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《世田谷の古道を行く》

 六郷田無道 (その5 給田〜田無)

 世田谷のマイナーすぎる、でも意外に重要だったかもしれない古道「六郷田無道」を全区間たどるシリーズの第5回

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    世田谷区から三鷹市へ


 六郷田無道をたどる旅も世田谷区の北西部、給田までやってきました。ここで甲州街道と交差するわけですが、恐らく六郷田無道の方が歴史は古いと思われます。
 旧甲州街道、さらに現在の甲州街道(国道20号線)と交差して、吉祥寺通りとなった古道は北北西へと進みます。なお、「吉祥寺通り」というのは通称で、このうち給田交差点から三鷹市の新川交番前交差点までは東京都道117号・世田谷三鷹線というのが正式名称です。戦後の道路法(昭和27年公布)が成立するまでは大正8年公布、翌年施行の旧道路法で東京府道59号・吉祥寺駒沢線(昭和18年に東京府・東京市が廃止され東京都が発足すると都道59号線)となっていました。
 我々は六郷から旧府道103号・池上川崎線旧府道66号・駒沢池上線を通り、現在の上馬交差点からは旧府道59号・吉祥寺駒沢線の道筋を「六郷田無道」のルートとして、たどってきたわけです。もともと「六郷田無道」という名称は世田谷区内でしか伝わっていないようで、このルートについての古道としての関心も区内にしぼられがちで、甲州街道以北については「現在は吉祥寺通りとなっている」という程度で済まされてしまうことが多いのですが、それなりに面白みはあります。
 この先の区間は昔からの“武蔵野”イメージの本場のような土地で、沿道の村々も江戸中期以降に成立したものが多く、それ以前は人の背丈よりも高く草が生い茂る無人の原野が果てしなく続いていたようです。

 国道20号・甲州街道の給田交差点から2車線の吉祥寺通りを行き、最初の信号で給田4丁目8番地と22番地の間を右に入るのが、旧道です。北へ行って、最初の角を左に折れると、まもなく吉祥寺通りに再合流します。大正時代に東京府道に指定された際に現ルートが開かれ直線化されたようです。

 
(左写真の自転車が進む方向が旧街道。最初の角を左折すると、ほどなく吉祥寺通りに再合流=右写真)

 吉祥寺通りに戻ると、道の左側は三鷹市北野4丁目、左側は引き続き世田谷区給田4〜5丁目です。
 三鷹市北野
は昔の多摩郡北野村で、17世紀後半に下仙川村(北野の南隣で現在の調布市緑ヶ丘・仙川町あたり)の村民が入植し開発したのが始まりです。それまではほとんど無人の原野が広がっていたのでしょう。その後、元禄8(1695)年に独立して北野村となりました。下仙川の北に広がる野原という意味で北野の地名が生まれたようです。明治維新後、明治5年から神奈川県多摩郡北野村(明治11年から神奈川県多摩郡が西・南・北に三分割されて北多摩郡)となり、明治22年に合併により三鷹村大字北野となり、明治26年、東京府に移管されます。三鷹村は昭和15年に町制施行し、昭和25年に三鷹市となって現在に至ります。

 このあたりは平坦な台地が続き、大正から昭和初期にかけては養牛場が多かったようです。畑の中に牛のいる牧場や雑木林の点在する、のどかな田園風景が広がっていたのでしょう。街道上には茶色い朝鮮牛が引く荷車も見られました。もっとも、街道といっても草深い田舎道だったのでしょうけれど…。
 やがて、給田境というバス停があります。ここから道路の右側も三鷹市北野となり、世田谷区とはお別れです。しかし、吉祥寺通りと沿うように旧道と思しき道が右側に存在し、その右側にはもう少しだけ世田谷区の区域が続きます。


(給田境バス停の北側に残る旧道? 今は行き止まりのこの道が区市境)


(吉祥寺通りとその旧道


   北野

 右も左も完全に三鷹市に入る地点に北野地区公会堂があり、そこに左(南)から来る道があります。狛江方面から北上してきて、桐朋学園前(調布市若葉町)で滝坂道と交差し、京王線仙川駅の西を通り、甲州街道を越え、弁天橋で仙川を渡り、旧下仙川村の鎮守・仙川八幡神社を経て、北野に至るルートで、調布市教育委員会『調布の古道・坂道・水路・橋』(2001年)はこの道を「鎌倉道」との伝承をもつ道として取り上げています。道はさらに北野中央通りとなって北上し、三鷹市内でも特に古い村と思われる牟礼方面へと続いています。

 北野地区公会堂の敷地内には日露戦争の地元出身の戦死者を慰霊する「日露戦役記念碑」が立つほか、八幡神社の祠があります。もともと北野村の鎮守は下仙川村の仙川八幡神社(調布市緑ヶ丘1丁目)でしたが、そこから分祀したものでしょうか。その先にも小さな祠(三峰神社?)があります。


(北野地区公会堂の敷地とその並びに八幡神社など3つの祠がある)

 まもなく、中央自動車道の高架をくぐると、その先で再び旧道が左に分かれます(下写真)。予備知識なしに探索していて、いかにも旧道っぽいなぁ、と思いながら、入ってみると、大当たりで、すぐに左側に北野庚申堂(三鷹市北野4-10)があり、4基の庚申塔(1680年、1724年、1744年、1763年建立)が並んでいます(ほかに馬頭観音など)。いずれも当初からこの場所にあったそうで、一番古い1680年=延宝8年の塔はまだ北野村が独立する以前の建立ということになります。

 
(中央道をくぐると、左に旧道が分かれ、まもなく左手に北野庚申堂がある)

 庚申堂前を過ぎて、さらに行くと、先ほどの「鎌倉道」から調布市緑ヶ丘の白百合女子大の東側で分かれてきた道(白百合学園通り)が南から合流し、まもなく吉祥寺通りと再合流します。このあたりは農地や屋敷林、雑木林も多く残り、なかでもケヤキの巨木があちこちにそびえ、なかなか気持ちのよい道です。

(吉祥寺通りに再合流。屋敷林のある風景)

   新川

 その合流点の先が「新川二丁目」交差点で、南北に走る天神山通りと交差します。天神山通りは2車線の立派な道路ですが、歴史は古いようで、その旧道が交差点の北側に残り、北野と新川の町境になっています。そして、新道と旧道の分岐点に宝暦7(1757)年の庚申塔があり(下写真)、道標を兼ねています。「左 神代寺みち」「右 天神みち」と刻まれ、また「多摩郡瀬田谷領野河村 願主武右門 講中拾貮人」の文字があります。

 
(新川2丁目交差点から北望。天神山通りと旧道「天神みち」。その分岐点にある庚申塔))


 いかにも武蔵野らしい雑木林の北野公園を右に見て、天神山通りの旧道(牟礼コミュニティ通り)を北へ行くと、新川天神社(新川2-11)があるので、道標の「天神みち」とはこれを指しているのでしょう。境内には延宝8(1680)年の庚申塔があります。

 
(新川天神社と境内の庚申塔)

