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八丈島の歴史 | 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 |
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しょっちゅう飢饉に襲われて大勢の島民が死んでいました |
八丈島に襲いかかる疫病と飢饉の嵐 |
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[2]八丈島の飢饉・疫病・災害 [3] 八丈島の特徴的な流人たち | 八丈島は火山の島で作物が育ちにくいことに加えてそもそも農地が少なく、平常時でさえ年間を通じて食料が不足気味で飢餓の島といわれていたそうです。 ただでさえ少ない農地に自然の猛威が容赦なく襲いかかり、八丈富士(西山)の噴火をはじめ、台風などによる大風や潮の吹き上げが多く、害虫やネズミの被害も大きいものでした。また、疱瘡などの流行病が発生したことによって作付けができなくなり、その結果しばし飢饉に襲われて大勢の人が餓死しています。 さらに離島であることや、 流人が多かったことも飢饉の被害を大きくした原因です。 現在の美しい八丈島の様子からはあまり実感できませんが、ここではかなり悲惨な歴史があったようです。飢饉といってもあまりピンとこないと思うので、主な飢饉と死者の数を年表にしてみました。 |
1693(元禄6)年編纂の「八丈年代記」に記されている飢饉災害の記録 |
年 | 様子 | ||
1456(康正2) | 9月に大風が吹いて病気がとても流行った。飢饉のため牛を食いに山に入った | ||
1487(長享元年) | 11月に八丈富士(西山)が噴火して島中が酷い飢饉となった | ||
1503(文亀3) | 春、旱魃で台地が乾いて割れた。2月には雪や霜が何度も降った | ||
1505(永正2) | 飢饉発生! 3年間山に住んで牛を食う。食べなかったのは役人や神主など18軒だけだった | ||
1506(永正2) | 飢饉で作付けできず、種などの援助で国地に船を出す。帰って来て皆で分けた。死者は出なかった | ||
1510(永正7) | 元旦に大風。1月2日に洪水が発生した | ||
1511(永正8) | 大風が吹いて作物はとれず、死人が出た | ||
1512(永正9) | 飢饉で年貢を1年分収められなかった | ||
1518(永正15) | 八丈富士(西山)が噴火。噴火は6年間続いて人家に煙がかかり、麦や蚕がだめになった | ||
1532(天文元年) | 麦がだめになって餓死人が多く、5つの村とも牛を食いに山に入った |
八丈島の中腹には中世の頃より牛山と呼ばれる牛の放牧場があって牛を共同で放牧していましたが、飢饉が発生してシダなどの野草まで食べ尽くしてしまうと、最終手段として放牧牛を食料としました。「牛を食う」とはそのことで、その様子は八丈年代記の中で次のように記載されています。 「九月大風吹テ世ノ中悪シ、亦瘡病夥シクハヤル、飢饉ニテ牛山ヘ出ル」 「牛山江出ル」 「飢饉ニ付テ牛ヲ切、牛山ニテ年貢ヲ調テ」 「牛山ニ三年住」 「百姓大勢牛喰山エ出ル」 現代は牛丼チェーンが繁盛して牛を食べることはごく当たり前ですが、当時の状況は今とはまったく違います。獣の肉を食することは奈良時代から江戸時代までは許されておらず、それは生きるために止むにやまれぬ手段でした。ちなみに八丈島では、明治の初めの頃になっても牛を食べた者が処罰されています。 |
八丈島で死者の発生した江戸時代の飢饉・疫病・災害の記録 |
年 | 原因 | 様子 | 死者の数 | ||
1604(慶長9) | 津波 | 田畑半分だめ | 75人が死亡 | ||
1636(寛永13) | はやり病 | - | 病死者多数 | ||
1641(寛永18) | 疱瘡 | - | 53人が病死 | ||
1646(正保3) | はやり病・大しけ | - | 180人以上が病死・死亡(八丈小島含む) | ||
1677(延宝5) | 津波 | - | 1人が死亡 | ||
1682(天和2) | はやり病 | - | 30〜40人が病死 | ||
1688(元禄元年) | はやり病 | - | 100人以上が病死 | ||
1700(元禄13) | 大風雨 | 麦全滅 | 餓死者多数(八丈小島含む) | ||
1701(元禄14) | 大風 | 作物全滅 | 冬〜夏に700人以上が餓死(特に中之郷・八丈小島が被害甚大) | ||
1703(元禄16) | 大津波(末吉以外) | - | 中之郷で3人流される | ||
1709(宝永6) | - | - | 飢饉発生! | ||
1710(宝永7) | - | - | 飢饉継続中・・・ | ||
1711(宝永8) | - | - | 飢饉継続中・・・中之郷で3年間に664人が餓死 | ||
1711(正徳元年) | - | 秋作全滅 | 飢饉継続中・・・ | ||
1712(正徳2) | - | 秋作全滅 | 飢饉継続中・・・2年間で990人が餓死 | ||
1713(正徳3) | 大風・日でり | - | 末吉で380人以上が餓死 | ||
1749(寛永2) | 大しけ | 作物全滅 | 2年間で100人以上が餓死 | ||
1767(明和4) | - | 作物全滅 | 飢饉発生! | ||
1768(明和5) | - | 作物全滅 | 飢饉継続中・・・最終的に中之郷では733人が餓死 | ||
