このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
《世田谷の古道を行く》
六郷田無道 (その1 六郷〜池上)
世田谷のマイナーな、でも意外に重要だったかもしれない古道「六郷田無道」をたどるシリーズの第1回。今回は全編大田区内ですが…。
世田谷の古道
トップページ
六郷田無道 1.六郷〜池上
2.池上〜大岡山
3.大岡山〜世田谷
4.世田谷〜給田
5.給田〜田無
調査時期 2012年秋〜2013年春
六郷田無道とは
昭和59年に世田谷区が選定した「せたがや百景」の中に「No.48 上祖師谷の六郷田無道」というのがあり、次のように紹介されています。
「狭いうえにも交通量が多く、古い道とは想像もできない。しかし、道筋に寺や社を見つけると、かつてののんびりした往来が目に浮かんでくる。地形に素直に合っている古い道は、なぜか人の匂いがある」
世田谷区教育委員会が刊行した郷土史関係の文献にしばしば登場する古道「六郷田無道」は言うまでもなく今の大田区の六郷と西東京市の田無を結ぶ道という意味ですが、「府道・六郷田無線」とも表記されるように、古道の名前というより、江戸時代、あるいはそれ以前から存在する道路ネットワークの中から近代以降(恐らく大正9年の道路法施行時)に選定された東京府道の路線名と考えるべき名称です。しかも、この路線名は公的な正式名称ではなく、あくまでも世田谷の府道沿線住民が六郷の方から田無の方へ通じる道ということで名づけた通称だったようです。あるいは、「六郷田無道」の名称が出てくる『世田谷の地名』などの基本文献の執筆者である郷土史研究家・三田義春氏が便宜的に名づけたものである可能性もあります。従って、「六郷田無道」の名は実は世田谷区以外ではほとんど通用しない名称でもあります。
とはいえ、ほぼ全区間が近代以前からある古道であることは間違いありません。ただ、六郷と田無を結ぶための道だったわけではなく、区間によって異なる性格を持っていました。この点については、これから全区間を実地踏査しつつ、明らかにしていきます。
また、この古くからの道筋が府道に指定されたのも、まだ自動車は少なく、荷車を引く牛や馬も珍しくなかった時代の話で、クルマが道路の支配者となった現代においても幹線道路として機能している区間もあれば、かつての街道とは思えない住宅街の中の静かな道となっている区間もあります。
ところで、すでに書いた通り、「六郷田無道」、あるいは「六郷田無線」という路線名は調べてみても世田谷区内以外では見当たりません。同一ルートに相当するものとして、大田区内では「府道66号・駒沢池上線」および「府道103号・池上川崎線」(六郷経由)が昭和初期の地図で確認できます。ほかに環状7号線の前身にあたる「府道56号・大森田無線」があり、これも世田谷区でいう「六郷田無線」と一部で重なるようです。ただし、「大森田無線」のほうは現在の環七と同様に杉並区の高円寺方面に北上し、田無に通じる青梅街道と接続していました。
他方、武蔵野市の『武蔵野市百年史』には「府道59号・吉祥寺駒沢線」という道路が紹介されています。これは世田谷区給田(甲州街道)以北では現在の吉祥寺通りと一致します。このルートと人見街道(府中と杉並区の大宮八幡方面を結ぶ大変古い道)が交差する新川宿(今の三鷹市新川)には「六ごうみち」と彫られた道標があったそうです(『三鷹市史』)。
これらのことから、六郷から池上・駒沢を通って吉祥寺まで続く府道の幹線ルートが存在したことがわかります。しかし、『武蔵野市百年史』には吉祥寺と田無を直接結ぶ府道は出てきません。考えられるのは、「五日市街道」(府道4号・東京五日市線)を西へ行き、、今の武蔵境通りにあたる「府道75号・田無調布線」に入って北上するルートですが、世田谷方面から田無方面へ向かうとすれば、吉祥寺経由はやや遠回りになります。恐らく、吉祥寺までは行かず、途中の新川宿から人見街道の野崎を経て「田無調布線」を北上するか、狐久保から連雀通りに入り、「塚」の交差点から「田無調布線」に入ったのではないでしょうか。もちろん、府道にこだわらなければ、短絡ルートはほかにも考えられます。
