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都電のある風景



 97年は都電にハマる事となった。その発端となったのが、林順信氏の「都電が走った街 今昔」の存在だ。 もともと、こういった「定点観測」こそが、写真の醍醐味だと僕は思っている。
 僕が都電に興味を持ったのはこれが初めてではない。記憶の彼方をたどってみるとかなり昔までさかのぼる事が出来た。
 都電の現役時代を知っている人からすればつまらない事なのかもしれないが、都電の廃止が始まった時には僕はまだ生まれていなかったのだから仕方ない。昔の様子は写真を見てしか知るすべがないのである。
「写真は過去を見る事が出来る一方通行のタイムマシンだ!」






1.本当の出会い

 幼少の頃、西武池袋線の中村橋に住んでいた。夏休みや正月にに大阪の実家に帰省するのに新幹線を使用していた。まだ博多まで開通していなかった頃の話だ。
 新幹線に乗る事が何よりの楽しみだった。数日前から胸を躍らせ、当日も新幹線にたどり着くまでの時間がまるで永遠かのような長い時間に感じた。
 西武線で池袋に出るのは毎週日曜日の日課であったので、目新しい事はなかった。それに対して山手線に乗るのは新幹線に乗るのと同じ位少なく、印象がなかった。「黄緑一色の電車だ」という事がかろうじてわかった程度で、くるくる回っている事を知るのはずっと後の事だった。
 その中で唯一記憶があるのが、道路の上をまたぐ高架橋の上から見た、道路の中央を走る4本の筋だった。
 それは複線の線路のように見えなくもなかった。しかし、当時の認識として、線路というものは、下には木の枕木が引かれており、さらにその下には茶色い砂利がひかれていなければならず、また線路の上には「架線」というものがなければならなかった。ところがこれは、道路の上に直接存在し、また線路の間隔、上り線下り線の間隔が、いつも見慣れているものと大きく異なっていた。
 「何かの見間違いだ!」
道路はすぐに見えなくなり、山手線はあっという間に神田駅に到着した。僕の心はすでに、これから乗車する新幹線の事でいっぱいになっていた。
 これが廃止直後の都電「須田町〜岩本町」間であった事を発見したのはそれから四半世紀も過ぎた後だった。




2.あれは何!?

 昭和51年末、いかなる理由でそこに居たのかは忘れてしまったが、単編成で道路の上を走る電車のようなものを発見した。「あっ!あれは何?」思わず叫んでいた。これが都電との出会いだった。そこは普通の線路上を走って来た電車が90度左に向きを変えて道路上を走る場所だった事から、「王子駅」であったと推察される。またここは右90度にも分岐していたようなのだが、右に曲った線路は曲がりきった所で突然切断されていた。かつてはこの先はどこかに延びていたのではないだろうか?「廃止」というような意味合いの事が頭に浮かんだ。




3.最後の都電

 昭和52年の正月、かねてからの希望であった都電に乗車する機会にやっと恵まれた。
 地下鉄の三ノ輪に着き、大通りを少々歩いた後、せまい路地裏を歩く。突然、電車と線路が出現した。改札口はない。歩道のようなホームから電車に乗り込む。中はせまく、階段で高い床まであがる。さながらバスに乗ったようだった。
 運転席は確かに電車のものだった。乗務員室と客室を仕切る壁はなく、運転席のすぐ側まで客が進出する。冬休みという事もあり、運転席の周りは騒がしい子供達に占拠された。勿論僕もその中の一人である。親切そうな運転士さんはいやな顔をするどころか、「それじゃあ出発するからね〜」等と子供たちに笑顔を振りまいていた。
 駅を何駅過ぎても道路の上は一向に走らなかった。それでも、初めて乗る都電に興味は尽きなかった。運転席の上には大きなベルがあり、そこから麻紐が最後部まで延びている。そして後部のベルから延びてきた麻紐が運転席の頭上で終わっている。車掌が後ろで紐を引っ張ると前で「チンチン」と音がする仕組みだ。「原始的」とか「なぜ電磁石でやらないのだろう?」とは思わず、新鮮さを感じた。
前の電車が駅に止まっている時、その電車の数十センチ後方まで接近して止まり、前の電車と一緒に客を乗降させてしまう等、普通の鉄道では考えられない。正面が3枚窓のもの(7500形)と2枚窓の車両(7000形)が大半を占める中、老朽化し、まるで「おじいさん」のような車両が数量あった(6000形の現役姿を見ていた!)。
 結局、道路の上を走るのはごく僅かな区間であり、それは不満であったが、都電乗車は充分に満足いくものだった。