 この天神様は創建年代は不詳ですが、古くは仙川に面した丘陵地、天神山にあったのを寛永年間に現在地に遷したものだといいます。天神山は新川二丁目交差点から天神山通りを南へ500メートルほどの地点にあり、中世の砦の跡とされる場所です(現在は雑木林が残る「新川天神山青少年広場」となっています)。つまり、天神山通りは天神社の旧地と現在地を結んでいるわけです。

(仙川と天神山=画面右。左奥の高層住宅がある場所が島屋敷)

 道標が標示している「神代寺みち」がどのルートなのかははっきりしませんが、もちろん調布市の深大寺への道を示しています。深大寺(天台宗)は天平5(733)年に渡来系の満功上人によって開かれた、東京では浅草寺に次いで古い寺で、関東では珍しい白鳳仏があります。江戸時代から参詣と行楽で多くの人々が訪れ、門前の蕎麦が名物になりました。
 さて、この道標兼庚申塔でもうひとつ興味深いのは「瀬田谷領野河村」の文字です。「野河」はこの一帯の旧村名である野川村のことですが、瀬田谷(=世田谷)領に属していたことがわかります。ということは、中世には世田谷吉良氏の勢力下にあったということです。だとすれば、我々がたどっている六郷田無道は当時からそれなりに重要な道だったのでしょう。

 その野川(河)三鷹市新川の旧地名です。旧多摩郡新川村は明治7(1874)年に上仙川村(いまの新川南部)と野川村(新川北部)が合併して成立した村で、野川村はもとは上仙川村の秣(まぐさ)場だったのが江戸中期に独立したようです。下仙川と北野の関係に似ています。そして、上仙川村や野川村の地に所領を得て、開発を進めたのが戦国武将・柴田勝家の孫、柴田勝重(1579-1632)です。
 織田信長の重臣だった柴田勝家は信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いに敗れ、天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いで敗北後、越前の北之庄城にて自害しました。その際、当時3歳だった孫の勝重は勝家愛用の兜を形見として与えられ、外祖父の日根野高吉のいる上野国(群馬県)へ逃れます。成長した勝重は徳川家康に臣従し、上州に2千石の所領を与えられたほか、関ヶ原や大坂の陣に参戦し、その戦功により上仙川や中仙川(現・三鷹市中原あたり)ほかにも領地を得ました。
 勝重が陣屋を構えたのは天神山とは仙川をはさんだ対岸にあたる「島屋敷」と呼ばれる地(現在の新川4・5丁目、新川・島屋敷通り団地付近)で、蛇行する仙川と水田に四方を囲まれ、あたかも島のように見えたことにちなむ呼称です。島屋敷は中世には金子時光という武士の居館があり、その子孫が住んでいたと伝えられています。


(画面右が北。ブルーのラインが六郷田無道)

 さて、新川二丁目交差点で天神山通りを横切り、北野から新川の町域に入って、直進すると、「新川三丁目」交差点があります。ここで吉祥寺通りは島屋敷通りと交差します。ここから南へ行くと、坂を下って、仙川を渡り、対岸の島屋敷(今は団地)へと通じています。ただし、この道は古い地図には描かれていないので、比較的新しいもののようです。

(新川3丁目交差点。ここで右折が古道ルート)

 この交差点は五叉路になっていて、ここから吉祥寺通りは直進路から分かれて北寄りに向きを変えて斜めに続きます。実はこの先の吉祥寺通りは昭和2、3年頃に造成された新しい道です。それ以前の旧ルートはここで直角に北に折れて、島屋敷通りを行きます。また、古道と考えられる直進路は途中から南へ折れて、勝淵神社へと続きます。
 勝淵神社は島屋敷の仙川をはさんだ対岸の台地に立地し、そばに丸池という湧水池があり、それが仙川の水源でした。地元では湧出口のことを釜と呼び、それがたくさんあったことから「千釜」、それが仙川の名称の由来ともいいます。
 したがって、神社には古来、水神が祀られていました。この水神の森に領主・柴田勝重が祖父・勝家の形見の品である兜を埋めて神霊として祀り(兜塚)、社殿を造営し、社号を勝淵大明神としたのが勝淵神社の始まりというわけです。
 丸池は都市化とともに水源が枯渇して埋められましたが、近年、三鷹市によって復元され、「丸池の里」としての整備が進み、また勝淵神社には昭和63年に兜塚が再建されています。
 また、柴田勝重の墓は新川4丁目の春清寺(曹洞宗)にあります。

 
(勝淵神社と新川丸池公園)

 さて、六郷田無道の旅はここから島屋敷通りを北へ行きますが、その前にこの新川三丁目交差点には重要な遺物があります(新川3−6)。
 『三鷹市史』(昭和45年)に、新川宿に「六ごうみち」の道標があった、という六郷田無道探索者として見逃せない記述があります。それ以来、何度か新川宿を訪れるたびに、探してみたのですが見つけることができず、「あった」と過去形で書かれているので、すでに失われてしまったか、所在不明なのか、と思っていました。ところが、最近、この新川三丁目交差点そばにかなり風化した石塔があることに気づき、側面を確認したら、どうやら「東 六ごうミち」と彫られているようなのです。三鷹市教育委員会『みたかの石造物』(1996)では「東六ごうミち」のうち「六」の文字が判読不明になっていますが、現物を見ると、確かに「六」のようです。建立年は不明で、正面の坐像も何なのかはっきりしませんが、相当古いものでしょう。とにかく、三鷹市内で六郷への道標が存在するとは驚きです。反対側は「志ん大寺ミち」のようです。新川宿方面から島屋敷通りを南下してきた者のための道しるべのようで、東とは言うまでもなく、我々がここまで辿ってきた道です。西は勝淵神社を経て深大寺方面へ行けたのでしょう。

 
(新川三丁目交差点の石塔に「東六ごうミち」の文字が…)

 とにかく、島屋敷通りを北上すると、片側2車線の東八道路と交差し、そのすぐ北側で下本宿通りにぶつかります。その角にある運送会社の敷地内に小さな祠があります(右下写真)。

 

 下本宿通りは西へ行けば人見街道に繋がって府中方面へ、東へ行けば、杉並区と世田谷区の境界を通り、烏山、高井戸方面へ通じる古い街道です。甲州街道が開かれる以前の府中と江戸方面を結ぶ主要道だったのではないかと想像しています。たとえば、上高井戸から現在の京王線八幡山駅、赤堤通りを経て滝坂道に入るルートが考えられそうです。赤堤通りは多摩郡と荏原郡の郡境になっており、相当に古くから存在すると思われ、世田谷区では「古府中道」とも言われています。北沢川と烏山川の分水界を通り、仙川の水源の上手を通る尾根道であることも古代からの道であることを思わせます。そして、六郷・品川方面から尾根筋を通って下本宿通り〜人見街道に繋がる六郷田無道も同じように古代からの道ではないか、と考えるわけです。

(下本宿通りの新川宿バス停。撮影地点の歩道あたりが品川用水の流路?)