このように「六郷田無道」の正式なルートは三鷹市以北が把握できていなかったのですが、その後、世田谷区教育委員会刊『世田谷の河川と用水』が「旧府道六郷田無線」に触れているのを発見しました。その経路を次のように書いています(執筆者は三田義春氏)。
「京浜線六郷駅〜道塚〜池上〜大下(東雪谷5丁目)〜洗足池西方坂上〜大岡山〜柿ノ木坂上〜二本松〜上馬〜弦巻(天神下・阿弥陀丸)〜世田谷横宿〜世田谷上宿〜桜校前〜満中在家〜横根稲荷〜河原根辻(注:根河原辻または根ヶ原辻の誤り)〜榎辻〜給田〜給田境〜新川谷端〜新川宿〜狐久保〜下連雀〜上連雀〜境〜中通〜富士見橋〜田無と通じる道路で中央線開通以前は六郷・大森方面と田無・武蔵境方面とを結ぶ重要道=地元では青山道といった」
この経路を読んだだけでルートを頭の中で思い描くことができる人はほとんどいないと思いますが、とりあえず、これが今のところ唯一の手がかりといえます。
いずれにしても、世田谷区内でいう「六郷田無道」とはかつては国道に次ぐ格を有する幹線道路だったことは確かです。しかしながら、ここでの関心はもっと古い時代の話です。世田谷区内の「六郷田無道」の歴史は相当古くまで遡ることができると思われ、少なくとも中世、あるいはそれ以前からおもに品川湊などの海岸部と府中など武蔵野の内陸各地を結ぶ街道のひとつだったと想像しています。また、江戸時代になると、目黒不動尊や池上本門寺、川崎大師などへの参詣道としても栄えたのでしょう。
最初に紹介した「せたがや百景」の「上祖師谷の六郷田無道」は選定からかなり年月が経ち、すでに選定当時の風情は薄れてしまいましたが、ルート全体をたどると、今でも貴重な歴史遺産を見つけることができ、それなりに古道の雰囲気を残しているところもあります。
ということで、世田谷区でいう「六郷田無道」を大田区の六郷からたどってみましょう。まずは、旧東京府道の池上川崎線、駒沢池上線、吉祥寺駒沢線を基本線に考え、三鷹市以北については、とりあえず『世田谷の河川と用水』に記されたルートを採用しようと思います。狐久保から連雀通り経由ですね。かなり長丁場になりそうです。
六郷
大田区の六郷地区は旧武蔵国荏原郡六郷領で多摩川最下流部(六郷川)に面した低地帯に位置しています。徳川幕府が整備した東海道は六郷・八幡塚村で多摩川を対岸の川崎宿へと渡りましたが、古代の東海道(官道)や中世の鎌倉街道はもっと上流で多摩川を渡っていました。六郷地域の中世以前の状況はよくわからないので、ここではあまり考えないことにします。
(六郷川=多摩川下流部)
ただ、旧東海道沿いの六郷神社(東六郷3丁目)には平安時代の天喜5年(1057)に源頼義・義家の父子が、この地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい前九年の役に勝利したので、その分霊を勧請したのが始まりという伝承があり、源頼朝も祖先の吉例にならって戦勝を祈り、梶原景時に命じて社殿を造営したと伝えられています。実際、六郷神社には頼朝や景時が寄進したと伝えられる手水石や石橋が現存しますが、当時、源頼義・義家や頼朝の軍勢が六郷で多摩川を渡ったとは考えにくく、信憑性は乏しいように思います。境内にある「八幡塚」に戦国時代に砦が築かれたという話もありますが、これも確かなことは分かりません。
とにかく、いつの頃からか、当地にあった塚山に源氏の氏神である八幡神(=応神天皇)が祀られて、「八幡塚」と呼ばれるようになり、それが六郷神社の起源となり、また旧村名の由来にもなったのでしょう。