 この1年数ヶ月後に、都電はワンマン化された。車掌は乗務せず、麻紐を引っ張って運転席上のベルを鳴らす事もなくなった。
 「都電スタイル」の元となった6000形は花電車の種車になった後解体された。7000形は車体更新されて表面上は新造車のようになり、7500形も大きく改造され、両者とも塗装が変更になった。都電は完全に生まれ変わってしまった。




4.飯田橋交差点

 昭和60年、高校の図書館で都電の写真集をみつけた。「なぜこんなに分厚いのだろう。しかも上下巻だ」
 その答えはページを開いてすぐにわかった。都電が皇居の掘りの横を走っていたからだ。六本木を走っていたからだ。不忍池の横を走っていたからだ。東京タワーの下を…以下略。とにかく、都内の至る所に網の目のように線路が張り巡らされていたのだった。通学時に見る、秋葉原〜飯田橋間だけでもどれだけの路線を見ることができたろう。都電=三輪橋〜早稲田ではなかったのだ。
 帰り道、飯田橋のタコ足歩道橋の上から五差路になった交差点を見下ろす。毎日通っていたこの歩道橋の下で都電が十文時に交差していた。驚きと、遠い昔への憧れを胸に秘めながらおびただしい数の車が往来する路上を見下ろし、そしてため息をついた。信号が変わり、交差点上に一瞬車のいなくなった時、アスファルト上に4本のひび割れがある事を発見した。「あれ線路が埋まってるんじゃないの?」冗談で友達に言った。「そうかもね」彼も目を輝かせながら答えた。




5.都電と桜の撮影になぜ白黒フィルムを?

 フジテレビのドラマ「 GHOST SOUP 」に登場した「 鈴木一郎祖父宅 」探しを、かれこれ3年位やっていた。「柏木家」の時のように簡単にはいかなかった。なにしろその家の他には、背景に数回建てらしい建物の一部が写っている以外まったく手がかりがなかった。最近、どうも新宿区にあるのではないかという気がしてきた(というのは、別のシーンで「消火栓」に新宿区のマークのようなものが書かれていたから)。そこで新宿区を片っ端から歩く事にした。
 初日は高田馬場からスタートした。そしてすぐにこの場所にたどり着いた。河川敷には桜が満開である。桜の季節である事などすっかり頭の中になかった。都電とも久しぶりの対面である。とその時、古めかしい車両が現れた。たとえ車両の知識がなくても、モーター音を聞けばすぐにわかる。車内は木造のようだ。典型的な黄金分割の構図で車両と桜を入れる。
 「柏木家」はこのすぐ近くにあるのだが、鈴木一郎祖父宅探しはまだ始まったばかりだった。






6.郊外電車

 「都電が走った街 今昔」(林順信氏著JTB CAN BOOKS)という本を買った。「魚藍坂下」のページを見て驚愕した僕は、古川橋〜魚藍坂下や、専用軌道部分を中心に都内を歩いていた。いくら歩いたって当時の面影等ある訳がないのだが。
 「面影…面影橋…そうだ、あそこには面影はないが都電があるではないか。しかも桜の季節だ。」
 昨年は桜を白黒で撮るという前代未聞の事態に遭遇した。今回はプロビアだ!。しかし不幸にもその日は雨だった。
 雨の中、傘を差しながらの撮影が続いた。良い写真など取れる訳がない。雨が強くなったので、都電に乗って帰る事にした。早稲田まで歩き、立派なホームで電車を待つ。隣にいた親子づれの会話によると、もうすぐ「古い電車」がくるらしかった。それはあの、昭和30年代初頭の塗装が施された6000形の事だろう。電車を3本位やりすごした後、それは古くも美しく手入れされた車体を雨の中に惜しげもなくさらしながらやって来た。
 「ひょっとして、これなら、都電全盛期にタイムスリップ出来るだろうか…」
 車内に乗り込む。車掌さんが迎えてくれる。壁や床が木で出来ている。そういえば昔の電車はそうだったのだがすっかり忘れていた。前と後ろに乗った車掌さんが手でドアを閉め、麻紐を引っ張って出発の合図の「チンチン」というベルを鳴らす。そして巨大で重厚なモーター音を唸らせながら、車体はゆっくりと進んでゆく。ライブによる車内放送が流れる。