 とにかく、その下本宿通り(すぐ東側でバイパスの東八道路に合流)への突き当たりで左折して西へ行きます。すぐに新川宿のバス停があります。この道の南側が新川、北側が三鷹市牟礼です。三鷹市牟礼は旧多摩郡牟礼村で、村内の井の頭池周辺には縄文時代から人が暮らしていた三鷹市でも歴史の古い村です。
 そして、この下本宿通りに沿って、かつて品川用水が流れていました。廻沢の塚戸十字路で別れて以来、3度目の出合いです。品川用水は下本宿通りに沿って東へ流れ、牟礼から世田谷区の北烏山に入り、烏山通り沿いに南下し、千歳烏山駅付近を経て、さらに南下して千歳通りに沿い、烏山川支流・水無川と築堤で立体交差して塚戸十字路へと通じていました。


(三鷹一小前交差点。画面奥から来て左へ折れるのが人見街道。右から来るのが下本宿通り)

 さて、下本宿通りを西へ行くと、三鷹一小前の交差点で、北から人見街道(旧府道24号・府中中野線)が合流します(上写真)。人見街道は北東へ向かい、牟礼の中心部を通り、そこから東へ行って、久我山を経て、大宮八幡、さらに中野方面へ通じていました。恐らく、古代から武蔵国府(府中)と大宮八幡(1063年、源頼義の創建)、さらに武蔵東部から下総方面へと続く往還だったのでしょう。人見街道が古代の東海道のルートと重なる部分があると考える説もあります。
 古代の武蔵国は律令体制下の行政区分では当初、東山道に含まれ、畿内からの官道は上野国(群馬県)から武蔵国府(府中)まで南下し、また下野国(栃木県)に北上するルート(東山道武蔵路)でした。その後、宝亀2(771)年に武蔵国は東山道から東海道に編入され、府中から下総国府(千葉県市川市国府台付近)へ行く官道が整備されます。その正確なルートは定かではありませんが、途中に2つの駅家、乗潴豊島を経由していたことが分かっています。ただ、この2つの駅家もその所在地は諸説あります。豊島駅家については北区王子付近説と台東区浅草付近説などがあり、乗潴については読み方も定かではなく、アマヌマと読んで杉並区天沼付近とする説と、ノリヌマと読んで練馬付近を考える説などがあります。
 芳賀善次郎氏の『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』では乗潴について杉並区天沼説を採り、府中から人見街道を牟礼まで来て、そこから北上して杉並区へ入り天沼に至ったのだろうと推定しています。まぁ、今となっては決定的な遺構でも発掘されない限り、確かめようがありません。歴史は、あれこれ考えたり、想像したり、論争したりするのが面白いのです。


(新川宿公会堂。右奥に八幡社。右端に地蔵。左端に庚申塔と精霊供養塔)

 それはさておき、三鷹第一小学校前から下本宿通りは人見街道となって、さらに西へ向かいます。まもなく、右手に新川宿公会堂があり、その脇に新川八幡神社があります。入口には享保4(1719)年造立の地蔵尊が立ち、境内には八幡社のほか日蓮上人をまつる祖師堂稲荷社が並んでいます。八幡社と祖師堂はもとは少し西方の三鷹消防署付近にあったといいますが、とにかく、ここに祖師堂があるということは日蓮宗信者がいたということであり、六郷田無道が池上へのルートとして意味をもっていた可能性があるということです。

 ここでもうひとつ見逃せないのは境内左端の稲荷社の奥にある細長い窪地です。これが品川用水水路跡なのです。ほぼ消滅した品川用水の痕跡が明確に残る唯一の場所といっていいのでしょう。玉川上水の分水路である品川用水はこの地点で仙川や入間川への補水を目的とする仙川用水から分かれ、人見街道〜下本宿通りに沿って東へ流れていきました。


(画面右から八幡社、祖師堂、その左奥に稲荷社。さらに奥に用水跡がある)


(用水跡を北側から。画面左が品川用水跡、右の道がここで分かれる仙川用水跡)

 新川宿公会堂前には地蔵尊と対になるように庚申塔も立っています。元禄5(1692)年の造立です。また、その傍らには明治43年3月彼岸に建立された精霊供養塔があります。この付近の品川用水で水死した子どもの慰霊のためのものだそうです。
 三鷹市教育委員会『三鷹の民俗10 新川』(1987)によると、「品川用水は、とびこえられないほどの幅があり、新川十字路から東流するところは渦がまいていて、おそろしいほどであった」と書かれています。

 まもなく、人見街道は新川交差点に至ります。ここに南から来るのが昭和2、3年頃に建設された現代の吉祥寺通りです。
 さて、ここで考えるのは新川宿から先の六郷田無道のルートです。新川交差点から吉祥寺通りを北上して吉祥寺から五日市街道経由だと田無へ行くにはだいぶ遠回りになります。そこで、僕は新川交差点からそのまま人見街道を西進し、野崎で交差する旧府道75号・田無調布線(現・武蔵境通り)を北上するルートを想定していました。三鷹市内で中世以前からあると思われる古道といえば、東西方向は人見街道と連雀通り、南北方向は武蔵境通りの前身となった旧鎌倉街道との伝承をもつ道です。
 ところが、その後、世田谷区教育委員会刊『世田谷の河川と用水』(1977)の中で六郷田無道に触れているのを発見し、当サイトの 「六郷田無道その1」 でも引用しましたが、改めてそのルートを世田谷区給田以北についてのみ書き出してみると、次のようになっています。

 「給田〜給田境〜新川谷端〜新川宿〜狐久保〜下連雀〜上連雀〜塚〜中通〜富士見橋〜田無」

 上のルートのうち、新川谷端は「六ごうミち」の道標があった吉祥寺通りと島屋敷通りの新川三丁目交差点を指すようです。そして、我々はいま新川宿まで来ています。その次が狐久保ということは吉祥寺通りを北上し、狐久保交差点から連雀通りに入って、西へ行き、下連雀上連雀を経て、交差点から府道田無調布線に入るのが正解(?)のようです。とりあえず、このルートをたどってみることにします。ただし、「塚」以北については、府道田無調布線より古い古道が並行しているので、そちらを行くつもりですが…。


(大正中期の地図でみる六郷田無道 給田〜塚交差点)

 ということで、新川交差点から再び吉祥寺通りに入り北へ向かいます。
 ちなみに、交差点から人見街道をそのまま西へ行くと、野川宿橋で仙川を渡り、市役所など公共施設が集まる三鷹市の中心部となります。旧三鷹村の役場もこのあたりにありました。
 ついでに書くと、仙川の本来の水源は新川の丸池です。しかし、その上流側にもなだらかな谷の地形が存在し、大雨が降った時だけ水が流れ、たびたび洪水を引き起こしていました。そのため、戦後、宅地化の進展とともに排水の必要から水路が開削され、仙川は上流側に延長されたのです。現在の上流端は小金井市貫井北となっています。ただ、野川宿橋から北では通常はほとんど水が流れていません。一方、野川宿橋には新川の天神山付近の取水所から送水管を通じて導水され、ここから下流の“清流”が維持されています。