さて、縄文海進の時代には海面下だった六郷地域には海退が進むにつれて人が住みつき、道も通じていたはずですが、むしろ水上交通の方が盛んだったと思われます。本格的な街道といえるのは、やはり徳川家康が整備させた東海道が最初でしょう。慶長5(1600)年には六郷と多摩川の対岸・川崎を結ぶ橋が架けられましたが、多摩川の氾濫により流失。その後も数度にわたって再架橋されましたが、そのたびに流され、貞享5(1688)年の流失を最後に渡し舟に切り替えられました。六郷の渡しは明治時代まで続き、明治7(1874)年にようやく八幡塚村の鈴木左内が橋を架けますが、これも明治11年に流され、渡し舟が復活。明治18年、明治43年と六郷橋が架けられるものの、いずれも流失。大正14(1925)年になって、ようやくコンクリート橋が完成し、以後、橋が流されることはなくなりました。現在の六郷橋は昭和59(1984)年に拡幅のために架け替えられたものです。正月恒例の箱根駅伝で往路1区の勝負どころとしてお馴染みですね。
(川崎側から見た多摩川と六郷橋)
六郷の渡しは現在の六郷橋より少し下流側にあったということですが、橋の上流側の土手下、北野神社に「六郷の渡し」の標柱があり、「日本橋へ四里半」と書かれています(文字はほとんど消えかかっています)。大体18キロですね。
(止め天神・北野神社。左手が多摩川土手。右は六郷の渡し跡の標柱)
この北野神社は通称、「止め天神」として親しまれています。8代将軍・徳川吉宗の乗った馬が暴走し、あわや落馬という寸前、この天神様の前で馬が止まって事なきを得たという逸話から、そう呼ばれていて、さまざまな災厄を止めてくれる神様として今も信仰を集めています。
境内には「河原橋」と刻まれた長方形の石が保存されていますが、これは多摩川の渡船場へ通じる道にあった小さな流れ(六郷用水)を渡る石橋のものだったようです。
ちなみに、この六郷橋のあたりは青梅・奥多摩方面の山林で伐り出し、筏を組んで多摩川を流れ下ってきた木材の集散地で、奥多摩の荷主と江戸の材木問屋との仲介や筏乗りへの宿の提供を行う「筏宿」が並んでいました。筏乗りたちは奥多摩から順調にいって3泊4日ほどで六郷(あるいは羽田)まで筏で下り、木材を引き渡し、筏宿で一泊した後、多摩川沿いの最短経路を選んで徒歩で帰っていったのです。帰路は早朝に六郷をあとにして、途中、調布の布田五宿か府中で一泊するのが普通だったようですが、急ぐ場合は午前3時頃に出発し、ひたすら歩き続けて、その日の夕食時には青梅に達し、夜遅く家に着くという健脚の者もいたそうです。そんな筏乗りたちが歩いた道筋が「筏道」として多摩川沿いの各地に残っています。なお、多摩川の筏流しは江戸初期に始まったと思われますが、最盛期は幕末から明治30年代までといい、大正末には終わりを告げています。このあたりについては、大田区の『史誌』第12号(1979年)所収の平野順治「消えゆく筏道—ある歴史の時間のなかで—」に詳しく書かれています(大田区立の図書館で閲覧できます)。
さて、「筏道」は北野神社の北側で西へ折れ、京浜急行・六郷土手駅前を通る土手道ですが、そちらはまた別の機会に譲るとして、今回は北野神社の向かい側に保存されている旧六郷橋(1925-84)の親柱と橋門(下写真)を見たら、「六郷田無道」を先に進みましょう。
(旧六郷橋の親柱と橋門)
(旧東海道。左側が現在の国道)
六郷橋のたもとから第一京浜国道と並行して東側に旧東海道が往時の道幅のまま残存しています(上写真)。しかし、それもわずか200メートルほどで、再び第一京浜に合流すると、すぐ右手に六郷地域の総鎮守・六郷神社(旧六郷八幡宮)の脇参道があります。徳川家康も参詣し、十八石の朱印地を寄進したほか、最初の六郷橋が架けられた時は当社の神輿による渡り初めを行っています。
(六郷神社。この道が最初の東海道だった)
慶長6(1601)年に開かれた当初の東海道は南に向いて立つ社殿からまっすぐ多摩川へ伸びる道筋(上写真)で、松並木がありましたが、その後、元和9(1623)年に東海道が神社の西側を通るように付け替えられ、脇参道が整備されました。
境内には伝源頼朝寄進の手水石や大田区内では最古の狛犬(1685年奉納。顔がユーモラス)、明治時代の六郷橋の親柱(?)などが保存されており、神門の外には伝梶原景時寄進の石橋もあります。
