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《世田谷の古道を行く》

 六郷田無道 その3(大岡山〜世田谷)

 世田谷のマイナーな、でも意外に重要だったかもしれない古道「六郷田無道」を全区間たどるシリーズの第3回。

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   大岡山〜二本松

 東急大井町線・目黒線の大岡山駅前に立つと、掘割になった線路の南北両側に東京工業大学のキャンパスが広がっています。
 「六郷田無道」探索の旅は六郷を出発し、池上を経て、ここまでやってきたわけですが、雪ヶ谷からは並行する2本の古道を来ました。
 1本は台地の裾を呑川に沿うように北上し、中原街道を過ぎてから石川台〜大岡山の台地に上がってきた道。この道は途中から東工大キャンパスによって途切れ、構内にイチョウの並木道という形で残る道筋で、大田区と目黒区の境界になっています。池上本門寺前から中原街道までは旧「東京府道66号・駒沢池上線」ですが、中原街道以北は途中で途切れることもあり、大正〜昭和初期の地図上でも細く描かれ、府道には指定されていなかったようです。
 もう1本は雪ヶ谷台地の尾根を進み、中原街道以北では、こちらがかわりに「府道102号・目黒池上線」として東工大キャンパスの東側を北上してきた道で、現在は大岡山南口商店街となっています。

 さて、大岡山駅前からは北へ2本の商店街が伸びています。右(東)側が昔の府道102号線で、碑文谷の八幡神社や円融寺(元の法華寺)を経て、祐天寺や目黒方面へ向かう古道です。

 
(東工大正門前から北望。右手が大岡山駅。右写真が区境の六郷田無道。)


 我々が進むのは左(西)側の道で、目黒区と大田区の境界となっている道です。では、行きましょう。通りの右側が大田区北千束、左側が目黒区大岡山です。引き続き、西側は呑川の谷で、東側も洗足池の水源である清水窪の湧水(北千束1-26)の形成した谷戸地形になっており、その谷に挟まれた尾根を行きます。この尾根が大岡山なのでしょう。
 やがて、右側も大田区から目黒区南3丁目になり、大田区とはお別れとなりますが、最後に大田区の北端に位置する清水窪弁財天にも立ち寄りましょう。大田区と目黒区の境界の細い道(古道でしょうか?)を東へ行くと、まもなく道の右側が窪地になり、崖下から水音が聞こえてきます。そこが清水窪で、「東京の名湧水57選」にも指定された湧水がわずかながら今も健在です。鯉の泳ぐ池に弁天様が祀られ、滝もありますが、これは循環水によるものです。この水は暗渠水路を通って南へ流れ、最後は開渠となって清らかな水が洗足池に注いでいます。

(清水窪弁財天。背後の崖上の道が大田区と目黒区の境界)

 さて、ルートに戻ります。道の両側が目黒区になって、すぐ小さな交差点があります(下写真)。南3丁目、大岡山1丁目、平2丁目の境界です。この先、道がブロック舗装に変わる地点です。


(直進が世田谷方面。右から来るのが旧府道56号線。左が二子の渡し方面)

 ここに右(東)から来る道が、すぐそこに見える環状7号線の前身といえる「旧府道56号・大森田無線」です。大森本町の旧東海道・美原通りを起点に、いまの環七を進み、春日橋から春日神社前を経て臼田坂を上り、道なりに北馬込まで北上し、品川区との境界を西へ行き、再び環七の道筋を北西へ進み、宮ヶ丘から西へ折れて、現在地までやってきます。ここからは北へ行きます。つまり、我々もここからは府道56号線を行くわけです。大森田無線といっても、世田谷でいう「六郷田無道」と、ここから田無までずっと重なっているわけではなく、大森田無線は今の環七と同様に高円寺方面へ北上し、田無に通じる青梅街道に接続していたようです。つまり、56号線のルーツは江戸時代の堀之内道(日蓮宗の霊場・妙法寺への参詣道)です。
 一方、この交差点に西から来る道、これもかなりの古道です。鉄飛(てっぴ)坂を下り、呑川の谷を越え、対岸の台地へ上って道なりに行くと、昔の鎌倉街道と推定される目黒通りに繋がり、上野毛通りを経由して二子の渡しに通じています。逆方向を考えると、旧鎌倉街道(目黒通り)から分かれて品川方面へ向かう道筋だったのでしょう。
 さて、その鉄飛坂の上に「鉄飛坂帝釈堂」があります(目黒区平町2-18)。お堂の中にはいずれも帝釈天を主尊とする延宝8(1680)年・貞享2(1685)年・明治14(1881)年の庚申塔3基と、「南無妙法蓮華経」と刻まれた天保13(1842)年の題目塔1基があります。ここにも日蓮宗の影響が及んでいるわけです。
 そして、何よりも興味深いのは、お堂の外に置かれた2基の庚申塔のうち、青面金剛を刻んだ1基の背後にある「庚申供養塔」と文字が彫られた塔で、正面に「右ハ目くろミち 左ハ二子の渡し」、右側面には「左ハ池上 右ハほりの内 ミち」と彫られていることです。建立は文化7(1810)年です。この堂外の2基は他所から移されてきたそうですが、そのうち道標を兼ねた庚申塔がいま我々が辿っている道との交差点に南向きに立っていたことは明らかでしょう。