   下連雀

 さて、新川から吉祥寺通りを北へ行きます。この区間は江戸時代以降にできた道と思われます。しかも、明治時代の地図を見ると、吉祥寺通りよりも1本東側の、三鷹一小前の交差点から人見街道と分かれて北上する弘済園通り(牟礼と下連雀の町境)のほうが太く描かれています。なので、昔はこちらのほうが人見街道と連雀通りを結ぶメインルートだった可能性があります。でも、とりあえず、吉祥寺通りを行きます。

 まもなく、新川から下連雀に入ります。三鷹市下連雀は昔の多摩郡下連雀村です。
 江戸初期の明暦3(1657)年、江戸本郷の本妙寺から出火した炎が燃え広がり、江戸城天守閣を含む江戸市中を焼き尽くす大火災となりました。死者10万人とも言われる「明暦の大火」です。この大火事の後、復興に際して、幕府は火災の延焼防止のため、火除け地を設けることとし、当該区域の住人には家の再建を許さず、郊外への移転を強制しました。このうち、神田連雀町の住人25世帯が集団移住したのが、当時は武蔵野の原野が広がっていた現在の下連雀の地です。この地は将軍家の茅場(屋根を葺くための茅の採集地)だった場所で、移住者たちによる新田開発が進められ、新しい村の歴史が始まりました。
 ちなみに「連雀」とは背中に荷物を背負う時に用いた背負子のことをいい、連尺あるいは連索とも書きます。神田連雀町には行商人が多かったことから、この地名がついたのでしょう。つまり、神田の商人たちがいきなり武蔵野の原野に移住させられ、農民になって、下連雀の地を開墾したわけです。
 移住者たちは当時、すでに存在した連雀通りに沿って南北に長く東西が狭い短冊状の土地を割り当てられ、街道に面して家を建て、その背後に畑を作って生活しました。この短冊状の町割りは現在もそのまま残っています。北に隣接する旧吉祥寺村(本郷の吉祥寺門前町の住民が移住)なども同様の成り立ちで、やはり特徴的な短冊状の町割りが五日市街道を中心に見られます。

 吉祥寺通りはなだらかな上り坂ですが、その頂点にあたる部分で、左に斜めに分かれる道があります。小さな祠があるのが目印です。これが品川用水の跡で、用水はこの地点で吉祥寺通りを西から東へ横切り、南に向きを変えて、先ほどの新川の水路跡へと繋がっていました。用水が台地の尾根を流れていたのがよく分かります。
 かつてはこの付近に「品川上水」という交差点があり、同じ名前のバス停もありましたが、現在はどちらも存在しません。

(祠の前を画面左から品川用水が流れ、吉祥寺通りと交差していた)

 さらに北へ行くと、まもなく「狐久保」の交差点です。狐久保は現在の三鷹市下連雀のうち吉祥寺通りより東側の地域(下連雀1丁目の南部と5丁目)で、かつては上連雀村の飛び地でした。三鷹市上連雀は下連雀の西側にある町で、昔の多摩郡上連雀村で、下連雀より後に開発された村です。その飛び地が下連雀村の東側にあり、狐久保と呼ばれたわけです。キツネがすんでいるような窪地ということでしょうか。いまは交差点名と交番名に残っています。

(狐久保交差点)

   連雀通り

 狐久保交差点で吉祥寺通りから左折して連雀通りに入ります。下連雀村が成立する以前からあった古道で、東へ行くと牟礼の中心部で人見街道に繋がります。江戸時代から「連雀通り」と呼ばれていたほか、「江戸道」、「小金井街道」などの呼称もあったようです。この街道沿いに村が開かれたわけです。今も商店街となっています。

(連雀通り)

 400メートルほどでむらさき橋通りと交わる南浦の交差点です。昔はここでまた品川用水が交差し、橋場橋がかかっていました。北から流れてきた品川用水はここからさらに少し南下した後、南南東に向きを変え、今の三鷹第六小学校の敷地を斜めに縦断すると、東向きにカーブして、先ほどの祠のあった地点に至ります。地図を見れば、短冊状の町割りが特徴的な下連雀において、この南浦交差点の南と北で斜めに走ったり、曲がったりする道が断続的に存在することが分かります。それが品川用水の跡です。そして、ここまでくれば、南浦から北へ行き、北西方向に斜めに進むさくら通り、さらにJR中央線の三鷹駅の西方で線路を越えて堀合通りへと繋がり、玉川上水まで流路を遡ることも容易でしょう。

 さて、南浦交差点を過ぎ、さらに連雀通りを西に進みます。
 まもなく、左手に小さなお堂があり、2体の地蔵尊があります(下連雀7-6)。地蔵菩薩廻国塔で、全国66カ国(武蔵とか相模とか越後とか…)を廻り、各国1カ所ずつの霊場に大乗妙典経(法華経)を納める巡礼を達成した記念に建てられたもののようです。享保15(1730)年の建立で、うち1体は昭和13年の再建とのことです。

 
(地蔵菩薩廻国塔と庚申塔)


 さらに行くと、左側のスーパーマーケットの角(下連雀7-16)のコンクリート製のお堂の中に庚申塔があります(建立年不明)。ここで南に入る道が、この先、八幡大神社前で連雀通りと交差する三鷹通りの旧道で、まっすぐ南下して人見街道に通じています。
 この庚申塔の向かい側が霊泉山禅林寺です(下連雀4-18-20)。もとは江戸市内から移住してきた人々が創建した寺で、当初は浄土真宗でしたが、元禄12(1699)年に台風で倒壊し、再興時に黄檗宗に改宗し、寺号も禅林寺となりました。このお寺は森鴎外や太宰治の墓があることで有名です。
 そして、その隣が下連雀の鎮守、八幡大神社です。これも禅林寺と同様、下連雀村の成立とともに創建された神社です。

 
(禅林寺と八幡大神社)

 神社の西側を通るのが三鷹通りで、ここから北上し、けやき橋(庚申堂あり)で玉川上水を渡り、五日市街道方面に通じています。一方、連雀通り以南の三鷹通りは昔は禅林寺前の庚申塔の角から南へ下っていました。現在は八幡前の交差点から新道が開通し、旧道に繋がっています。

 八幡前交差点で三鷹通りを越えると、下連雀から上連雀に入ります。神田連雀町からの移住者による新田開発が進み、連雀新田と呼ばれていた区域が拡大され、享保の頃に、京都の朝廷に近い方を「上」、遠い方を「下」と呼ぶ慣習から西側地域(連雀前新田)が上連雀村となり、東側の地域(連雀新田)が下連雀村になったということです。その境界が三鷹通りですから江戸時代にできた道なのでしょう。

 引き続き連雀通りを西進すると、左手に井口院(真言宗)と上連雀神明社が隣り合っています(上連雀7-26)。
 関東八十八か所霊場第70番札所、多摩新四国八十八か所霊場第3番札所である井口院(いこういん)は中野村・宝仙寺の第19世・清長和尚が、石神井村の井口八郎左衛門春重の助力を得て堂宇を建て、薬師如来を奉安したのが始まりといい、神龍山開空寺威光院と称しましたが、寛文12(1672)年、上連雀の地を開発した井口家にちなみ、開宮寺井口院と改称しました。