 6000形に乗ったのは初めてだったが、都電に乗ったのは2回目だった。つまり丁度20年前に一度乗ったきりだったのだ。
 古い車体に大満足しながらの道のりだった筈だが、心の奥に何か引っかかる物をずっと感じていた。麻紐のベル、車掌、旧型車両、ビューゲル式の集電装置…何もかもが完璧な筈だった。
 三輪橋の駅を降り、6152号を見送る。その時ホームから何者かが線路上に飛び降りた。線路上に何か落としでもしたのだろう。彼はあわててホームによじ登る。その瞬間すべてが判明した。
「ホームだ!」
 都電に乗車する時は、歩道のような低いホームからバスに乗るように車内のステップを上っていたのだ。それが、今乗ってきた6000形では、普通の電車に乗るような感覚だった。扉はホームよりはるか下まであるのに、客室内はフラットで、乗降口の所に不自然に金属板がはめられていた。これだったのだ!心の中にひっかかっていたものは!。結局、この6000形だってもう昔の物ではなく、姿は古く、たとえバスカードは使えなくても、所詮は現代の車両なのだ。
 僕の心の中で何かが壊れたような気がした。






7.阪堺電気軌道

 通天閣へ向かうべく、地下鉄のえびす町で待ち合わせをしていたのだが、約束の時間まではまだ2時間もあった。大阪駅から歩いて来たので疲れていたし、何よりも暑いので一歩も動きたくなかった。目の前には「阪堺電軌のりば」という看板が見える。「軌道」というのは路面電車の事だ。とはいえ、今時大阪のような大都市でまともな路面電車なぞなかろう。どうせ郊外電車だ。
 しかし、やって来た車両はビューゲルこそなく、冷房装置が搭載されているとはいえ、立派な路面電車だった。形式を「モ501」といい、昭和36年帝国車両製のものだ。都電では7500形あたりに相当する。ワンマンカーであり、車掌もいないが、それでも低いホームからステップを経由して乗り込むという点では荒川線より一歩リードしていた。
 そして走り出す。すぐに専用軌道から路面上を走り出した。感動的だった。いつまでたっても路面から離れないばかりか、路面上に駅があり、歩道のような高さのホームがある。「安全地帯」という名のV字型をした道路標識まであった。

 道路上での平面交差もあるし、車が軌道敷内を通行しなければならない所もあるかと思えば、センターリザヴェーションエリアが設けられている所もあるし、いたれりつくせりだった。夏の暑さのためかグニャグニャに曲がった軌道上を、車体を大きくヨーイングさせながら電車は進む。前方には右折のために軌道内に入った車が動けなくなっており、電車は激しく警笛を鳴らす(が減速はしない)。信号で停車する時は、前の車のほんの数十センチ後方に停車する。加速及びブレーキ性能が著しく異なる車両が同一線上を走行するのは確かに恐い。が、運転手は何事もなかったかのように運転を続ける。これが路面電車なのだ。運転席の横にへばりつきながら用もないのに堺まで往復してしまった。
 感動的な乗車だったはずなのに、やはり僕の心には引っかかるものがあった。それは、僕のよく知っている東京ではなく、右も左もわからない大阪という街に起因しているような気がした。大阪の街とて嫌いではないし、知らない街を予備知識無しに歩くというのは好きなのだが、このような状況で路面電車に乗った場合、それはただの「電車好き」になってしまうのだ。僕の都電に対する気持ちはそういうものではないような気がした。






8.路面電車よ再び

 96年7月13日、建設省は、各都市の路面電車の新設や延長に補助金を出すと発表、ラッシュ時の渋滞や排気ガスの環境問題で、路面電車があった方が利点があるとの判断が出た。
 東京の街では現実的な所、都電の復活はありうるだろうか?  よくてせいぜい荒川線の少々の延長と、少々の分岐程度。それと城東地区の一部といった所か。山手線内にはすでに地下鉄が網の目のように走っており、残念ながら新規に復活しそうな所はなさそうだ。

 なのだが、もし我々の想像を絶するような理由により、かつての全路線が復活する事になったとしたらどういう事になるだろうか。高層ビル群の中を新鋭のVVVFインバーター付きの8500形が走り回る事になるのだろうか。8500形の構造上「歩道」並みの高さのホームでは不可能なのだが、専用軌道ならともかく、道路上にホームを作るからには、やはり「歩道ホーム」で実現せざるおえない。(後ろのドアを一番後ろまで移動すればなんとかなるか?それともステップ付きの新造車か、話題の超低床車両になるのか)。軌道敷内を車が通ると、かつての二の舞になる事から、センターリザヴェーションエリア内を優々と走る事になる。道路はますます混雑し、最左車線の実質的な「駐車スペース」も廃止され、山手線内へ車で行くのがほぼ不可能になり、よって道が空く…というのが僕の理想像なのだが、もしそうなったとしても、あまり感動する事が出来ない。

 都電が走ったからといって、魚藍坂下の印章店が木造になる訳ではなく、古川橋の幅が狭くなる訳ではなく、その間の「ごみごみしてはいたが人情っぽい街並み」が現れる訳でもなく、神谷町に2階建ての家が立ち並ぶ訳ではなく、首都高速が都市の空を覆わなくなる訳ではない。円形の日劇や不二家のネオン広告塔、永代橋たもとの奇妙なビル、両国国技館、旧都庁、帝国ホテル、東京歯科大学、…ああ、もう書き並べるのが面倒になってきた。(最近「丸ビル」「東京宝塚劇場」「万世ビル」が仲間に加わった)たとえ都電の復活があっても、これらの復活は絶対ににありえないのである。

(僕はどうやら隠れ建築物マニアらしい)





9.都電のある風景

 どうやら僕の憧れている世界というのは、路面電車が俳諧する都市ではないようだ(勿論嫌いではないが)。といって都電が好きという訳でもないらしい(勿論嫌いではないが)。路面電車が走っていた時代の東京に憧れているようだった。
 路面電車が空襲で破壊された時に復活せずにいたら、都電には別段憧れる事もなかっただろう。戦争より前の話なんて僕には別次元の話だ。「昔、東京には市電が沢山走ってたんだよ」と言われても、それは、「昔、東京には馬車が引く路面鉄道が沢山あったんだよ(注:明治時代に本当にあったそうです)」というのと同レベルに聞こえる。
 だからもし都電が修復されず、この本のタイトルが「大都市東京 今昔」とかなんとかいう本だったとしても、やはり僕は深い感銘を受け、魚藍坂や古川橋に足を運んでいた事だろう。
 要するに、「都電が走った街 今昔」で、都電の背景にチラチラと見え隠れする「戦後」「おおらか」「復興」「高度経済成長」といった魅惑の都市東京に憧れていたのである。

 30年前の新橋駅前の路上には車は多いが車線を示す白い点線がない。横断歩道の白い縞模様もない。あるのは廃止された都電の線路だけだ。





写真解説
1.山手線の秋葉原〜神田間で車内より撮影したもの。通勤で毎日通っている場所であり、その時間帯に撮れば順光でもっと良く写るはずなのだが、満員の車内でやかましい一眼レフを振り回すのは気がひけた。

2.王子駅前。線路はここで90度左折しているが、90度右折及びその間をまっすぐつなぐ線路があった。分断された線路はかつて赤羽まで延びていたのだが、都電を初めてみた小学生がそんな事を知るよしもない。

3.昭和52年1月2日。早稲田にて。この2枚の写真の発見がこの文章を書くに至ったきっかけでした。「旧景」といえるのは実はこれしかない。

4.地下鉄工事だのなんだので、流石にもう撤去されたかと思ったが、まだあった。この写真では大変見にくい(というより絶対に判らない)が、外堀通りから大久保通りに向けて、4本のひび割れがきれいな弧を描いている。

5.この写真を撮った時は、まだ「6000形」というものを知らなかった。ちなみに「鈴木一郎祖父宅」は、この1週間後、偶然に突拍子もない場所で発見した。それは確かに「新宿区」に存在していた。

6−1.早稲田にて。都電を撮っているのに、ぜんぜんそんな気がしなかった。
6−2.三輪橋にて。本文ではあんな事を書いているが、本当は、「3」の写真を見つけた時(6000形乗車より後)に気づいた。

7−1.天王寺にて。「歩道のようなホーム」より乗車する。
7−2.えびす町〜あびこ道間。どこまでも続く路面上の軌道と東京では見られなくなった安全地帯の標識。

8.魚藍坂下の、旧錦章堂印舗前を通る新7500型(ちと苦しいが)。やはり、「都電が走った街 今昔」のP40上の写真のような情景にはならない。なお、この写真を見て、明らかにおかしい所を発見できたなら、相当の都電通である。「都電が魚藍坂下に走っている筈がない!」というのは…名答です。

9.昭和43年及び97年の新橋駅からの光景。42年末に廃止になった6系統の線路が残る






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