このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▼黒金門跡の正面に位置する二の丸石垣〜安土城の石垣の積み方は、場所によってさまざまに異なっている。

主郭部分〜摠見寺跡をゆく
■天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにある。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立している。平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきた。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が並び、地下通路を通って天主へ向かうような感じであったと推定。

【本丸跡】

■天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられている。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見された。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもあった。4〜6寸(12〜18㎝)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえる。
■礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かった。「信長公記」には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことが記されている。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しなかったが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿であったと言われている。

▼天主跡〜低石垣に囲まれた東西、南北それぞれ約28mの台地。今は礎石が、東西10列、南北10列に整然と並ぶだけであるが、この部分は天主の穴蔵(あなぐら・地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな五層七階の天主がそびえていた。天主台の大きさについては、礎石が整然と並んでいる地階部分よりはるかに大きく2倍半近くあり、現在では、石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることはできない。安土城は、天正7年(1579)5月11日完成、しかし3年後、天正10年(1582)6月14日〜15日にかけて焼失。火を掛けたのは誰であったかは今もって不明。

▼蛇石(じゃいし)とされている巨石〜安土築城には巨大な石材が利用された。なかでも蛇石は、1万人もの労働者が3昼夜を費やして山上へ押し上げたという。この蛇石は、石垣用の石材としてはさほど大きくなく、疑問が残る。

▼二の丸跡〜石段を登ったさきには信長廟所が建つ。石段下の右には、蛇石とされている巨石が残る。

▼二の丸の織田信長廟所〜本能寺で自害した信長の遺骸は一片の骨も見つけられず、信長を祀る廟所や墓には遺骨は埋葬されていない。安土城の廟所は、羽柴秀吉が信長の一周忌に造営した。

▼二の丸下の黒金門周辺は、高い石垣が累々と残り、安土城が石垣の城であることを思い知らされる。

▼黒金門に使われている石垣は、他の石塁や郭の石垣に比べて大きな石垣が使われている。また、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。

<写真左上>摠見寺本堂跡
<写真右上>摠見寺三重塔(重文)
<写真左>摠見寺二王門(重文)
 二王門と三重塔には、安土築城以前の年号が記された棟札があり、ほかの寺社からの移築と考えられる。寺は信長在世のころから安土城内に存続したが、規模や位置は謎に包まれる。
 廃城後は、豊臣家や徳川家の保護を受け、信長の菩提を弔う寺院として存続。1854年(安政1)の火災によって、伝徳川家康邸跡に本堂を移した。

◆安土城天主の模型       (安土城考古博物館展示)
■主郭部の石垣 石垣下の平坦部は台所跡、石垣後方は八角平。 この辺りは、立ち入りが制限されている。
 ◆「信長の館」に原寸大にて忠実に復元された安土城天主の最上階5階6階部分
 
5階部分
 
6階部分

【黒金門跡(くろがねもんあと)

▼城内道
 この道を行ったところが本丸跡、三の丸跡になり、さらに天主跡へと続く。

▼仏足石〜昭和の初期登山道整備のとき、崩れた石垣の中から発見された仏足石は、大手道などに見られる石仏と同様に、築城当時単なる石材として石垣に使用されたとみられる。

【二の丸跡】

■この場所は、主郭部分の見学を終えて、黒金門跡から再び石段を下りきった突き当たりの所になり、左に行くと大手道、右に行くと摠見寺(そうけんじ)跡・百々橋口へと至り、大手道と百々橋道の合流点になります。

■百々橋口(どどばしぐち)道の上り口
 この上り口は通行禁止になっています。
 (2008年4月現在)

 急な石段が山腹へと向かい、伝織田信忠邸前で大手道と合流する。城下町とは、この登り口の手前を流れる安土川に架かる百々橋で結ばれていた。

【摠見寺本堂跡

【天主跡】

■天主跡への石段 石段を登りきると、眼前に天主台礎石群が並んでいます。

▼後方の石段を上がって、左に行くと天主跡

▼天主の石垣

【三の丸跡】

▼伝長谷川邸跡の織田信雄四代供養塔

▼二の丸と本丸への入口〜右側に仏足石が置かれている

▼左に黒金門跡、右は二の丸石垣〜門と石垣の間を奥に行くと伝長谷川秀一邸跡。

■大手口・大手道・屋敷跡をゆく

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■黒金門は、安土城中枢部への主要な入口の一つ。主郭部外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入口が数ヶ所設けられていた。 発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かった。 この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入口になる。
■三の丸跡の石垣 ここから先は、通行止めとなっています。 石垣左側の奥が、台所跡、米蔵跡になり、手前の広場は本丸跡です。

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