 (井口院と雨乞弥勒)

 境内には見どころ、拝みどころが多く、なかでも「雨乞弥勒」と称される弥勒菩薩像は有名です。文政11(1829)年に降雨を祈願して建立されたもので、日照り続きの時には遠く秩父や川越方面から雨乞いに参拝する人もいたそうです。秩父や川越といえば、田無の先であり、我々がこの先、たどる道筋をやってきたのでしょう。
 その隣の上連雀神明社は関村(いまの練馬区)から入植し、上連雀を開墾した井口権三郎が寛文12(1672)年に勧請したといい、連雀通りに面して2基の庚申塔があります。宝永3(1706)年と享保13(1728)年の造立です。

 (上連雀神明社と庚申塔)

   塚交差点

 さて、まもなく「塚」の交差点です。ここで交わる南北の道は三鷹市内で旧鎌倉街道であるとの伝承をもつ道で、戦国時代に関東の覇権を小田原北条氏と争った扇谷上杉氏が大永4(1524)年、北条氏綱に江戸城を奪われた後に本拠とした河越城(川越市)と対北条の防衛拠点とした深大寺城(調布市)を結ぶ軍道であったともいいます。
 北条方も深大寺城に対抗するために牟礼(三鷹市)や烏山(世田谷区)に砦を築かせており、さらに北条傘下の吉良氏の世田谷城なども含めて考えると、連雀通りや人見街道、そして、我々がずっとたどってきた六郷田無道にも当時は軍事的意味があったと思われます。
 なお、深大寺城は天文6(1537)年4月、上杉朝定が家臣の難波田弾正広宗に命じて増築させましたが、北条氏綱は同年7月、深大寺城を迂回して直接河越城を攻め、これを奪い、上杉朝定は松山城(埼玉県比企郡吉見町)に逃れます。そして、素通りされた深大寺城は軍事的価値を失い、そのまま廃城となりました。

 
(塚交差点と大鷲神社)

 その深大寺城と河越城を結ぶ街道と連雀通りの交差点の西側に小さな大鷲神社があります。
 社名碑は武者小路実篤の揮毫によるもので、裏面には由緒が彫られています。

「弊社ハ縁起不詳ナルモ江戸中期創建ト相伝フ当初ハ元二ツ塚跡及徳川尾張公鷹場碑ノアリシ跡ニシテ祠ト共ニ約三十間東方ニアリ明治初年道路改修ノ為塚ハ撤去シ祠ハ現位置ニ移ス尚祠内ニ鷹場碑破片ヲ蔵ス 連雀二ツ塚ハ江戸中期ヨリ明治初期頃迄宿場トシテ繁栄シ近郷ニ聞エ前方南北ニ通ズル道路ハ旧鎌倉街道ト伝フ 遺跡ヲ後世ニ伝ル為講者相寄リテ之ヲ建 昭和三十三年五月吉日」

 塚交差点名の由来ともなった「二ツ塚」は一里塚だったともいいますが、碑文にある通り、現存しません。
 また、「鷹場碑」とは鷹狩り場の境界を示す標石です。江戸時代に江戸城から五里(約20キロ)以内の村々は将軍家の鷹狩り場で、その外側が徳川御三家の鷹場でした。三鷹はその境界にあたり、上連雀以東は将軍家、その外側は尾張徳川家の鷹場と定められ、その境界を示す標石が各所に建てられていました。その破片が大鷲神社の祠の中に収蔵されているのでしょう。三鷹市役所の敷地内に完全なものが保存されています。また、三鷹の地名もこのあたりから来ています。

    塚〜大橋

 ところで、六郷田無道を旧東京府道の路線名と考えると、この塚交差点から府道75号・田無調布線に入ることになります。現在の武蔵境通りです。しかし、調布市内から深大寺の西側を通ってここまで北上してきた武蔵境通りは塚の交差点以北では西にずれて続きます。明治22年に中央線の前身、甲武鉄道が開通した際に境駅(現・武蔵境駅)が設置され、それにともない旧道の西側に新しい道が整備されたためです。そのルートは塚交差点西側の大鷲神社前で連雀通りから分かれて富士見通り(三鷹市と武蔵野市の境界の道)に入り、武蔵野赤十字病院(武蔵野市境南町1‐26)の角から北に折れて、そのまま北上し、中央線を越えると、すぐ西に折れて武蔵境駅前に達し、ここから田無までまっすぐ北上する道筋です(下の地図参照)。『世田谷の河川と用水』で示されたルート(上連雀〜塚〜中通〜富士見橋〜田無)もこれです。しかし、ここはやはりもっと昔から存在する古道にこだわって、塚交差点からそのまま北上するルートを採用します。


(大正中期の地図でみる六郷田無道 塚〜田無)

 ということで、塚交差点から北へ行きます。旧鎌倉街道と伝えられ、「深大寺道」「大師道」などと呼ばれた古道です。最近まで南行きの一方通行の旧道らしい道でしたが、現在は拡張工事が進行中で、まことに味気ない道です。

(拡幅工事進行中)

 この道は三鷹市上連雀と武蔵野市境南町の境界となっています。境南町は中央線の北側の境、桜堤とともに旧多摩郡境村で、境村は明治22年に吉祥寺村、西窪村、関前村と合併して武蔵野村(明治26年まで神奈川県)となり、昭和3年に町制施行、昭和22年に武蔵野市となりました。
 まもなく、ほとんど水の流れていない仙川を渡り、近年、高架化されたJR中央線をくぐります。その直前の左側に庚申塔らしき石塔がありますが、探訪時は道路工事の影響で近づくことができませんでした。

 (中央線とその脇の庚申塔?)

 一方、すぐ東側には三鷹電車区があります。当初、旧街道に近い現・三鷹電車区付近(上連雀村)に駅を開設する話がありましたが、境村の有力者から土地の寄付があり、現在の武蔵境駅の位置に境停車場ができたそうです。用地提供の見返りに境停車場・田無間の新道が建設され、大正時代に府道に指定されたわけです。なお、三鷹駅の開設は昭和5年、吉祥寺駅も明治32年の開設であり、明治22年の開業時、新宿〜立川間には中野、境、国分寺の3駅しかありませんでした(明治24年に荻窪駅設置)。

 さて、中央線を越え、左側は武蔵野市境となります。右側は相変わらず三鷹市上連雀です。そして、左右両側から鉄道の廃線跡の遊歩道が近づいてきます。
 三鷹駅から来るのが堀合遊歩道で、旧国鉄武蔵野競技場線の跡です。もとは武蔵境から戦前〜戦中の中島飛行機武蔵製作所への引き込み線がありました。零戦などを製造していたことから米軍の度重なる爆撃を受け、徹底的に破壊された工場跡に戦後の昭和26年にグリーンパーク球場が建設され、プロ野球・国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)や東京六大学の試合などが行われます。武蔵境からの引き込み線を再利用し、三鷹駅に線路を繋げて、試合開催時のみ観客輸送用の電車も運行されましたが、都心から遠いこともあり、わずか1シーズンで試合開催が打ち切られ、電車も運行休止、昭和34年に路線廃止となって、その跡が遊歩道になりました。武蔵野市内では「グリーンパーク遊歩道」と呼ばれ、武蔵野中央公園まで通じています。球場もわずか5年で解体されて住宅団地に生まれ変わり、現在は武蔵野市緑町パークタウンとなっています。

