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北海道自転車旅行*1999年 夏
オホーツク炎熱街道 Part 2


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     日の出岬の日の出

 北海道の日本海側の各地はどこも海に沈む夕陽が売り物だったが、オホーツク海側だと海から太陽が昇る。日の出岬も名前の通り、日の出の名所で、「サンライズ王国」と銘打っているほどである。

 4時に起床。東の空にはすでに鮮やかな朝の色が広がっていた。夜の闇は光に追われ、高い空は藍色に変わり。雲は桜色に染まっている。水平線近くの雲は早くも金色に輝き始め、静かな海は美しく燃える空を鏡のようにくっきりと映している。
 沢木漁港から一斉に出漁する漁船の隊列が沖合を横切っていく頃、水平線に太陽が昇ってきた。さぁ、今日もまた暑くしてやるぞ、と言いたげな太陽である。
 キャンプ場の背後の林ではアオバトの群れが「アーオ、アーオ、オアーオ」と独特の声で鳴いていた。

 6時過ぎに日の出岬を出発。国道を紋別方面へ走る。夕方にはサロマ湖畔まで行けるだろう。
 次第に海から離れて、丘陵地帯に入り、6時半に雄武町興部(おこっぺ)町の町境を越える。ホルスタインのいる牧場からラジオ体操が聞こえてきた。

(オホーツク海と牧場)

     興部

 6時45分に興部の中心集落に到着。かつて国鉄の名寄本線が通じていた町である。
 名寄本線は内陸の都市・名寄から北見山地を横断し、興部でオホーツク海岸に出て、海沿いに南下、紋別を経て、中湧別から再び内陸に向かい、石北本線の遠軽へ至る138.1キロの幹線で、興部駅で北へ興浜南線を分岐していた。興浜南線が廃線になったのは仕方がないとしても、まさか名寄本線まで切り捨てられるとは思わなかったが、実際に国鉄民営化後の平成元年4月末限りで天北線と同時に廃止されてしまった。これで網走以北のオホーツク沿岸地方から鉄道が完全に消滅したのである。
 消えた興部駅の跡地が今は道の駅「おこっぺ」になっていた。鉄道時代の記念碑としてはD51−385のナンバープレートと動輪が保存されているほか、2両のディーゼルカーが宿泊施設として無料開放され、ライダーたちのバイクがずらりと並んでいる。ほかに写真や資料を展示した交通記念館もあるが、早朝なのでまだ見学はできなかった。

 7時05分に道の駅「おこっぺ」を出発。さらに国道238号線を南へ向かう。
 国道と並行して名寄本線の線路跡が続いている。すでに廃止から10年が過ぎたとはいえ、今でも鉄橋などはそのまま残っているから、懐かしいというか、寂しい気分になる。僕が名寄本線に最後に乗ったのは昭和60年3月のことで、降りしきる雪の中、列車がエンジントラブルを起こして20分ほど立ち往生したのを思い出す。

 (当時の記録は こちら

 地元ではもう鉄道のない生活が当たり前になっているだろうが、往時を知る人々の目にあの廃線跡はどんな風に映るのだろうか。

 興部から10キロほどで、海水浴場がある沙留(さるる)を通過。列車が故障したのはこの付近だった。サルルというおかしな駅名が印象に残っている。

     オムサロ遺跡

 やがて、興部町から紋別市に入ると、オムサロ原生花園。今はもう花も少なく、訪れる人も少ないが、休憩がてら散策路を歩き回り、ついでに高台にあるオムサロ遺跡公園にも寄ってみた。
 日本列島の歴史において、本州以南が縄文時代から弥生時代に移行した後も北海道では続縄文時代が8世紀頃まで続き、その後、オホーツク文化の影響も受けた擦文文化の時代がアイヌ文化の成立する13世紀頃まで続いた。
 オムサロ遺跡ではこの擦文時代以前の竪穴住居の跡がいくつも発見され、一部の住居や高床倉庫が復元されている。
 海を見下ろす高台の林の中を歩きながら、遠い昔の人々の暮らしぶりを想像してみると、現代人の生活がいかに自然から遠く隔たってしまったかを考えてしまう。自然との調和を我々は軽々しく口にするけれど、それは現代人にとって相当な覚悟を要する生き方でもある。

名寄本線の廃線跡 遺跡のすぐ下にはレールを失った名寄本線の路盤が生い茂る草に埋もれ、数本の枕木だけが無造作に放置されていた。現代の文明都市もいずれ同じように夏草の陰に消えていく日が来るのだろうか。