六郷〜池上
さて、六郷田無道は六郷神社の脇参道を過ぎてすぐ、「東六郷3丁目」信号で国道15号・第一京浜(東海道)から西に折れて始まります。ここが起点です。
ここから池上までの旧府道103号池上川崎線は東海道から分かれて、ひたすら池上本門寺をめざす道です。恐らくは東海道、あるいは川崎大師と池上本門寺を結ぶ参詣ルートとして発展した道なのでしょう。
(東六郷3丁目。画面奥へ向かう道が旧府道103号線)
以前、六郷田無道が世田谷から六郷までどの経路をたどっていたのだろう、と現代の道路地図を見ながら、あれこれ想像してみたことがありますが、このあたりはまったく想像外のルートではありました。
(京浜急行の下をくぐる)
すぐに京浜急行電鉄の高架線をくぐります。最近までは雑色(ぞうしき)第3踏切がありました。
ちなみに雑色はすぐ北にある駅の名前ですが、この地域の昔の村名でもあります。旧六郷村は八幡塚、雑色、高畑、古川、町屋の各村が明治22(1889)年に合併して成立し、昭和3(1928)年に町制施行、昭和7(1932)年には新たに成立した蒲田区に編入されています。蒲田区が大森区と合併して大田区となったのは戦後の昭和22(1947)年。また、東京府、東京市が廃止され、東京都となったのは戦中の昭和18(1943)年のことです。
とにかく、京浜急行線と交差して道なりに北西方向に進むと、区立高畑保育園(仲六郷3-19-12、旧高畑村にちなむ名称)の前を通り、前方にJR東海道線の小竹踏切が見えてきますが、その手前で右折して仲六郷3丁目第二公園に沿って北へ行き、区立六郷中学校南西角の八幡踏切で東海道線を渡ります(下写真)。この踏切名は六郷神社(八幡宮)に通じる道にちなむ命名なのでしょう。明治5(1872)年に日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開通した時からこの踏切は存在したはずで、つまり日本最古の鉄道踏切のひとつということにもなります。
(JR東海道線の八幡踏切)
線路を渡ると、北西に進み、西六郷2丁目43と49番地の間で南北に走る道に出ます。ここからはまっすぐ北上です。
ちなみに六郷神社からここまで辿ってきたルートは江戸時代のいつの頃かに付け替えられた道で、それ以前の旧道はこの地点からまっすぐ南に下り、今は東海道線の線路で分断されていますが、京浜急行の六郷土手駅付近で多摩川沿いの土手道(昔の筏道)にぶつかり、東に折れて、六郷橋のそばで東海道に接続していたそうです(大田区『大田の史話その2』)。
(旧街道も今は住宅街の道)
さて、このあたりでは西側に多摩川の土手が家並みの間に望まれますが、この一帯が旧古川村で、多摩川沿いには古川薬師として信仰を集めた真言宗・安養寺があります(西六郷2−33)。薬師・釈迦・阿弥陀の3如来像はいずれも平安後期の作といい、貴重な文化財です。
(古川薬師・安養寺)
区立西六郷小学校の西側を過ぎるあたりから商店が多くなります。古くからの道には駅から少し離れていても昔ながらの商店が並んで、ちょっとした商店街になっている、というのはよくあることです。このあたりが旧町屋村の中心集落でしょうか。明治25年創業という酒屋をはじめ、昔ながらの米屋や自転車屋などがあります。
(旧街道時代を知る明治25年創業の綿屋酒店)
やがて、交番のある信号があり、その先は京浜東北線の電車が並ぶ蒲田電車区です(下写真)。旧街道は線路の末端部をかすめるように北へ続きます。電車区の前身は国鉄蒲田操車場で、松本清張の『砂の器』で殺人事件の舞台となった場所であり、かつては引き込み線が道路を横切り、さらに西へ伸びて、今の多摩川2丁目にあった旧国鉄矢口火力発電所まで通じていました。現在も緑道となって痕跡が残っています。
(蒲田電車区)