 一方、武蔵境駅方面から来る緑道は本村公園で、境浄水場(大正13年給水開始)の建設資材や濾過池で用いる砂の輸送に利用された引き込み線跡です(昭和40年代に廃止)。


(左へ行くのが古道。画面右の緑地が廃線跡の堀合遊歩道)

 古道探索に戻ると、まもなく拡幅された新道から左に旧道が分かれます(上写真)。住宅街の中の細道ですが、この道が武蔵野市境と三鷹市上連雀の境界です。そして、玉川上水に突き当たる直前に交差する堀合(ほりあわい)通りこそが品川用水の跡です。

 さて、玉川上水までやってきました。そこにかかる橋は大橋です。いかにも幹線道路を渡す橋にふさわしい名称で、実際、玉川上水の橋の中でも古い歴史を持っています。江戸初期の上水開通以前からこの道は存在したでしょうから当然です。この橋の南側に庚申塔と稲荷祠があったようなのですが、現在は見当たりません。

 
(玉川上水にかかる大橋。その向こうは境浄水場で、古道は分断されている)

 大橋の北側に「大橋の歴史について」という説明板があります(文中の保谷市と田無市は現在は合併して西東京市になっています)。

 この橋は、玉川上水ができた承応三年(1654)以降に現在の武蔵野市域内で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」「大橋」の内の一つとされる。
 その後、明治三八年(1905)と大正九年(1920)に修繕されたのち、昭和七年(1932)現在のコンクリート橋に架け替えられた。
 大橋を通る大師道は、保谷市と田無市の境界を通る道と東伏見神社の横から千川上水を越えて武蔵野市に入る道が御門訴の碑付近で一つになり五日市街道を渡る道で、大正七年(1918)に境浄水場が出来るまで、西北は、田無を経て所沢・青梅に通じ、南は甲州街道の調布五宿に達し、開港後は横浜街道と称し、近郷近村の最大の便道であったとされる。また、深大寺(調布市)の元三大師堂へ行く道なので大師道とも呼ばれた。
 三鷹との境にあるので「境大橋」とも呼ばれ、「大橋」の名の由来は深大寺の「大」の字をとったとも、旧下連雀村の小字名「大橋」という地名からきたともいわれている(以下、略)。

 この道が開港後、「横浜街道」と称されたというのは、この地方で養蚕が盛んであり、生糸が日本の主力輸出品だったことと関係があるのでしょう。いま辿っている道沿いでも至るところに桑畑(と茶畑)が広がっていました。

 そのような重要街道だったはずの道は大橋の北側で境浄水場によって分断されています。村山貯水池(多摩湖)、山口貯水池(狭山湖)から送水された水を浄化して東京の水道水とするための浄化施設である境浄水場が給水を開始したのは大正13年のことですが、上の説明板によれば大正7年の段階ですでに工事により分断されていたようです。しかし、明治22年の武蔵境駅開設に伴い西側に武蔵境通りがつくられたため、当時はもうこの古道は幹線としての役割を完全に失っており、影響はなかったのでしょう。

 なお、大橋から玉川上水を上流へ450メートルほど行った武蔵野市立第六中学校の北側の地点に品川用水の取水口が残っています。世田谷区野沢で六郷田無道と出合って以来、寄り添ったり離れたりを繰り返してきた品川用水の始まりがここです。

(玉川上水北岸からみた品川用水取水口)

    
大師通り

 さて、田無への古道探索は境浄水場で分断されたので、浄水場の東側を迂回して北側へ回り込むと、続きがあります。第五中学校の西側を北へ行く道で、「大師通り」と呼ばれています。
 大橋の説明板にもあった通り、大師とは深大寺の元三大師堂への参詣道であることを意味します。元三大師とは平安時代の天台宗の高僧である慈恵大師・良源のことで、永観3(985)年の正月3日に亡くなったので元三大師と呼ばれ、厄除けの信仰を集めました。その元三大師を祀るお堂が深大寺にあり、現在に至るまで多くの参詣者を集めているわけです。
 調布市教育委員会『調布の古道・坂道・水路・橋』によると、深大寺・元三大師の信仰者が多かった地域として、田無・保谷地区、さらにその先の引又(志木市)、久米川(東村山市)、所沢などを挙げていて、これらの地域からの参詣者がこの大師道を南下し、塚から野崎、深大寺へと向かったと述べています。

(大師通り)

 その大師道を深大寺とは逆方向へ北上していきます。
 玉川上水から北は武蔵野市関前で、旧多摩郡関前村です。旧豊島郡関村(いまの練馬区南西部)の出身者が入植、開墾したことから、関の前という意味で関前の地名がつきました。

    五日市街道

 市民の森公園などを経て、まもなく五日市街道(旧東京府道4号・東京五日市線)にぶつかります。五日市街道は徳川家康が江戸に入った後、五日市や檜原から木材や炭を運ぶために整備された街道です。その交差点角に「御門訴事件」の記念碑があります。

 
(五日市街道にぶつかると、正面に御門訴事件の記念碑)

 御門訴事件とは、明治3年、当時この地域が属した品川県が前年に布達した社倉制度(凶作、飢饉に備えて、すべての農民から米を供出させ、備蓄する制度)に反対する旧関前村を含む12ヵ村の農民が日本橋浜町にあった品川県庁に直訴(御門訴)した事件で、代表者が逮捕され、厳しい拷問などにより、死者まで出た事件です。この地方はもともと生産力が低く、富裕農民だけでなく、貧しい農民をも含む全農民を対象にしたこの制度は受け入れがたいものだったのです。
 非業の死を遂げた者の中に関前新田名主・忠左衛門(井口氏)もいたため、この場所に慰霊碑が明治27年に建てられました。

 ここから五日市街道を西へ行くと、すぐに武蔵野大学前の交差点に出ます。
 五日市街道は小平市から武蔵野・西東京市境の境橋まで玉川上水に沿って東進し、境橋からはそこで玉川上水から分水した千川上水に沿って武蔵野大学前までやってきます。千川上水はそのまま北東方向に流れて神田川水系と石神井川水系の分水界の尾根を練馬区、板橋区方面へ行き、五日市街道はここで南東方向に折れて、吉祥寺を経て杉並区内へ行きます。

(千川上水)

 我々のたどる旧街道はその五日市街道からここで分かれ、千川上水を渡って武蔵野大学の東側を北上します。
 千川上水を渡る地点には石橋供養塔庚申塔が立っています。
 石橋供養塔は五日市街道と千川用水が交わるこの地に古くからあった橋(井口橋)が天保12(1841)年に石橋に架け替えられたことを記念して建立されたもので、悪霊の侵入を防ぎ、石橋に宿る神(霊魂)を供養する意味がありました。そのかたわらの庚申塔はその前年の建立です。