 
(鉄飛坂と帝釈堂。右写真はお堂の中)

(道標を兼ねた庚申塔)

 さて、旧府道56号・大森田無線となった旧街道をさらに北へ行きましょう。府道66号・駒沢池上線でもあるはずですが、当時の地図上では番号の若い56号線の陰に隠れています。そして、この道は芳賀善次郎氏『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』(さきたま出版会、1981年)によれば、室町時代に開かれ、多摩川「矢口の渡し」から北上してきて柿の木坂で鎌倉街道・中道の本道(東回り)に接続する道だったということです。
 交差点から道はブロック舗装になり、目黒区立大岡山小学校の先で環状7号線に飲み込まれてしまいます。なので、しばらくは行き交う車の騒音と排気ガスに耐えながら、我慢して進みましょう。

(環七に合流。画面左は大岡山小学校)

 ちなみに、旧街道と環七の合流点から東へ行くと碑文谷八幡神社と円融寺に通じています。そして、この先、環七の東側は目黒区碑文谷で、昔の碑文谷村です。地名の由来は諸説あるようですが、いずれにせよ、地名の通り、立会川の水源地帯で、谷の地形となっています。環七は立会川と呑川に挟まれた尾根筋を行くわけで、これが昔からの古道である証拠と言えるでしょう。
 なお、旧碑文谷村は明治22年に目黒区のうち環七の南西側の地域である旧衾(ふすま)村と合併し、碑衾村となります(昭和2年町制施行)。そして、碑文谷・衾の両地域は南北朝〜戦国期に世田谷領主だった吉良氏(足利氏の支族)の支配下にありました。

 さて、まもなく、環七は柿の木坂陸橋目黒通りと交差します。現在の目黒通りは改修・拡張された大通りで、環七と同様に古道の面影はありませんが、すでに書いた通り、旧鎌倉街道の中道本道だったと推定される道筋です。目黒通りの旧道は環七交差点から柿の木坂を下った東急東横線・都立大学駅(昔の柿の木坂駅)の西方で、現行ルートの北側に残っています。世田谷吉良氏の初代・治家が夭逝した子息の菩提を弔うため貞治4(1365)年に創建したと伝わる東光寺(昔は東岡寺。創建時は臨済宗、のち曹洞宗に改宗)や八雲氷川神社の前を通る道です。しかし、先にふれた『旧鎌倉街道探索の旅』で、著者の芳賀氏は鎌倉時代には、現行ルートの南側を迂回していたと推定しています。その理由として、現・目黒通りおよび北側の旧道だと呑川を本流と支流の2か所で渡らねばならないことを挙げています。従って、今の都立大学駅付近にある合流点の南側を迂回して1か所で渡ったはずだというわけです。もしそうだとしても、その鎌倉時代のルートはすっかり消えてしまっていますし、確かなことは分かりません。
 いずれにしても、旧鎌倉街道は柿の木坂から今の環七の道筋と重なるように北へ行きます。しばらく、我々も鎌倉街道の本道と思われる道をたどるわけです。環七なので全然風情はありませんが…。

 柿の木坂陸橋から北へ行くと、すぐに東横線の切通しを越え、やがて「柿の木坂1丁目」の五叉路があります。ここで環七から右へ分かれて目黒区五本木と世田谷区下馬の境をいく道が旧鎌倉街道と推定される道筋で、鎌倉から奥州藤原氏の征討に向かう源頼朝が死んだ愛馬を埋葬したとの伝承が残る「葦毛塚」を通り、目黒川の支流・蛇崩川を渡って渋谷方面に通じています。


(環七から右に分かれる旧鎌倉街道とその先の道の真ん中にある葦毛塚)

 世田谷区下馬は昔の馬引沢村で、頼朝の乗馬が蛇崩川の沢に嵌まって命を落としたことから、以後、馬を引いてこの沢を渡るように命じたという伝承に基づく地名です。江戸時代に上馬引沢と下馬引沢に分かれ、それを略して現代の上馬、下馬の地名が生まれました。