ここから2車線に拡幅され、一直線に改修された旧街道は商店街となって、さらに北へ伸びますが、環状8号線(環八通り)との交差点の1つ手前の信号で、3本の道路が交わります。このうち北西から南東に斜めにクロスする道は六郷用水(南堀)の跡です。江戸時代の初めに開削された灌漑用水で、狛江で多摩川から水を引き入れ、世田谷を経て六郷地域まで流れ、流域を潤していました。
さて、環八を越えると、前方に東急多摩川線(多摩川〜蒲田)の踏切が見えてきます。
(環八通りを越えると東急多摩川線の踏切が見えてくる。右写真の撮影地点付近に旧道塚駅があった)
大正12年に目黒蒲田電鉄として開業したこの路線の蒲田駅は現在は東海道線(京浜東北線)の蒲田駅に突き当たるように造られていますが、開業当初は現行線より南側を回り込み、東海道線と並行するように蒲田に乗り入れていました(このページ最後の地図を参照)。そして、いま我々が辿っている旧府道・池上川崎線との交点に接して本門寺通駅が設置されていました。その後、昭和11年には駅の名は付近の村名をとって道塚駅と改称されます。しかし、蒲田周辺が昭和20年4月15日と5月24日の大空襲で焼け野原となり、鉄道も運行不能になると、復旧の際に現行ルートへの線路の付け替えが行われ、道塚駅は旧線とともに廃止されました。これらの戦災で蒲田区・大森区の人口が激減したことが、戦後昭和22年の両区合併、大田区誕生のひとつのきっかけになったようです。
東急多摩川線の踏切を過ぎると、続いて東急池上線(五反田〜蒲田)の蓮沼駅(蒲田の隣駅)の踏切を渡ります(下写真)。ここからは線路沿いに池上方面へ向かいます。もちろん、線路の方が後から敷かれたわけで、蒲田〜蓮沼〜池上間が池上電気鉄道によって開業したのは大正11年のことで、池上本門寺への参拝客を運ぶのが主要目的でした。当時は単線で電車は1両で走っていました(現在は3両編成)。
(池上線蓮沼駅の踏切を渡る)
なお、蓮沼駅前のバス通りに面した交番の右側から北へ伸びる細道の先には古刹・蓮花寺(真言宗智山派、西蒲田6-13-14)があります。寺伝によれば、平安時代の寛弘年間(1004-1011)に恵心僧都によって開かれたといい、その後、鎌倉時代に地元の領主(地頭)の荏原兵部有治が出家して蓮沼法師となり、鎌倉6代将軍・宗尊親王より御教書が下され、八町四方の土地を賜って、中興の祖となりました。寺は戦国時代の天文年間に兵火によって焼かれますが、本尊の十一面観音像は奇跡的に焼失を免れたことから、「火除観音」として信仰を集めたということです。なお、蓮花寺の右隣には熊野神社があります。
(蓮花寺と熊野神社)
では、蓮沼駅をあとに池上線の線路を左に見ながら北上して行きましょう。
(池上線と並行して北上)
やがて、線路の向こう側は池上7丁目・6丁目となりますが、この一帯が旧徳持村(明治22年、合併により池上村、大正15年、池上町となる)で、田園地帯が広がっていたと思われますが、明治39年には現在の徳持小学校付近に池上競馬場が開設され、日本人による洋式システムの最初の競馬が行われました。しかし、競馬熱の異様な高まりの弊害から政府は明治41年に馬券の発売を禁止し、池上競馬場も明治43年にわずか4年足らずで廃止となりました(競馬場は目黒に移転)。
(赤線が府道池上川崎線。競馬場の馬見所付近に池上駅ができる)
さて、池上線の線路は池上駅へ向かって左へ急カーブしていきますが、道は直進です。このルートには古道によく見られる道標がほとんど存在しませんが、それはこの旧街道がとても平坦な土地を通っていて、めざす池上本門寺の五重塔やお堂の屋根が彼方の丘の上にランドマークとして遠くからでもよく見えていたからだと思われます。