(右・石橋供養塔と左・庚申塔)

 また、武蔵野大学前の五日市街道と鈴木街道の分岐点に天明4(1784)年建立の道標を兼ねた庚申塔があります(西東京市新町1-2)。「東 江戸道」が五日市街道東方向、西方向は「右 小川 村山道」が鈴木街道、「左 ふちう(府中) すな川 八王子」が五日市街道です。そして、「北 たなし きよと 川ごえ ところさハ道」が我々の進む道です。ちなみに「きよと」)(清戸)は現在の清瀬市です。

(五日市街道と鈴木街道の分岐点に立つ庚申塔)


    深大寺街道

 千川上水を渡ると、武蔵野市から西東京市に入ります。西東京市は平成13年に田無市と保谷市が合併して成立した市ですが、このあたりは旧保谷市の市域です。保谷の地は昔の下保谷村、上保谷村、上保谷新田村からなり、古来、新座(新倉)郡に属していました。新座郡は奈良時代に大和政権が新羅系渡来人(僧32人、尼2人、男19人、女21人)を移住させ、開墾させたのが始まりで、当初は新羅郡といったようです。ただ、保谷のあたりは古代から中世にかけてほとんど無人の原野だったようで、人々が定住し村落が形成されたのは戦国期以降と思われます。
 新座郡は明治維新後、品川県に属しましたが、その後、明治5年に入間県、翌年には熊谷県、そして、明治9年から埼玉県に属します。明治22年に下保谷上保谷上保谷新田の3ヵ村が合併して保谷村が成立し、埼玉県新座郡保谷村となります。その後、明治29年に新座郡が北足立郡に編入され、明治40年に保谷村が東京府に移管され、北多摩郡保谷村となっています。昭和15年に保谷町、昭和42年に保谷市となり、平成13年に西隣の田無市と合併したわけです。

(深大寺街道)

 「深大寺街道」の名称がある道を北へ行きます。右手は西東京市柳沢4丁目、左手は新町1丁目で、どちらも昔の上保谷新田村にあたります。千川上水の開通後、それまで原野だった土地を北隣の上保谷村の農民が開発した新田村です。
 左側に続く武蔵野大学キャンパスの北東端まで来ると、そこで交わる道もそれなりに古道のようで、角に修復された庚申塔(尊像が風化していて、馬頭観音説もあり)が立ち、これも道標を兼ねています(向台町1-10)。安永7(1778)年の建立で、東は「江戸道」、西は「府中道」で、南は大寺道」ですから深大寺道でしょう。北だけが欠損により判読不能です。

(武蔵野大学北東角の庚申塔?)

 道の左側は西東京市向台町1丁目で旧田無市の領域です。
 田無は昔の多摩郡田無村で、明治5年から26年まで神奈川県に属し、その間の明治12年に田無町となっています。市制施行は昭和42年です。江戸時代の田無村が周辺地域と一切合併することなく、そのまま田無町、さらに田無市になったわけで、このような例は珍しいことです。そして、平成13年に保谷市と合併し、西東京市となって現在に至ります。

 旧田無市と旧保谷市の境界を北上すると、今度は右手に文政元(1818)年の「馬頭観世音」塔があります(柳沢4-1-19)。やはり道標を兼ねていて、下部に「右 深大寺道」「左 柳澤 所澤道」と彫られています。これは上保谷村新田名主平井嘉右衛門という人物が西国三十三カ所、 坂東三十三カ所 、秩父三十四カ所の合わせて百カ所の観音霊場の巡礼を達成した記念に建立したものです。我々がこれまでに通ってきた地域一帯から秩父の霊場巡りに向かう巡礼者にとって、六郷田無道は田無、所沢を経て秩父へ通じるまさに巡礼のための道でもあったはずで、草深い田舎道を旅する往時の人々にとっては、このような道標が大いに役立ったことでしょう。なお、この石塔では上保谷村が多摩郡となっていますが、これは新座郡の誤りで、恐らく石工の勘違いでしょう。とはいえ、道の向かい側の旧田無村は多摩郡であり、ここが郡境であるということは、それだけ歴史の古い道だということです。明治時代には一時的に神奈川・埼玉県境だったこともあり、神奈川から東京へ行くのに埼玉を通るという時代があったわけです。

(馬頭観世音塔)

 さて、その馬頭観世音塔を過ぎると、道は下り坂になります。この先は石神井川の谷です。
 その途中、斜めに横切る道があり、その角に地蔵堂があります(南町1-9)。光背が焙烙の形に似ていることから「ほうろく地蔵」と呼ばれ、親しまれています。

 (ほうろく地蔵尊)

 田無へはここで左折するのが近道ですが、そのまま深大寺街道を直進します。
 まもなく、石神井川境橋で渡ります。昔から郡境、村境、市境の道なので、境橋なのでしょう。三面をコンクリートで固められ、水量もわずかな石神井川は、昔からこの付近では川幅も狭く、水深も浅い川だったようです。ただ、田んぼがないから田無という説もある田無において、この川の周辺ではわずかながら水田も作られたようではあります。

 (石神井川を渡る境橋)

 その石神井川を渡ると、いよいよ青梅街道にぶつかります。江戸初期、江戸城築城のため、成木(いまの青梅市北部)の石灰(漆喰の原料)を輸送する目的で整備された街道で、江戸と青梅の中間にあたる田無はその宿場町として発展し、栄えたのです。

(青梅街道に出合う。深大寺街道はその先の坂を上る)

 我々はここで青梅街道に入り、田無へ向かうわけですが、深大寺街道はそのまま青梅街道を突っ切り、西武新宿線の踏切を渡って、さらに北へ伸びています。その先は旧上保谷村の中心集落であった榎ノ木、上宿(いまの泉町、住吉町あたり)で、ここで古道の「横山道」とぶつかります。上宿付近は局地的に地下水位が浅い地下水堆が存在し、水の便が悪いこの地域ではオアシスのような存在だったようです。いまも水路跡の暗渠が残り、荒川水系の白子川に通じています。一帯には如意輪寺宝樹院宝晃院東禅寺といった寺院や上保谷の鎮守で湧水の守護神を祀る尉殿神社などが集中するなど、古くから集落があったことをうかがわせ、実際に鎌倉末期の板碑も発掘されています。如意輪寺付近には的場ヶ池(マツバ池)という湧水池も存在したそうです。
 その上宿に隣接する旧田無市の谷戸地区(いまの谷戸町)も同様に貴重な水源があり、田無村の発祥の地とされます。それが青梅街道整備に伴い、宿駅の必要から街道沿いに村の中心が移ったということのようです。