 オムサロをあとにして、まもなく渡るのが渚滑川。かつて名寄本線に渚滑という駅があり、そこから内陸の北見滝ノ上へ渚滑線という支線が通じていた。一度だけ乗ったことがあるが、もちろん、今はもうない。

 


     紋別

 渚滑川を渡れば、紋別市街は近い。稚内と網走の間のオホーツク沿岸部では唯一の都市である。都市といっても、かつて4万人以上いた人口が今は29,000人足らずにまで減っているそうだが、それでも、これまであまりに人口の稀薄な地域を走ってきたので、大都会に見える。
 すでに太陽は高く昇って、憎らしくなるほど強く照りつけている。おまけに市街は丘陵を背にしているので、坂が多くて、急激にペースが落ちる。
 ようやく紋別駅跡に立つバスセンターに着いた。走るのをやめると、どっと汗が吹き出し、ひとりだけむさくるしい人になっている。ここでしばらく休憩。あまりに疲れていたので、何時に着いて、何時に出発したのか、よく覚えていない。

 ところで、僕は紋別に過去2回泊まっているが、いずれも夕方の列車で着いて、そのまま宿に直行し、翌朝はすぐにまた列車でほかの町へ向かう、という形だったので、紋別の街そのものはよく知らない。
 ただ、紋別といえば、やはり流氷だろう。北海道は世界で最も低緯度で流氷が観測できる場所であり、なかでも紋別は流氷研究および流氷観光の拠点となっている。かつては流氷観光といっても圧倒的な氷の海を前に、ただ立ち尽くすばかりだったが、地元の観光業者にしてみれば、それではまったくカネにならない。そこで最近は巨大ドリルでガリガリと氷を砕きながら進む観光船に乗って流氷の海を見物するスタイルが主流になっているようだ。

     オホーツクタワー

 流氷のない夏の紋別では何が見どころなのか知らないが、紋別港の東はずれにオホーツクタワーという海中展望塔があるらしく、これは見過ごせない。
 紋別の海岸は昔とかなり様相が変わっていた。貿易港として港湾整備が進み、海面の埋め立てが行なわれ、人工海水浴場や公園も造成されている。ウォータースライダー付きのデラックスなプールまである。かつて泊まったユースホステルの下の浜辺で流氷の海に昇る太陽を拝んだが、今はその宿もなくなってしまったし、あの浜辺がどこだったのかもさっぱり分からない。
 記憶の風景とはあまりに違うので、とまどいを覚えながら、埋め立て地の突端から沖へ伸びる防波堤プロムナードの先端のオホーツクタワーへ行く。
 入場料が1,200円で、本日は潮流の関係で海中の透明度が低いとの断り書きがあったが、とりあえず入ってみた。
 防波堤から海上に突き出たブリッジを渡り、エントランスホールからまずは2階の展示室や3階の展望ラウンジを見てまわり、それから家族連れに混じってエレベーターでいよいよ海面下7.5メートルの海中展望室へ下りる。
 室内をぐるりと囲むように窓が並び、その外に明るい青緑色の世界が広がっていた。確かに透明度は高くないが、ガラスに張りつくように小魚が泳いでいたり、細長いギンポの仲間が姿を見せたりする。目を凝らせば、イワシらしき魚の大群が銀鱗を躍らせているのも微かに見えた。大満足とはいかないが、とりあえず来てみてよかったとは思う。流氷の季節にはどんな世界が広がるのだろうか。

     道の駅「オホーツク紋別」

 紋別港の東には道の駅「オホーツク紋別」がある。ここにはオホーツク流氷科学センター「ギザ」が併設され、夏でも流氷が展示されている。まぁ、流氷は何度も見たし、お金を払って入館するのも面倒なので、入場無料のエゾリスの写真展を見ただけで出発。駐輪場に昨日雄武で会った母子チャリダーの自転車が置いてあった。今日はどこまで行くのだろう。

     小向

 さて、紋別をあとにさらに炎天下の国道238号線を行く。海は遠のき、畑や牧草地や雑木林が広がっている。アップダウンも多い。頭がボーッとしてくる。
 路面から立ち昇る熱気をかき分けるように走って、小向という土地で見つけた「ふくちゃん食堂」で昼食。時刻は12時10分。
 当然ながら冷房はなく、流れる汗を何度も何度も拭いながら、餃子セット(餃子、小ライス、小ラーメン、新香)を食べる。いくら拭っても、顔には玉の汗。日本で一番暑苦しい人になっているかもしれない。
 その小向地区の海岸部にはコムケ湖が広がっている。オホーツク海とは砂州で仕切られた潟湖で、湖畔にはコムケ国際キャンプ場がある。何が国際なのか分からないが、ちょっと国道から逸れて寄り道し、キャンプ場の水場で顔を洗って、しばらく休憩。