 さて、その旧鎌倉街道が分かれる五叉路の先でまもなく環七の東側は世田谷区下馬となり、西側の目黒区柿の木坂との境界を北上します。そして、駒沢通りと交差し、「野沢」の信号で目黒区から離れて、いよいよ世田谷区に入ります。

    野沢の二本松と品川道・品川用水

 ここには二本松という古い地名が残っていて、南東方向から合流してくるのが品川・目黒方面からの古道で、旧「東京府道58号・駒沢品川線」でもありました。この道は世田谷方面からいえば、「目黒道」、「品川道」などと呼ばれ、目黒不動尊への参詣ルートだっただけでなく、古来、品川湊(目黒川旧河口付近)へ通じる道として重要でした。この先の世田谷区内の六郷田無道は本来は府中をはじめ武蔵野の内陸各地と品川を結ぶ道として開かれたのでしょう。
 たとえば、府中の大国魂神社では古来、五月五日の大祭を前に神職が品川沖で汲み取った海水で禊をする「浜下り」の行事が行われており、府中から品川へ向かう道筋として世田谷区内では六郷田無道〜品川道のルートが利用されたのではないかと想像しています。
 江戸時代の安永8(1779)年と天保14(1843)年の大国魂神社の神主の日記(『六所宮神主日記』)の記述によれば、早朝に神馬を引いて府中を出発した神職一行は金子(いまの調布市西つつじヶ丘付近)の茶屋で休んだ後、馬引沢を経て、目黒不動尊に参詣し、品川宿へ至ったということなので、府中から甲州街道(甲州道中)を来て、滝坂道に入り、「目黒道」の道標があるの辻(いまの世田谷区祖師谷)から六郷田無道に入って、世田谷を横断し、ここ二本松に至り、さらに品川道で目的地へ向かったのではないか、と思うわけです。品川区教育委員会『品川の古道』(1998年)では金子と馬引沢を結ぶルートが特定されていませんが、最短ルートといえるのは六郷田無道経由だったと思われます。
 また、調布市教育委員会『調布の古道・坂道・水路・橋』(2001年)では、「六郷田無道」という名称こそ使っていないものの、まさに榎の交差点で滝坂道から分かれ世田谷(代官屋敷前)に通じるルートの存在に触れて、次のように書いています。

 「大国魂神社神官たちの品川海上禊祓式への往復が、遅くとも江戸中期には甲州道中経由になり、金子(現つつじヶ丘)より先のどこからか南に入って馬引沢(今の三軒茶屋あたり)に至ったという、『六所宮神主日記』の記録から推察されるルートを思い起こさせる点、注意を要する」(46ページ)

 『調布の古道〜』では、文化3(1806)年完成の『甲州道中分間延絵図』で甲州道中と滝坂道の分岐点に「品川道宿迄道法五里」ほかの表記があり、渋谷や目黒不動へも通じる旨、記されていることも紹介しています。ここからも甲州道中〜滝坂道〜六郷田無道経由が江戸時代には調布・府中方面から目黒・品川方面への主要ルートになっていたことが推察できます。ただ、この文献でも世田谷代官屋敷前〜馬引沢間のルートは解明されていません。上の引用文で馬引沢を「今の三軒茶屋あたり」と、やや正確さを欠く表現になっているのは世田谷以東は今の世田谷通りに入るルートを想定しているからのようです。同書が参照している世田谷区教育委員会『世田谷の古道』(1975年)でも六郷田無道は「青山道(滝坂道)」の別ルートとして一部区間が触れられているだけなので、六郷田無道がいかにマイナーな古道であるか分かります。ただ、昔はそれなりに重要だったと僕は考えているわけです。

 ところで、世田谷区内の六郷田無道が低地を極力避け、尾根筋を通っているのも古くからの道ならではの特徴で、江戸時代に玉川上水から分かれ、品川領へ流れていた品川用水もこの道筋に多くの部分で沿っています。水はいったん谷に下ってしまえば、その先へは進めませんから、尾根筋を通って品川へ通じるこの道は用水のルート選定にあたって大いに参考になったものと思われます。

 
(この分岐点に二本松と地蔵尊があった。左へ行くのは大山道方面。右写真は同じ交差点に画面奥=南東から合流する品川道))