1769(明和6) | - | 作物全滅 | 飢饉継続中・・・最終的に八丈島全体で1500人以上が餓死 | ||
1776(安永5) | 麻疹 | - | 患者の全てが病死 | ||
1787(天明7) | 疱瘡 | - | 樫立で300人、中之郷で10数人が病死 | ||
1788(天明8) | 疫痢 | - | 10月〜翌年6月まで発生、三根・末吉で170人以上が病死 | ||
1795(寛政7) | 疱瘡 | - | 三根で500人、大賀郷で450人が病死 | ||
1821(文政4) | 疱瘡 | - | 大賀郷で発生、同地区の40〜50人が病死 | ||
1832(天保3) | 日でり | - | 大賀郷で450人が餓死 | ||
1834(天保5) | - | - | 八丈小島を含めて800人以上が餓死 |
平常な年でも一般島民の食事は貧しく、流人の鶴窓帰山(かくそうきざん)は著作「八丈の寝覚草」のなかで「平日の夫食は、さつまいも又さつまの切干、夏は麦こがしその外あした草のたぐひなり」とか「尤、両寺、神主、地役人その外大家の主は年中米の飯を日用とすれども、小前の人々は、ただ盆と正月と両度ばかり白飯を食、ふだんは一切これをば食事なし」などと書いています。 普段がそのような生活なのでいったん飢饉になると状況は悲惨そのもので、百人単位で餓死者が発生しています。江戸時代だけでもこれだけの飢饉が連発し、人々の記憶に刻み込まれました。 そして明治23 (1890)年には中之郷の大御堂に、 明和時代の飢饉の悲惨な状況を後世に伝えるための冥福之碑が立てられています。 さらに飢饉の悲惨さは民話という形でも残っています。父親が餓死させるくらいならと子供を崖から落として殺した 「こんきゅう坂」 や、 口減らしで50歳になると穴に捨てられたという姥捨山的な「人捨てヤア(穴)」の話があります。 飢饉で食べ物がなくて山でトコラを掘っていたら、島へ食料を運んでくる船を見つけたのでトコラを地面に捨てたところ、捨てたトコラのトゲで足の裏を刺してしまい、その傷が元で何日も苦しんだ末に死んでしまった老婆の話「とこら」などがあります。あくまで民話ですが、おそらくそれに近い話が実際にあったのでしょう。 |
様々な対策をとっても根本的な解決につながらず・・・ |
江戸時代に八丈島を何度も襲う飢饉に対しては幕府も食料を援助したり、食料購入のための金を貸したり、非常時に備えて穀物を蓄えておく囲い倉を作らせたりします。さらにはよその土地へ出て行って農業をさせる出百姓を行わせるなど、様々な対策をとりますが、それでも飢饉はなくなりません。 |
八丈島の飢饉への対策 |
対策内容 | ||
1 牛を食べに山に入る | ||
2 年貢を少なくしてもらう | ||
3 金を借りて食料を買う | ||
4 食料(米・麦など)をもらう | ||
5 サツマイモの栽培をすすめる(1725[ 享保10 ]年より) | ||
6 稲荷神社を建てる(1769[ 明和6 ]年) | ||
7 奉公に島を出ることを認める(1770[ 明和7 ]年より) | ||
8 出百姓をする(1772[ 安永元年 ]年より) | ||
9 流人の結婚を禁止する(1774[ 安永3 ]年) | ||
10 囲い倉を作って作物を貯蔵する1791[ 寛政3 ]年より) | ||
11 家の数を決めて増やさない(1799[ 寛政11 ]年) | ||
12 作方世話人(つくりかたせわにん)を決めて世話をさせる | ||
13 漂流船の積荷の米などを食べる | ||
14 酒造りを禁止する |
八丈島で飢饉の時に食べた物 |
対策内容 | ||
1 アザミ | ||
2 イグマ(リュウビンタイの根) | ||
3 マダミ(タブノキ)の実 | ||
4 葛(くず)の根 | ||
5 トコロ(とこら) | ||
6 竹ミソ | ||
7 ヘンゴ(天南星・まへんご・ささばへんご) | ||
8 サルトリイバラ(山帰来[ サンキライ ]) |
飢饉対策には神仏頼みで稲荷神社を建てるなど色々試したようですが、ようやく飢饉が少なくなってきたのは八丈島に甘藷(サツマイモ)が伝わってから。 飢饉が少なくなってきたのは、それまでの夏は麦、冬場はサトイモを中心にアワやアシタバなどを入れた雑炊から、サツマイモ中心の食事に変わってからのことでした。しかし、それでも飢饉が完全に無くなることはなく、飢饉の時には相変わらず山で草や木の実、木の根を食べていたんですね。 |
八丈島でのサツマイモ栽培の歴史 |
年 | 対策内容 | ||
1727(享保12) | 幕府が「白さつま」の苗を送ってきたが、栽培方法が分からず多くは穫れなかった | ||
1770(明和)頃 | サツマイモは食べられるようになったが、多くは穫れなかった | ||
1811(文化8) | 新島から「赤さつま」の種をもらった | ||
1812(文化9) | 国地から「ハンス」の種をもらってきたが、土地に合わなかった | ||
1835(天保)頃 | 栽培方法が工夫されて種が島に合うようになり、多く収穫できるようになった |
八丈島に徐々に広がっていった甘藷(サツマイモ)。島の土地に合うようになって多く収穫されるまでは年月もかかり、その間にも無情にも飢饉は発生しますが、それでも多くの人々の命を救った食べ物であることには変わりありません。 それを記念して大賀郷馬路にはサツマイモ伝来の碑が建立されています。食べ過ぎるとオナラばかり出てしまいますが、サツマイモって実は凄い食べ物なんですね。 |
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