 さらに道なりに進むと、オホーツク紋別空港が見えてくる。空港というよりは飛行場といった風情で、札幌丘珠空港との間にYS11が1日1往復している(所要時間55分)。ただ、紋別市街からは20キロも離れているので、今年の11月には紋別近郊の元紋別地区に移転し、ジェット化も予定しているそうだ。

     中湧別

 国道に復帰して、さらに東へ走る。
 左に遠くシノブツナイ湖を望みながら行くと、やがて湧別川を渡り、まもなく国道は右へ折れて、中湧別の市街地に入った。
 14時過ぎに道の駅・中湧別に着いた。昔の名寄本線中湧別駅の跡で、ここから網走方面の湧網線と湧別支線が分岐していた。その駅の一部が今も資料館として保存されている。鉄道時代にも何度か来たが、自転車で来るのも去年に続いて2度目である。

 (湧網線と湧別支線の現役時代の乗車記録は こちら

     サロマ湖

 道の駅に併設された漫画美術館をみて、国道238号線をさらに東へ。ここからは湧網線の廃線跡に沿ったルート。今日の目的地はサロマ湖畔のキムアネップ岬。あと35キロぐらいある。

 今も駅舎やホームがそのまま残る旧芭露(ばろう)駅前を過ぎ、坂道にかかると、前方に例の親子が見えてきた。紋別では僕の方が先行していたはずだが、あちこち寄り道しているうちに追い抜かれたようだ。長い上り坂で、お母さんはちょっと遅れ気味である。
 追いついて、母親に「こんにちは」と声をかける。「あ、こんにちは」と笑顔が返ってくるが、さすがに疲労の色が濃い。今日は浜佐呂間の民宿に泊まるそうだ。

 坂を越えると、湧別町道の駅「愛ランド湧別」があるので、ここでまた休憩。
 滋賀県から来ているという親子は2週間の日程で小樽から稚内を回って、ここまで来たそうで、明日、斜里まで走って今回のゴールとなるそうだ。去年も釧路から根室を回って中標津まで走ったというから、なかなか勇ましい親子である。ふたり揃って、白い長袖のTシャツ姿で、首にタオルをかけ、お尻が痛くならないようにサドルにタオルをぐるぐる巻きにしているところなどは母親らしい細やかなアイデアで微笑ましい。母親との2人旅は男の子にとっては一生の宝物になるに違いない。メガネをかけた大人しそうな少年だが、一体どちらが先にこんな大旅行を思い立ったのだろうか。

 ふたりよりもひと足先に道の駅を出発。
 まもなく海のように広いサロマ湖の岸辺に出る。湖岸に沿って草に隠れた湧網線の線路跡が続いている。

(サロマ湖。手前の草むらは湧網線跡)

 計呂地(けろち)の集落に着いた。湧網線の計呂地駅がそのまま交通公園となり、蒸気機関車と客車が保存され、客車は宿泊施設になっている。ここに湖畔の散策路があるので、少し歩いてみた。

 

 

 この寄り道の間にまた自転車親子に抜かれ、まるでウサギとカメみたいだが、湧別町と佐呂間町の境の丘陵地帯で再び追いついた。
 この区間はサロマ湖の岸辺に出たかと思えば、またすぐ森林地帯に入って丘を越えるという繰り返しで、結構きついが、長い坂を上りきった途端に前方に青い湖面が広がると、やはり感動する。



 16時45分に佐呂間町の道の駅・サロマ湖に到着。15分休憩。少し遅れて着いた親子はついに完走を断念したらしく、浜佐呂間の民宿に電話して車で迎えにきてもらうことになったようだ。母親の方はやれやれといった表情である。

 ふたりとお別れして、17時ちょうどに出発。いよいよラストスパートで、サロマ湖南東岸のキムアネップ岬には20分で着いた。サロマ湖の彼方に沈むきれいな夕陽が見えた。

(サロマ湖に沈む夕陽)

 キャンプ場の管理人のおじさんは去年と同じ人で、去年は管理人室にストーブがついていて、「みんな、こんな寒い中でよくキャンプなんかするよねぇ」と言っていたのを覚えているが、今年は夜も寝袋がいらないぐらいである。しかし、気温が高いせいか、蚊がやけに多い。
 浜佐呂間集落まで往復10キロの夕食の買い出しも含めて本日の走行距離は123.8キロ。明日は一気に知床半島まで行く予定。


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