 ちなみに、品川用水は寛文2(1662)年、熊本藩主・細井越中守綱利の弟・若狭守利重が品川領戸越・蛇窪両村に抱屋敷を拝領し、寛文3〜4年にかけて庭園の泉水用に玉川上水からの分水路を掘削したのが始まりです(『品川区史』では池の水のためにこんな用水を引くはずがないと疑問視していますが…)。しかし、用水の維持に莫大な費用と人手を要し、なおかつ地元の湧水で用が足りたことから細川家は寛文6(1666)年にこの水路を廃止しました。その後、水不足に悩んでいた品川の領民が用水堀の下賜を願い出て認められ、幕府の費用で拡張工事を行い、寛文9(1669)年に品川用水が完成しました。今の武蔵野市内で玉川上水から分かれた仙川用水の水を三鷹市内でさらに分水した品川用水は世田谷を北西端から数か所で土手を築いて低地を横切った以外は台地の尾根筋を南東へと斜めに横断して、いま我々がいる野沢まで到達し、このあとも品川道に沿って目黒区から品川区へと流れていました。しかし、昭和初期には役目を終え、戦後の昭和25年〜27年にかけて主に塵芥で埋め立てられ、その跡は道路となって、品川用水の痕跡はほとんど失われています。
 ただ、この野沢の交差点から品川道を500メートルほど行くと、水車橋というバス停があり(世田谷区野沢3-10)、そこに明治16年に設置された野沢水車の解説板などがあります。また背後の台地上には正徳寺(日蓮宗)があり、水神(馬引澤水神)が祀られ、水車の歯車なども保存されています。また、境内には庚申塔や馬頭観音、二十三夜塔などが集められています。

  
(品川道と水車橋バス停、野沢水車跡の碑と解説板、水神を祀る正徳寺)

 ところで、六郷・池上道と品川道が合流する二本松はそこに2本の松が生えていたことに由来する地名ですが、そこに昔は寛政9(1797)年に建立された地蔵尊(二本松地蔵尊)がありました。現在は野沢の龍雲寺(野沢3-38)に移されていますが、これが道標を兼ねています。台石の正面には「北 世田ヶ谷道 堀之内道」と刻まれ、側面には「東目黒道」、背面に「西大山道」と彫られています(ただし、古い写真では東目黒道が正面になっています)。西の大山道とは、今の国道246号線(玉川通り)で、二本松から左に分かれ、北西方向に進んで大山道に合流する短絡ルートがあり、今は目黒区と世田谷区の境界になっています。この道にも二本松から分かれてすぐ左手(目黒区東が丘1-12)に庚申堂があり、大山道との合流点付近(世田谷区駒沢2-17-1)には道標を兼ねた庚申塔があり(現在は世田谷郷土資料館に移設)、「東ハ赤坂道」「西ハ大山道」の文字とともに「右めくろミち」と刻まれています。

 
(龍雲寺と道標を兼ねた二本松地蔵尊)

 また、世田谷区の『ふるさと世田谷を語る〜上馬・下馬・野沢・三軒茶屋・駒沢(1〜2丁目)』には、二本松について、こんな記述があります。

「現在の宮坂二丁目に昭和九年まで、荏原郡の伝染病院がありました。そして夏場海岸地方で多く発生した伝染病患者は、品川道や六郷道を通って運ばれました。野沢の二本松のある所は、そうした時の途中の休憩場所にもなっていたということです」

 さて、さらに北へ行きましょう。まもなく「龍雲寺」の交差点に出ます。
 元禄12(1699)年に創建された龍雲寺(臨済宗)は当初、現在の世田谷区立旭小学校(野沢1丁目)付近にありましたが、安政2(1855)年の大地震で伽藍が大破し、今の環七沿いに移りました(野沢3-40)。当時の旧街道に面していたわけで、道と寺地の間を流れる品川用水に龍雲寺橋がかかっていましたが、昭和30年代末に環七の造成にともなって200メートルほど離れた現在地に再度移転し、龍雲寺橋は用水とともに跡形もなく消えました。また、二本松も環七工事で消え、地蔵尊は龍雲寺に移されたわけです。

 ここから大山道(現・玉川通り=R246)との交差点までは特に見るべきものもありません。途中に「野沢銀座」のバス停があるのは、環七ができる前の狭い旧道時代に野沢地区の商店街があった名残です。
 その環七を行くより、「龍雲寺」の交差点を右折してすぐ左に入り、環七の北東側を並行する道を行きましょう。旧野沢村の中心部を通る村道だったと思われます。まもなく、村の鎮守だった野沢稲荷神社が左に見えてきます。そして、その一角に小さなお堂があり、元禄8(1695)年の庚申供養塔が安置されています。

  
(左から野沢稲荷神社と庚申塔、鶴ヶ久保公園の池)

