このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 毛利氏
260年の城跡

●左が青山。右が光井山。総称して青光井山(あおみついやま)と呼ぶ。標高は青山が370m、光井山が367mあり、山上には曲輪が多く残り、青光井山尼子陣所跡として町史跡に指定されている。

●天文9年(1540)9月、出雲・富田の尼子晴久が率いた3万の大軍は、天文10年(1541)1月頃までの5ヶ月あまりにわたり、毛利元就と対峙し、郡山合戦を繰り広げたところ。毛利軍は小勢ながらよく戦い、尼子軍を敗退させた。
この郡山合戦により、郡山城は天下の堅城として知られるとともに、元就は戦国大名として飛躍のきっかけをつかみ、この城を本拠として、中四国、北九州まで勢力をのばした。

●天正19年(2591)、郡山城は、輝元(1553〜1625)の広島城移転後は廃城となり、関ヶ原合戦以降とり壊された。徹底を極めた破壊にあいながら、建物跡、崩れた石垣、土塁、井戸など古城のいわれを誇る遺構が無数に横たわっている。

所在地広島県安芸高田市吉田町
■アクセス:JR芸備線「向原駅」下車 タクシー又は車にて10km
吉田の市街を見渡す独立丘に位置し、戦国時代有数の巨大山城(標高390m)。南北朝時代、安芸毛利氏の祖時親(ときちか)が築いたと伝えられる。

{広島城}

◆毛利輝元画像

城跡散策

〓郡山城跡ガイドマップ〓

◆郡山城前方の青光井山尼子陣所跡

 郡山城の歴史

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■山麓周辺
■本丸周辺と旧本城跡
■吉田歴史民族資料館から元就墓所へ

国史跡

毛利元就(もうりもとなり)画像

●郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)に、毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就(1497〜1571)が郡山全山を城郭化し、さらに輝元(元就の孫)が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。

●郡山城は、北流する可愛川
(江の川<ごうのがわ>は上流地域では可愛川<えのがわ>と呼ばれる)と、それに注ぐ多治比川(たじひがわ)との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がる。

●遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。

※元就は、安芸国の国人に過ぎなかった毛利氏を、わずか一代で山陰・山陽10か国と豊前国(大分県)・伊予国(愛媛県)の一部にわたる覇権を確立した。

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