ここまで旧蒲田区内を北上してきましたが、池上からは旧大森区です。バスの走る池上通りを越え、なおもまっすぐ行くと、池上駅から続く現代の本門寺参道に合流します。この参道は池上駅開設より前の池上競馬場があった時代に池上村の中心部(本門寺付近)と競馬場を結ぶ道として整備されたのが始まりのようです。六郷用水(北堀)跡を過ぎ、左右に名物のくず餅を売る老舗の相模屋と池田屋があり、そこで突き当たるのが大森方面と鵜の木方面を結ぶ池上通りの旧道で、一説には古代の東海道とも言われる古道です(異説もあり)。江戸やさらに北の奥州方面と鎌倉や京都を結ぶ幹線道路で、平間の渡し、あるいは丸子の渡しで多摩川の対岸へ通じていたようで、地元では池上道とか平間道などと呼ばれていたようです。明治から大正にかけて、この道の大森駅〜池上間で乗合馬車が運行していました。
(池上通り旧道に突き当たる。左右にくず餅のお店。左側の角に道標)
相模屋の角に古い道標が残っています。元禄9(1696)年に建てられたもので、正面に題目を刻み、側面には「是よりひたり(左)・古川道・かわさき道」「是よりみき(右)・こすきみち(小杉道)・新田道」と彫られています。言うまでもなく、「かわさき道」というのが、六郷からここまで辿ってきた道であり、古川道とはそれが古川薬師(安養寺)の参詣道でもあることを意味しています。一方、「こすきみち」は丸子の渡しの対岸、中原街道の小杉へ通じる道であることを意味し、新田道とは鵜の木で分かれ、新田神社(矢口1-21-23)へ行けることを示しています。新田神社は南北朝時代に足利方の謀略により多摩川の矢口の渡しで命を落とした新田義興(新田義貞の子)の怨霊を鎮めるために村人たちがその霊を祀った神社です。
(萬屋酒店。明治8年の建築で国の登録有形文化財)
さて、先へ進みましょう。突き当たりを右に折れると、明治8年に建てられたという萬屋酒店(上写真)があり、すぐにその角を左折すれば、日蓮宗の大本山池上本門寺が見えてきます。「南無妙法蓮華経」の題目を刻んだ巨大な石塔(1811年建立、下写真)があり、世田谷区内から流れてくる呑川を霊山橋で渡ります。今はすっかり改修され、直線化された呑川ですが、昔は曲がりくねりながら流れ、大雨が降ると、たびたび氾濫していたようです。
(萬屋の角を曲がると題目塔があり、本門寺が見えてくる。改修された呑川)
その呑川を越えると、両側に本門寺の支院が連なり、本門寺の山門に突き当たります。この山門の右手に旧池上町役場があったようです。
(池上本門寺)
あたかも山のような台地上にある本門寺への石段は加藤清正が寄進したと伝えられ、96段ありますが、見上げると、改めて、六郷からここまでほとんど起伏のない平坦な道を来たのだと気づかされます。今より温暖だった縄文時代中期の海進期にはこのあたりまで海だったはずで、本門寺の台地はまさに岬のような場所だったのでしょう。
さて、池上本門寺です。弘安5(1282)年、日蓮宗の開祖、日蓮上人が病のため身延山を下り、常陸国へ湯治へ向かう途中、池上領主の池上宗仲の屋敷に逗留し、同年10月13日に没しました。その終焉の地に当たるのが池上本門寺であり、それゆえ日蓮宗の大本山となっているわけです(寺そのものは日蓮の生前に宗仲が建てたのが始まりのようです)。
96段の石段(此経難持坂、しきょうなんじざか)を登ると、丘の上に大伽藍が広がりますが、多くは戦災で焼失し、戦後に再建されたものです。しかし、江戸時代からの建築もあり、なかでも五重塔は関東最古の貴重なもので国の重要文化財に指定されています。
また、明治維新の際、京都・鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破って江戸攻撃に向かう新政府軍は慶応4(1868)年3月11日に池上本門寺に着き、ここに本営を置いています。東海道を進んできた軍勢はいま我々が辿ってきた道を通って本門寺に達した可能性も大いに考えられます。
(本門寺の本堂と五重塔)
(ここまでのルート)
とにかく、六郷から池上までやってきました。ここまでが旧東京府道103号線ということになります。六郷田無道はこの先、旧府道66号・駒沢池上線に入りますが、ページを改めて、池上本門寺前からスタートすることにします。
次へ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |