このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
旅のアーカイヴス
紋別にて
身を切るような寒さの中、紋別流氷の宿ユースホステルのすぐ下の浜辺は静まり返っていた。オホーツク海に昇る日の出を拝もうと、同宿の仲間たちと一緒に早起きしたのである。明るさを増した海に波はなく、紋別港の赤色灯台は規則的に明滅している。
浜に置き去りにされた白い氷塊の上に立って海を眺めていると、雪がちらつき始めた。空には赤みが差してきたが、水平線のあたりには厚い雲が垂れている。
「ちょっとダメかなぁ」
半ば諦めながらもしばらく佇んでいると、雲の中から太陽がひょっこり顔を出した。残氷の漂う海がたちまち金色に染まる。ポケットに手を突っ込んで、寒さに震えながらも、みんなしばらくは言葉もなく立ち尽くしていた。いつしか雪も止んで、昨日の予報に反して、今日はよい天気になるかもしれないと期待してしまった。
ところが、宿を出る頃、外はまた雪になっていた。太陽も今は雲に隠れ、金色の海は鉛のように暗く重く沈んでいる。やはり予報通りの悪天候のようだ。結局、あの日の出は神様の特別サービスだったらしい。
寒風と雪の中、みんなでタクシーを2台呼び、10時頃、紋別駅に着いた。列車にはまだ少し間があるので、駅の裏山の展望台から紋別の街を眺めようと激しい雪の中、何人かが出て行ったが、どうせ何も見えないだろうと、僕は駅の待合室で残った人たちと時間を過ごす。
名寄本線
さて、10時36分発の名寄行きが来ると、僕はひとり車中の人となった。あとの人たちはほとんどが10時51分発の遠軽行きで南へ向かうのだ。恐らく中湧別で湧網線に乗り換えて、サロマ湖や網走方面に行くのだろう。
二つ目の渚滑を発車すると、左へカーブしていく支線が見える。内陸の北見滝ノ上へ通じる渚滑線で、今月末限りで廃止されてしまうそうだ。一度乗ったことがあるが、これが最後の別れ、ということになる。
列車は雪の降る中を北へ進むが、渚滑の次の沙留(さるる)を発車した途端にトラブル発生。動き出した列車がまだ加速しきらぬうちに失速して、そのまま止まってしまったのだ。
『少々お待ちください』
どうしたのかと思っていると、しばらくエンジンをアイドリングさせていたディーゼルカーはやっと動き出した。ところが全然パワーが上がらず、再び止まってしまう。
『只今、エンジン不調のため調査致しております。しばらくお待ちください』
で、しばらく待っていると…。
『エンジンの故障でございます。手当てを致します。もうしばらくご辛抱下さい』
と放送があり、すぐにエンジンがストップし、車内灯も消えて非常灯に切り替えられた。まだ時間がかかりそうだ。
あたりに静寂が訪れた。わずかな乗客はみな黙然と座っている。窓の外は雪が音もなくしんしんと降っている。そんな光景をずっと見ていると、時間の感覚が薄れていくような気がした。
ようやくエンジンがかかり、列車が動き出した。
『大変ご迷惑をおかけ致しました。エンジンの接続の関係が悪くて20分遅れて発車でございます』
その後はエンジンも快調で、列車は順調に走った。オホーツク沿いに北上してきた名寄本線のレールは興部から西に折れ、興部川沿いに開けた谷を分水嶺めざして登っていく。
途中、上興部で遠軽行きと行き違うため、臨時に16分も停車。再び時間の流れすら止まったかのような静謐が訪れる。降り続く雪はますます激しくなって吹雪の様相を呈し、雪原の向こうのカラマツ林も白く霞んでしまった。
15分以上待つと、雪化粧した遠軽行きがやってきて、タブレットを交換して先に発車していった。駅員が遠軽行きから受け取ったタブレットを名寄行きの運転士に渡して、こちらもようやく発車。37分の遅れ。
雪の峠を越えて名寄盆地に下りてくると吹雪はおさまり、少し晴れ間も見えてきた。列車は雪煙を立てて走り、遅れを回復できないまま、終点の名寄には13時20分過ぎに着いた。
名寄本線(興部〜中湧別)の廃線跡探訪記は
こちら
宗谷本線321列車
乗り換えの宗谷本線稚内行き普通列車は13時23分発で、すぐ発車だ。橋を渡って1番ホームへ急ぐ。すでに列車は到着していて、下校の高校生らで超満員。デッキにまで人が立っている。今度はディーゼルカーではなく、DD51が引く客車列車なのだが、客車は真っ赤なオハフ51が1両きりで、その後ろに青い郵便車とこげ茶色の荷物車が連結されている。その唯一の客車が満員というわけで、僕は客室内には入れず、デッキに立つはめになった。床は濡れて汚れて重い荷物も下ろせず、かなり辛い。たぶん美深で空くだろうと期待して、とりあえず美深までの30分間辛抱する。
その美深に13時49分に着くと予想通りドッと降りて、やっと席が見つかった。ここで上りの旭川行きと行き違いがあり、26分も停車するという。都会人の感覚からすれば「ふざけるな!」と怒りたくなるような超のんびりダイヤであるが、ローカル線ではよくあることだ。僕は東京人ではあるけれど、都会人ではないので、こういうことには相当に寛大な方である…と思う。外はいつしかまた牡丹雪が風に吹かれて舞っていた。
美深を14時15分に出て、途中の豊清水でも札幌行きの急行「天北」の通過待ちで7分停車した稚内行きは15時ちょうどに音威子府に着いた。
ここから稚内へのルートは日本海側回りの宗谷本線とオホーツク海側回りの天北線に分かれる。この列車は宗谷本線経由だが、あとから来る天北線経由の急行「天北」の方が稚内には1時間近くも早く着くので、ここで乗り換えよう。稚内行きの鈍行も「天北」からの乗り換え客を待つため39分の大休止。本当にのんびりした列車である。
さて、音威子府といえば駅のそば屋の味の良さで有名。というわけで、ホームのそば屋で天ぷらそばを食べた。何度か賞味しているけれど、地元のそば粉を使っているとかで、少し黒っぽくて腰が強くて本当に美味い。NHKテレビでも紹介されたそうで、その時の画面を写した白黒写真が誇らしげに飾ってある。その説明書きにあるNHKのNの文字が逆さまになっているのも相変わらずだ。
天北線
ホームの待合室では僕を含めて3人が稚内行きの急行を待っていた。外は時折雪がちらつくような天気で、ホームは一面真っ白。側線で休んでいる除雪車は一仕事してきたのか、赤い車体に雪がびっしりと凍りついている。その鮮烈な存在感がこの駅の雰囲気を引き締まったものにしている。
「天北」号の到着時刻が近づくと、駅員がやってきた。
「天北号は5分ぐらい遅れて来ますから…」
5分遅れの急行「天北」はディーゼルカーの5両編成で、足回りを雪まみれにして到着した。車内は混んでいて、しかも札幌を出て4時間も経っているから長距離列車特有の雰囲気が出来上がっている。僕は赤ちゃん連れの若い母親と相席になって稚内への最終コースを辿る。
15時40分頃、宗谷本線の鈍行とほぼ同時に動き出した急行「天北」は本線から右へ分かれて天北線へと歩みを進める。
すぐに天塩と北見の分水界である天北峠への上りにかかるが、このあたりは北海道でも有数の豪雪地帯で、駅の間隔もぐっと長くなる。また、この区間には小頓別、上頓別、中頓別、下頓別、浜頓別と、頓別の付く駅名が点在し、「天北」はそのうち小、中、浜と三つの頓別に停車していく。
小頓別を出た列車は窓の高さにまで積もった深い雪の中を縫って走る。巻き上げた雪煙がビュンビュンと窓ガラスに叩きつけられ、ものすごい。ガラスに付着した雪がたちまち凍りついて外が見えなくなってしまう。しかし、目の前で母親が赤ちゃんにお乳をあげているので、僕は外ばかり見ていた。
快調に走っていた「天北」号が急に速度を落として、そのまま止まってしまった。停止信号らしい。また何かあったのかと思っていると、すぐに動き出し、ゆっくりとすぐ先の駅に進入して停車。車窓に敏音知(ぴんねしり)という駅名板が見える。音威子府から27.1キロ地点にある山間の小駅で、もちろん本来は通過のはずだ。
『中頓別方面の雪害のため、しばらく停まります』
とアナウンスがある。車内は静かで乗客はみな平然としている。雪に逆らうことの虚しさを知り尽くしているかのようだ。凍ったガラスを隔てた外の世界は相変わらず雪が降り続いている。白く埋もれた村を眺めていると、本当によくもこれだけの雪が天から降ってきたものだ、と思う。しかし、もっと驚くのは、僕には非日常性の極致のように思われるこの風景の中で、それを当たり前の日常として生きる人々がいるということだ。日本というのは小さな国のようであって、実に広く、そして多様なのだ。
列車は結局、約20分も停まってから再び走り出した。除雪車でも通るのかと思っていたが、そんなものは来なかったし、「雪害」という以上のことは何も分からない。もっとも、このあたりは吹雪で列車が2、3日動かないということも珍しくないし、先月末にはこの先の浜頓別から出る興浜北線が1週間もストップしたそうだから、今日のは大したことではないのだろう。実際、中頓別に着いても特に異常はないようだった。
豪雪の山間を抜けた列車は30分近く遅れてオホーツク海に面した浜頓別に着いた。天北線の沿線では最も大きな町で、かなりの乗客がここで降りる。相席の母子もここで降りていった。
浜頓別から先は果てしなく広大な猿払原野が広がる。オホーツク海は見えず、ただひたすら氷雪に覆われた不毛の大地が地平線の彼方まで続く寂しげな眺めが展開する。そして、急行列車は走る。北へ、北へ。どこまでも、どこまでも…。
夕闇迫る鬼志別を出ると、列車は宗谷丘陵へとさしかかる。これを越えれば稚内。あと1時間で終点だ。
やがて、あたりはすっかり闇に包まれた。車窓には1つの灯も見えない。ただ線路際の雪がぼんやりと仄白く浮かび上がるばかり。本当にこの先に人間の住む街があるのだろうか、と不安になるぐらい遠く果てしない闇の鉄路を列車はひた走る。
それでも、時折、小さな駅があって、灯がともり、上り列車が「天北」号の通過を待っていたりするが、それも過ぎてしまえば、まるで夢か幻のように思えてくる。最後まで残った乗客の表情にはさすがに疲れの色が濃い。
やがて、列車は稚内湾の岸辺に出た。凍てつく車窓右前方にチカチカと街の灯が瞬いている。あれが稚内の灯だ。
札幌から7時間。僕の乗った音威子府からでもすでに3時間が経過している。その間に車窓が昼から夜へと移り変わったせいか、気が遠くなるほど長い旅だったように感じる。
まもなく車窓に市街地が現われ、再び宗谷本線に合流すると南稚内に停車。ゴールはもう目前である。
そして18時38分、急行「天北」は最果ての終着駅稚内でその歩みを止めた。28分遅れての到着。ホッと一息つくと、重い荷物と一抹の疲労感を抱えて凍ったホームに降り立った。
ところで、この「天北」号がディーゼルカーで運転されるのは本日限りで、明日のダイヤ改正によって機関車の引く客車列車に変身するそうである。その最後のディーゼル「天北」の後姿は自ら巻き上げた雪が全面にびっしりと凍りつき、、凄まじい形相になっていた。まさに長い旅路のすべてを物語るような顔つきである。
ところが、この列車の本日の仕事はまだ終わりではないらしい。休む間もなく折り返して、今度は宗谷本線経由の急行「礼文」として再び4時間半以上かけて旭川まで行くのである。「天北」の愛称標は早くも「礼文」に差し替えられ、赤いテールランプもすでに消えて、代わりに2つのヘッドライトがしっかりと闇の中に2本のレールを照らし出していた。
日本最北の地を走る急行列車として氷雪の鉄路を通い続けた、この年老いたディーゼルカーが今後どうなるのか、僕は知らない。ローカル列車として余生を送るのか、廃車解体という死の旅路につくのか…そんなことはどうでもいいことだ。ディーゼルカーなんて所詮はただの機械だし、どんなに寒くても、どんなに雪が降っても、故障して動けなくなるまで何度でも走り続けるのが役目なのだから…。しかし、大抵の鉄道車両はただの機械と言ってしまうにはあまりに人間的な顔つきをしている。だからこそ、ガチガチに凍りついた老体に鞭打って、往路よりさらに厳しいであろう夜の雪道をまた帰っていくこの列車に「ご苦労様」と声をかけてやりたくなるのである。
【データ】1985.3.13 雪
乗車車両
名寄本線 紋別⇒名寄 626D キハ40-155 + キハ40-?
宗谷本線 名寄⇒音威子府 321レ DD51-1059+オハフ51-37+スユニ50-507+マニ36-2253
天北線 音威子府⇒稚内 急行天北 303D キハ56-136(5両編成)
翌日の14系客車「天北」乗車記は
こちら
天北線廃線跡の探訪記は
こちら
戻る
トップページへ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |