さを失い、夕闇に溶け込もうとしている。小駅に灯がともる。そして、また夜がきた。

 平(現いわき)に着いたのは18時06分。ここからは18時10分発の特急「ひたち40号」で家路を急ごう。夕食用に弁当を仕入れて、特急電車に乗り込めば、東京まではもうあと2時間半余りだ。


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