 神社の向い側は典型的な谷戸地形で、鶴ヶ久保公園となっています。今も湧水の池があり、弁天様が祀られていますが、これは目黒川の支流・蛇崩川の水源のひとつです。鶴ヶ久保は今は野沢の区域に含まれますが、昭和42年までは隣の下馬の領域で、昔の下馬引沢村に属していました。
 そもそも野沢村は17世紀半ば頃(万治年間=1658-60)に馬引沢村(いまの上馬・下馬)から独立したとされる村で、葛飾郡葛西領の野村次郎右衛門と荏原郡六郷領沢田の七右衛門が入植し、開墾したのが始まりと伝えられています。野村の野と沢田の沢で野沢になったというのです。それまでは馬引沢村のまぐさ場だったといいます。水の便が悪い上に鶴ヶ久保の湧水も品川用水の利用も許されなかったため、水田はなく、畑ばかりでした。当然、住民も少なく、寂しいところだったようです。

   上馬交差点

(環七は上馬交差点で玉川通りと首都高の下をくぐって北へ)

 さて、道はやがて国道246号線(玉川通り=旧府道1号・東京厚木線=旧大山道、矢倉沢往還)にぶつかります。上馬交差点です。
 アンダーパスの環七の上を越える玉川通りの陸橋は「旭橋陸橋」といいますが、旭橋はかつてここを流れていた品川用水にあった橋の名前でした。
 また、この交差点の南西角には昭和7年の世田谷区成立まで旧駒沢町役場がありました。旧荏原郡駒沢町は上馬引沢・下馬引沢・野沢・深沢・弦巻・世田谷新町の6村が明治22年に合併して成立した駒沢村が大正14年に町制施行したもので、「駒沢」は合併時に生まれた近代以降の地名です。

 現在は玉川通りの上に首都高速の高架橋が通っていますが、かつて道路の真ん中を渋谷と二子玉川を結ぶ路面電車(玉川電気鉄道、玉電)が走っていました(明治40年開業、昭和44年廃止。現在は地下に東急田園都市線)。そして、この交差点の西側に上馬駅が設置されていました(現在は駅はありません)。

 クルマの往来が激しいこの交差点付近の昭和初期の様子が『ふるさと世田谷を語る』の中に地元の方の回想として次のように描かれています。

「朝三時半過ぎになると、渋谷の方に行く野菜を積んだ荷車、汲取りに行く荷車が行列になり、牛馬の鳴き声、車の音で目をさます毎日でした。そして帰りの各車は、朝の八時半ごろから十一時半ごろで、二子玉川方面に帰っていきました」

 今では考えられないような光景です。当時は、この付近でも雑木林や竹藪のある寂しい土地が多く、野ウサギやキツネ、タヌキ、イタチ、ヘビなどがいて、神社の森にはフクロウの巣があるような田舎だったようです。夜間などは相当に心細い道だったのでしょう。

 さて、環状7号線は玉川通りの下をくぐって、そのまま北上していきますが、我々はここで環七とはお別れです。ちなみに環七の前身に当たる旧府道56号・大森田無線(昔の堀之内道)は環七より一本東側の道で、玉川通りから上馬2−1と14の間を入ります。すぐにまた環七と合流しますが、その手前、上馬2−7に上馬子育地蔵堂があり、その敷地内にひっそりと道祖神が祀られています。これが道標を兼ねていて「右 品川 池上 道」「左 ほりのうち道」の文字があります。

 ということで、「旧府道66号・駒沢池上線」はここまでです。ここから「六郷田無道」「旧府道59号・吉祥寺駒沢線」の区間に入りますが、ここからしばらくは府道の指定は受けていなかったようです。

   上馬〜駒沢

 とにかく、江戸時代から交通の要衝だった上馬交差点までやってきました。府中・大国魂神社の神職一行が「浜下り」で府中〜品川を往復した時の経由地で先に紹介した神主の日記に残る「馬引沢」とはこの場所を指しているものと思われます。ただ、現代において上馬交差点から世田谷ボロ市通り(昔の世田谷新宿)までは六郷田無道の中でもとりわけ古道としての認知度が低い区間といえます。
 それでも世田谷の古道に関心を持つ人々の間ではそれなりに知られているようで、インターネットで「六郷田無道」を検索すると、いくつかの探訪記が見つかりますが、そのほとんどは上馬交差点から始まります。ここから南は環七に飲み込まれて、面白くないと思われているのでしょう。我々も世田谷の古道としての「六郷田無道」探索のスタート地点ともいうべき場所にようやくたどり着いたわけです。
 ここから世田谷の中心部に向かって、さらに古道探索を進める前にもう一カ所。上馬交差点に近い宗円寺(曹洞宗)。寺伝によれば、鎌倉時代の文保元(1317)年に没した北条左近太郎(鎌倉執権北条氏の一族でこの地方の地頭だったようです)が建てた仏庵が始まりとされる古刹で、江戸初期の寛永10(1633)年、喜山正存和尚が中興開基といいます。境内の小堂には「ショウヅカの御婆様」が祀られ、風邪や咳止めに霊験があるとして信仰を集めました。また、道路拡張で移ってきた庚申塔は明暦4(1658)年建立で、世田谷区内では最古のものです。宗円寺には明治5年に就学所が開かれ、これが後に場所を移して旭小学校となりました。門前に「旭小学校発祥之地」の石碑が立っています。

 
(宗円寺と世田谷区内最古の庚申塔)

 上馬交差点から玉川通りを西へ行き、最初の角(上馬出張所・郵便局と交番の間)を北へ入ると、道なりに進みます。すぐに右手にあるケヤキの古木はきっとこの道の昔を知っているのでしょう(下写真)。品川用水も道の左側(南側)を流れていましたが、痕跡はありません。

 
(玉川通りから北へ入る古道。道の左側に品川用水が流れていた)

 東急田園都市線・駒沢大学駅から北へのびる商店街を横切り、上馬4丁目から駒沢2丁目に入ると、まもなく、五叉路があり、その角の小さなお堂に文化13(1816)年建立の馬頭観音が祀られています(駒沢2‐4-12)。馬頭観世音菩薩は観音様の変化(へんげ)したもので、頭上に馬の頭を戴き、髪を逆立たせ、忿怒の表情を浮かべているのが特徴で、人々の煩悩や無智、この世の諸悪を打ち破る力を持つとされます。それが、馬が陸上交通を支えていた時代に馬頭の連想から馬の守護仏と見なされ、馬の健康を願ったり、死んだ馬の供養のために人々は路傍や馬の埋葬地に馬頭観音像を建てるようになったのです。その習慣は江戸時代から明治・大正・昭和初期まで続いたようです。
 なお、この五叉路に北東方向から合流するのは旧堀之内道から分かれてくる道です。

 
(馬頭観音のある辻を画面右奥へ行くのが六郷田無道。品川用水は左奥から流れていた)

 さて、ここで旧街道はまっすぐ続く品川用水の流路といったん分かれて、駒沢2丁目30番地と33番地の間を斜めに入る道を行きます。「向井潤吉アトリエ館」の案内標識が目印です。
 旧街道とは思えないような住宅街の細道を行くと、やがて下り坂になり、四つ角を南東から北西に斜めに突っ切り、弦巻2丁目に入ります。

 
(旧街道とは思えぬ細道は交差点を斜めに横切り、右写真奥の駐車場の右側へ)


    弦巻

 弦巻は世田谷の現在の町名で最も古くから文献に現れる地名の一つで、南北朝期の永和2(1376)年正月29日に、世田谷領主・吉良治家(世田谷吉良氏は清和源氏の流れをくむ足利氏の支族で、室町幕府の奥州探題にも任じられた名門)が世田谷郷の上絃(弦)巻の領地の半分を氏神である鎌倉鶴岡八幡宮に寄進したという記録が残されています(鶴岡八幡宮文書)。この文書は「世田谷」という地名の文献上の初見でもあります。
 その弦巻に入ってすぐ水路跡(暗渠)を越えます。蛇崩川の支流で、駒沢緑泉公園(駒沢3-19)の湧水を水源とする細流です。旧弦巻村は蛇崩川の源流域に位置する村で、そのため品川用水は弦巻の西から南へと迂回して流れていたわけです。

(蛇崩川支流の水路跡)

 六郷田無道は水路跡を越えると再び台地上へと上り、まもなく駒沢公園通りに合流します。現在の駒沢公園通りは区画整理により拡幅・直線化された道ですが、その旧道は戦国時代に小田原北条氏の傘下に入った吉良氏が本拠地・世田谷城(現在の豪徳寺付近一帯)と、支城である奥沢城(現・九品仏浄真寺)や、やはり拠点とした蒔田城(横浜市南区)を結ぶ連絡路として開いたとされる古道です。ルート上には16世紀後半に築かれた深沢城(現在の都立園芸高校付近、城主は後北条氏の家臣・南條氏)や世田谷吉良氏第7代・頼康が天文18(1549)年に現在の世田谷区南烏山から火災による焼失を機に多摩川対岸の中原街道と川崎街道(府中街道)の交差点付近に移転させ、砦としての機能を持たせた泉沢寺(川崎市中原区上小田中、浄土宗)などが存在します。

(駒沢公園通りに合流)

 また、六郷田無道と駒沢公園通りの合流点付近(当時の弦巻村阿弥陀丸、弦巻2-12・13あたり))にかつて長徳寺(浄土真宗)という寺がありました。長亨2(1488)年創建と伝えられ、開基は第6代世田谷領主・吉良成高といいます。吉良氏が世田谷を治めた時代に世田谷城周辺に建てられた寺社の多くはいざという時に砦としての役割を担う目的があったとされますが、この長徳寺もそのひとつと考えられます。そして、吉良氏が支配していた現在の目黒区の旧碑文谷村や旧衾村へ通じる六郷田無道も重要な道だったのでしょう。
 長徳寺はその後、永禄2(1559)年に吉良氏の所領があった芝村(現在の港区芝4丁目)に移転させられます。 長徳寺のホームページ によると、これは江戸湾に面した芝の所領を漁業並びに水軍用に開発する拠点とするためと推測しています。なお、長徳寺は昭和40年に世田谷区上北沢1丁目の現在地に再度移転しています。

 さて、駒沢公園通りを北上します。まったく味気ない2車線の道路ですが、すぐに下り坂となり、谷底を東西に走る弦巻通りと交差します。交差点名は「向天神橋」で、ここを蛇崩川の本流が西から東へ流れ、そういう名前の橋がかかっていました。ふだんはそれほど水量は多くなかったようですが、大雨が降ると、たびたび氾濫したそうです。川跡は緑道となって通りと並行しています。

 
(向こうに見える信号が向天神橋交差点。右写真は駒沢公園通り旧道)


 ちなみに、交差点の手前、向天神橋バス停付近で南西方向から合流するのが駒沢公園通りの旧道で(上写真・右)、深沢・等々力・奥沢方面へ通じる古道であり、野毛または宮内の渡しで多摩川を越えて、泉沢寺方面に通じていました。吉良氏は世田谷と同時に現在の横浜市南区の蒔田に居城を有していたため、その連絡路として重要な道だったと思われます。
 また、この合流地点の手前で、東西に走る直線道路と交わりますが、これが多摩川と渋谷を結んでいた旧渋谷町営水道道路で、西側には駒沢給水所(大正12年竣工、弦巻2-41)の給水塔が2基、そびえています。

 
(水道道路と駒沢給水塔)

 さて、向天神橋交差点で蛇崩川の谷を越えると、再び上り坂で、その付近にかつて向天神社がありました(現在は弦巻3丁目の弦巻神社に合祀)。世田谷区教育委員会刊の『世田谷の中世城塞』(1979年)では、この神社にも吉良氏は南方からの世田谷城侵攻に対する防御のための番所を設けていた可能性を指摘しています。

 駒沢公園通りをなおも北上し、駒留通りと交わる「弦巻1丁目」交差点の手前を左に入ると、日蓮宗の常在寺があります(弦巻1-34-17)。創建は永正3(1506)年で、吉良頼康の愛妾・常盤の寄進によると伝えられています。頼康の寵愛を一身に受けた常盤は吉良氏家臣・大平氏の娘で、他の側室たちの妬みによる讒言で死に追いやられた、世田谷区では有名な悲劇のヒロインです(なお、常在寺では常盤の日蓮宗信仰が法華嫌いの頼康の怒りに触れ、死に繋がったとしています)。
 また、常在寺の南西、弦巻1-41には「いぼとり地蔵尊」があります。寛延4(1751)年に弦巻村の女性21名が造立したもので、女性たちは日蓮上人の命日(旧暦10月13日)にあわせて行われる大法要(お会式)の際には万灯を立て、太鼓を打ち鳴らしながら、池上本門寺へ向かったということですから六郷田無道を通って行ったのでしょう。

 
(常在寺と「いぼとり地蔵尊」)



   ボロ市通りの世田谷新宿

 その常在寺入口を過ぎて、駒留通りを越えると、世田谷区世田谷(旧世田谷村)に入り、まもなく前方に世田谷通りが見えてきます。
 世田谷通りは昔の矢倉沢往還大山街道です。矢倉沢とは古代の東海道が通っていた足柄峠(箱根の北)の中腹にあった関所の所在地で、矢倉沢往還は今の国道246号線の前身にあたる古くからの街道です。それが、江戸時代には丹沢山系の大山・阿夫利神社への参詣道として栄えたわけです。江戸から今でいう青山通り、玉川通りを経て、三軒茶屋から世田谷通りに入り、その旧道は世田谷の大吉寺(浄土宗)・円光院(真言宗)前を左折して、我々が北上してきた駒沢公園通りに入ってくる道筋でした。そして、南北からの道がぶつかる世田谷中央病院前で西に折れると、そこが現在のボロ市通り、昔の世田谷新宿のうちの上宿(上町)です。ちなみにかつての下宿(下町)は円光院前から東の現・世田谷通りにあたり、円光院から世田谷中央病院までの区間が横宿です。

 
(病院前の信号を左折してボロ市通りへ。北からの世田谷通り旧道も2度直角に折れてボロ市通りへ入る。右写真はふだんのボロ市通り)


 
(世田谷下宿の円光院と東隣の大吉寺。両寺の間に世田谷交番と下宿の鎮守・大吉稲荷あり)

 ところで、今の世田谷区役所(世田谷4-21-27)付近にかつて元宿という地名がありましたが、これは二子の渡しから北上して、世田谷を北へと抜ける旧鎌倉街道の中道本道(西回り)の宿駅があったと考えられる場所です。『世田谷の中世城塞』では、世田谷城に足利氏一族の名門・吉良氏が配置されたのは、この鎌倉街道の往来を監視するためだったと推測していて、それが戦国時代になって、小田原城を拠点に関東一円を支配した北条氏(後北条氏)の傘下に吉良氏が入ると、江戸、世田谷と小田原を結ぶ矢倉沢往還の重要性が高まり、世田谷城下の往還沿いに新しい宿駅が設けられたのだとしています。それがボロ市通りで、防衛上の理由から敵の騎馬が駆け抜けるのを防ぐために宿場の前後の道をカギ形に屈折させたわけです。このような道路形態は世田谷城の北側を通る滝坂道の松原宿でも見られます。


(世田谷宿周辺図)

 ちなみに、毎年12月と1月のそれぞれ15・16日に開かれる世田谷ボロ市は戦国時代の天正6(1578)年に小田原の北条氏政が世田谷新宿に楽市を開くことを認めたのが始まりとされています。
 それ以来、ここは世田谷の商業、経済の中心地となり、江戸時代に世田谷が彦根藩井伊家の支配下に入ると、元吉良氏の重臣で、この付近で帰農していた大場氏が世田谷領の代官を任され、明治維新まで世襲します。その屋敷と代官所は世田谷新宿沿いに置かれ、今もボロ市通りの中ほどに「世田谷代官屋敷」として残り、国の重要文化財に指定され、敷地内には世田谷郷土資料館もあります。
 また、代官屋敷の向かい側には天祖神社があります。

 
(江戸中期の建物が残る世田谷代官屋敷)

 
(郷土資料館に展示された江戸時代のボロ市と上町天祖神社。創建年代は不明)


 さて、世田谷の冬の風物詩であるボロ市は初めは毎月6回、一と六の日に開かれる六斎市でしたが、江戸時代になると、12月15日だけの歳の市となります。その後、明治6(1873)年に太陽暦が採用されてから、新旧の正月前ということで、12月と1月の15日に開催となり、さらに明治中頃から16日も開かれるようになりました。古着のほか草履の補強や野良着の繕いに用いるボロ布が中心に売られたため、ボロ市の名称が明治中期より定着したということです。

 

 なお、先ほど上馬交差点で越えたもうひとつの旧大山街道=玉川通り(国道246号線)は江戸時代にできた新道で、天正18(1590)年に豊臣秀吉軍により小田原城が陥落し、世田谷城も廃されると、世田谷宿の重要性も低下して、三軒茶屋から世田谷宿経由の旧道より距離の短い新ルートが開かれたわけです。新旧の大山道は用賀で再び合流し、二子の渡しへと向かいます。世田谷城下から二子の渡しまでの旧ルートは旧鎌倉街道のルートとも一致していたと思われます。

 代官屋敷の裏手には大場家の菩提寺・浄光寺(浄土宗、創建年代不詳、世田谷1-38)があり、その南西には第8代世田谷城主・吉良氏朝が開き、世田谷城廃城後に逃亡先の下総から徳川家康に許されて世田谷に戻り、隠遁生活を送った実相院(曹洞宗、1606年開創、弦巻3-29)があります。

 
(浄光寺と実相院)

 とにかく、「六郷田無道」探索の旅はボロ市通りまでやってきました。とりあえず、今回はここまでにして、続きはページを改めます。

(昭和6年の地図でみる六郷田無道・大岡山〜世田谷宿)

赤線が六郷田無道。緑線が本文中に出てくるその他の古道)

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