 さて、あとは青梅街道を西へ行けば、すぐに田無の中心部にたどりつきますが、その前に深大寺街道の続きを北上し、歩行者・自転車専用の踏切で西武新宿線(昭和2年開通)を越えた地点で交わる富士街道の角に立つ六角地蔵石幢(保谷町4-7)を見ておきましょう。寛政7(1795)年に、「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために建立されたもので、正六角柱の石塔の各面に地蔵菩薩立像が浮彫にされています。また、この塔も道標を兼ねており、西は「大山道」、東は「ねりま道」、南は「志んたい寺道」(深大寺道)と彫られ、北だけが判読不能です。
 西が大山道というのは、田無から府中へ出て、旧鎌倉街道上道を通って町田へ出るルートでしょうか。富士街道は板橋・練馬方面からの大山参詣道で、「ふじ大山道」と呼ばれたのが、富士街道になったようです。

(六角地蔵石幢。踏切の細道が深大寺街道)

 ここから富士街道を西へ行っても、すぐに青梅街道に合流しますが、先ほどの地点から、改めて青梅街道を西へ行きます。

(左・青梅街道と旧市境の道)


   田無

 青梅街道が西武新宿線のガードをくぐる地点の手前北側に赤い鳥居と祠の残骸があり、ここで北へ入る細道がかつての保谷・田無市境です。この市境の道はすぐに富士街道にぶつかりますが、そこから北では境界線が道路と一致していません。つまり、今は何もないところを境界線が通っているわけです。ここが多摩郡と新座郡の境でもあったことを思えば、何もないところに境界線が引かれたのは不自然に思えます。遠い昔にはそこに街道が存在し、その後、廃れて消滅したのかもしれません。


(旧市境は富士街道を越えると、正面の赤茶色の瓦屋根の民家とその左隣の二階家の間を通っていた。今は西東京市保谷町と田無町の境)

 さて、青梅街道は西東京市柳沢から西東京市田無町(旧田無市本町)に入り、西武線のガードをくぐったところで、富士街道が合流します。その合流点(田無町1-12)には「弘法大師」と刻まれた石塔がお堂におさまっています。嘉永7(1854)年に建立されたもので、「東高野山道是より廿四丁」という道標にもなっています。東高野山とは練馬区高野台にある東高野山長命寺のことで、18世紀半ばに成立した御府内八十八カ所霊場の第十七番札所になっていることから、富士街道がその巡礼道であることを示しています。また、台石に「練馬江三里、府中江二里半、所澤江三里、青梅江七里」とも彫られています。

(「弘法大師」供養塔)

 次は青梅街道の下り線側歩道に享保8(1723)年建立の立派な「柳沢庚申塔」が立っています(田無町2-22-8先)。もとはこの先の青梅街道と所沢街道の追分にあったそうで、「是より右り はんのふ(飯能)道」「是より左り あふめ(青梅)道」となっています。柳沢といえば、旧保谷市の町名ですが、なぜか田無市側にも柳沢という地名が残っており、田無宿のことを柳沢宿とも呼んだり、今も小学校や公園、通りの名に柳沢が残っています。このあたりの理由については、よく分かりません。

 
(柳沢庚申塔と青梅・所沢街道の追分)

 とにかく、その所沢街道との追分から、いかにも旧街道らしい道幅になって、青梅街道は田無の中心部に入っていきます。まもなく、右手に田無神社があります(田無町3-7-4)。

 
(田無神社。境内に田無用水の跡が残る)

 鎌倉時代創建と伝えられる田無神社はもとは尉殿大権現といい、田無の北方、谷戸の宮山に鎮座していた神社です。その後、江戸時代に村の中心が青梅街道沿いに移ったことで、現在地に遷座し、明治になって周辺の神々も合祀して田無神社と改称されました。江戸時代の名工・嶋村俊表による見事な彫刻を施された本殿など見どころも多く、ぜひ参拝したい神社といえます。
 境内には田無用水の跡が残っていますが、これは飲料水にも事欠き、朝に夕に谷戸から水を運ばねばならなかった田無の住民の苦難を解消すべく玉川上水から引いた用水路で、元禄9(1696)年に完成したものです。

 田無神社をあとに、青梅街道を西へ行くと、すぐに今度は田無山総持寺(真言宗智山派)です(田無町3-8-12)。
 江戸初期に石神井村三宝寺の末寺・西光寺として創建されたのが始まりと伝えられ、その後、現在地に移転。明治8年に近隣の観音寺密蔵院と合併して総持寺と改称しています。境内北側の墓地には3基の庚申塔がありますが、そのうちの1基は柳沢庚申塔と並んで追分に立っていたものだということです。
 また、門前を横切る「やすらぎの道」は田無用水の跡です。

(総持寺)

 とにかく、田無の中心部までやってきました。田無宿は青梅街道が参勤交代のルートではなかったことから本陣なども置かれず、正式な宿場ではなかったようですが、江戸時代を通じて多くの街道が交わる交通の要衝として繁栄しました。幕末の安政5(1858)からは毎月一と六の日に定期市も開かれ、大いに賑わったようです。ここまでたどってきた六郷田無道も明治以降、三鷹あたりまでは世田谷のボロ市へ行く道として認識されていたようですが、三鷹以北の人々にとっては田無の市に買い物に行く道として認識されていたのでしょう。



 その田無が発展から取り残されるきっかけになったのは鉄道の開通です。今のJR中央線の前身、甲武鉄道が明治22年4月に新宿〜立川間で開通した時、当初は人口の多い甲州街道沿いまたは青梅街道沿い(田無経由)のルート案がありましたが、地元の反対(宿場の客が減るとか、汽車の煙で桑の葉が枯れるとか…)で実現せず、沿線住民がほとんどおらず、したがって反対もなかった現行ルートでの開業となったそうです(8月には八王子まで延伸)。当時、新宿と立川間には中野、境、国分寺の3駅が置かれ、所要時間は1時間でした。旅客列車の運行は1日4往復でしたが、むしろ、奥多摩や甲州からの石灰石や木材などの輸送が鉄道建設の主目的でしたから、物資の輸送における青梅街道の重要性の低下は避けられませんでした。
 さらに、明治27〜28年にかけて川越鉄道(現・西武国分寺線)が甲武鉄道の国分寺から東村山、所沢を経て川越に通じる鉄道を開通させたことで、田無宿の役目は完全に終わったといえるでしょう。田無の定期市もこのころから寂れていったようです。その川越鉄道の後身・西武鉄道が東村山から高田馬場まで田無経由の鉄道(現・西武新宿線)を開通させたのが、昭和2年になってからです。

(田無町交差点。南からくるのが武蔵境通り)

 田無宿の歴史は終焉を迎えましたが、地図を見れば分かる通り、多くの街道が四方八方から集まる田無が交通の要衝であることは現在も変わりません。
 というわけで、道は田無を通り過ぎて、どこまでも続きますが、「六郷田無道」の旅はここで終わることにします。大田区の六郷から途轍もなく長い旅だったように感じられます。六郷から田無まで、何度かに分けて、実際に歩き、あれこれ調べ、ようやくこの探索レポートも完結に至ったわけですが、六郷田無道などというマイナーすぎる道に関心を持つ人が果たしているのかどうか、大いに疑問ではあります。そう考えると、ちょっぴり徒労感が・・・。まぁ、単なる物好きの自己満足的所産としか言いようがないですね。 (完)


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