| 昭和10年に満州皇帝溥儀は来日をしました(1935年)
昭和天皇の招待による日本公式訪問です。
昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行ったとも言われます(恐らく、この訪問の際の出来事)。そのこともあってか東京駅前は大きな奉祝門もつくられました。
その際の報道写真から、御召艦比叡と東京市を中心に紹介いたします。 |
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| 満州国皇帝の御召艦となった比叡が入港するところです。
画像手前は巡洋艦の砲塔の天井と思われます。
御召艦とは、皇族、天皇が座乗する艦で、地方へ出かける際の移動など皇室行事に活用されました。
この御召艦は、様々な艦艇が勤めましたが、大正末期から昭和初期には比叡がこれを多く勤めました。
これは、この頃にロンドン軍縮会議の結果として比叡は練習戦艦に艦種変更されました。この為、御召艦としてのスケジュールが組みやすかったことが挙げられます。またこうした経緯から、報道でも多く見られ、広く国民に親しまれた艦でもあります。
溥儀の来日にも比叡は御召艦の任務に付き、昭和10年4月6日に大連から溥儀を連れて横浜へ入港、4月23日に横浜から大連に皇帝を送り返しています。当時の比叡艦長は井上成美海軍大佐です。
井上成美(いのうえ しげよし)も激動の時代で生きてきた人で、詳細はウィキペディア他で様々取り上げられています。
彼の晴れ舞台でもあったものと想像します。 |
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| 横から見た比叡です。練習艦となった比叡の、他3隻の姉妹艦たちとの概観の違いがよくわかります。
まず、4番砲塔がありません。軍縮の条約に伴うものです。結果、本来4基あった砲塔は3基しかありません。
そして舷側甲鈑が撤去されており、1番前の砲塔から4番目の砲塔までの側面に概観上の違いがあります。また艦中央の煙突(艦橋の後ろ)が細いものになっています。
4番砲塔が取り付けられていない部分は台座が凸状にあり、この上には御召艦の任務にあたって御展望所が設けられました。溥儀を迎えに行った際にも、これが4番砲塔の台座の上にあります。
ここで戦艦のプラモデルについて。これまでも比叡は、姉妹艦である金剛、榛名、霧島と共に沢山のプラモデルの作例があります。が、この練習艦時代の比叡の作例は稀の様です。砲塔がないことも相俟ってか、完成した時の模型栄えがしないのかもしれません。もし、各時代の艦の状態で作成されたい方がおらましたら、本頁の画像が資料としてお役に立てば幸いです。 |
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| 岸壁に横付けにされる比叡です。
先ほどは水兵が並んでいましたが、こちらは民間の人にも見えます(逆光で真っ黒の為、よくわかりませんが)。
比叡の姉妹艦の榛名も御召艦の任務を行っています。こちらは満州皇帝溥儀ではなく、歴代の天皇の御召艦です。その際のエピソードとして、昭和6年の熊本での陸軍大演習へ出席された昭和天皇の件を挙げてみます。
昭和天皇は、熊本からの帰りは鹿児島まで汽車で移動されて、横須賀までを船で移動されました。その際の海路で比叡の姉妹艦、軍艦榛名が使われています。さて榛名が鹿児島湾(錦江湾)を出発するに当たり、鹿児島湾を囲む鹿児島の両半島に、等間隔で篝火(かがりび)が焚かれていました。地元民が、お見送りの為に焚いたものです。
丁度、お食事を終えた昭和天皇が一人、誰も居ない真っ暗な甲板でこれらの火を、きちっと直立、挙手敬礼でご覧になられていたそうです。侍従がこれに気づき、艦長室へ急いで連絡、急遽、返礼として探照灯(サーチライト)で半島を照らしたそうです。榛名のサーチライト6基を総動員し、薩摩半島、大隈半島をそれぞれ照らしたそうです。
ちなみに樺太でも御召艦のエピソードとして、戦艦長門が御召艦を勤めた際に、海馬島という小さな島を通過、その際に付近の漁業従事者が荒海にかかわらず、小船で長門をお迎えしようと漕ぎ出していたそうです。御召艦は各種報道において広く国民に知られていたそうですが、さらにこうして各地で歓待されるなどして親しまれていました。 |
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| 既に停船している様です。
船尾、甲板から一段下がったところに、出っ張りが設けられているのがわかりますでしょうか。
これはスタンウォークです。
スタンウォークとは、いわば回廊です。これは帆船時代から設けられているもので、ただの回廊です。
スタンウォークは、帆船時代から艦長室が艦尾にあった時代の名残でもあります。
戦艦三笠にも設けられています
(こちら)
(近代化に伴い、スタンウォークは廃止され、これを持っている艦も無くなります)。 |
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| こちらは神戸での比叡様子。
岸壁に、大きな階段が据えられ、比叡とつながっています。 |
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| では、船の様子を。
3番砲塔の大きな大砲が見えます。 |
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| 展望所での満州皇帝です。
右側に階段が見えるので、先ほどの階段の位置から考えて、左舷へ向けて挨拶をしている様です。 |
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| 艦内の広い部屋が居間として充てられた様です。
これが艦のどの部分かはわかりません。想像ですが、艦尾のほうではないでしょうか。
丸い窓のある壁が斜めに見えますのと狭い間隔で並んでおりますので、艦の形状から推定が可能かもしれません。 |
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| 参考まで、先の2番目の画像と比較するため、練習艦になる前の比叡の横向きの姿をこちらに紹介します。
画像は、キャプションに比叡・榛名とあり、どちらを撮影したものかは判りませんが、比叡も榛名も姉妹艦で概ね形が同じなので、同列に書かれているものと思われます。また、大正時代の撮影と判断します。
船は先ほどの入港のものと向きが逆で艦首が左です。
向かって右側、四番目の砲塔がこれには付いています。これが練習艦として改装されたときに取り外されるわけです。
ちなみに船体に斜めの棒状の物がいくつも見えますが、これは魚雷防御網を展開するための支柱で、これは大正末期に撤去されます。またこの頃は煙突が三本ありますが、後の機関の改良で2本となります。 |
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| 溥儀訪日にあたり、日本では熱烈な歓迎があったようです(もっとも、田舎ではあまり印象は残っていない様ですが)。銀座など、歓迎ムードが演出されています。これらは無論、国の代表の表敬訪問、マスコミなどが大きく扱ったからということもあります。が、私が把握している範囲で皇帝(国王)が来日したケースは溥儀より前には無いはずです。そのことからすると、溥儀が最初の来日の皇帝だとすると、そのことは日本人にさらに大きな感慨を持たせた要因というのは如何でしょうか。イギリスはチャールズ皇太子の日本訪問の大歓迎を連想しました。
こちらは東京駅前に設けられた奉迎門です。
満州風なデザインとなっています。背景に空襲前の東京駅駅舎が見えます。 |
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| 奉迎とかかれた門と満州国旗、そして電燈が明々と点いています。
こうして見ますと、この当時から夜の銀座は随分と明るいことがわかります。 |
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| 東京市が路面電車を花電車にして走らせた時の様子。左側は走る舞台となっていて、人々が踊っています。 |
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| 花電車の電飾が点灯した様子で、沢山の電飾が歓迎を演出しています。
これが夜の街をはしる姿は、随分と華やかなものであったと想像します。 |
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| 先の東京駅前の奉迎門もライトアップされています。
東京駅の前のロータリーが見えないので、皇居側から東京駅方面へ向けての撮影と考えます。
こうしてみますと、満州皇帝来日は、一大イベントであったことが伺えます。 |
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