八丈島の歴史について知る
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  八丈島の歴史林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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島の名が絹織物に由来している八丈島

八丈島の地勢と島名の由来
 [1]八丈島の歴史について知る
 [2] 八丈島の飢饉・疫病・災害
 [3] 八丈島の特徴的な流人たち
八丈島は南部伊豆諸島の中で最大の島で、八郎(はっちょう)島・女護ヶ島・八嶽(やたけ)・沖之(おきの)島・綜嶼(いとしま)などとも呼ばれます。伊豆諸島最高峰の八丈富士 (西山) と、 その南東に位置する三原山 (東山)の2つのコニーデ型成層火山から形成される火山島で面積は68.33平方キロ

八丈富士と三原山の中間に広がる平地には東京都八丈支庁や町役場、飛行場、底土港などの施設が集中する市街地(大賀郷・三根地区)が発達しています。三原山の南から西の山麓には樫立(かしたて)・中之郷・末吉の集落があって、一方の八丈富士の方には大賀郷永郷・三根永郷という江戸時代に造られた隠居村の集落があります。

八丈島は大坂トンネルと登龍峠を境として坂上 (樫立・中之郷・末吉)と坂下(三根・大賀郷)に大きく分けられます。 坂上地域の人口は300年前の江戸時代から現在まであまり変わりませんが、坂下地域は人口が5倍近くにまで増加しています。

三根と大賀郷の坂下地域は砂利や石まじりの土地が多くて湧き水もなく、元々は人が住んだり農業を行うのに大変な土地でしたが、 昭和40 (1965) 年頃から道路が良くなって、トラックで土を運んで客土できるようになると畑も増えました。さらに水道や電気が引かれて生活が便利になると坂下に移り住む人も増えました。港や空港があって役所や商店も多く、雇用の場が増えたことも人口増加の理由の一つです。

八丈島の島名は島に古くから伝わる絹織物に由来します。八丈島の絹は中世の頃から知られており、それは年貢とされてきたほど有名でした。1疋が8丈となる長さの絹織物なので「八丈」、それが島名になったといいます。

このように八丈とは元々長さの単位なので、八丈島以外の各地に美濃八丈、尾張八丈、秋田八丈などがあるわけです。それらはみな織物の産地ですね。






湯浜遺跡は八丈島で最初に人が住み着いた場所

縄文時代から人が住んでいた八丈島
黒潮洗う絶海の孤島 「八丈島」 に最初に人が住み始めたのは、 およそ7000〜6000年前
の湯浜(ゆばま)人で、島伝いに海を渡ってきた彼らは三原山(東山)地域に上陸して樫立地区の湯の浜海岸の高台に生活の拠点を設けます。それは八丈富士(西山)の噴火が続いて八丈島がまだ形成途上であった頃のことでした。3軒程度の住居があった湯浜集落の人口は15人程度で、100年以内で数世代続いたとされています。

次に渡島してきたのは5000年前の倉輪人 (くらわ) と呼ばれる縄文人。 丸木舟で湯の浜海岸に上陸したそうです。湯浜遺跡の西側の海岸の高台に集落を構え、たびたび北部伊豆諸島や本土に出かけていたそうですが、 200年近く継続した集落も次第に数人が生活する小規模集団となり、やがて消滅してしまったようです。

三番目にやって来たのは弥生、古墳、奈良・平安時代人と呼ばれる八重根(やえね)人で、 大きな噴火活動も終了して現在の島の形が完成した2000〜1200年前頃に、 三原山と八丈富士の中間低地帯(現在の八重根漁港奥の旧火口内)で干魚・薫製加工を専業として生活していたそうです。八重根集落で生産された薫製加工品はたぶん今の生鰹節のような物であったと考えられており、奈良時代には伊豆諸島の特産物として平城京に献納された記録が残っているそうです。

そして四番目の渡島民は八丈富士地域の八丈小島側の海岸際で生活して製塩作業を行っていた平安時代人の火の潟(ひのがた)人でした。平安時代に近畿地方の伊勢湾辺りから渡島してきた製塩集団で、この頃、島にはすでに八重根人が生活していましたが、なぜ火の潟人が激流の黒潮を乗り越えてまで、わざわざ八丈島で製塩活動を行っていたのかは謎とされています。

このように八丈島に最初に住み着いた人々は海からやって来た人たちでした。しかし、ずっと八丈島に住み続けていたわけではなく、島伝いに移って来て、その後また移って行ったり、あるいは死に絶えたりしたことが分かっています。

彼らの集落は湯浜遺跡や倉輪遺跡、八重根遺跡、火の潟遺跡となって発掘されていますが、これらの人々の生きた時代は八丈島先史時代とも呼べる、文献に八丈島の名が登場する以前の出来事でした。






島の始祖伝説として有名な丹那婆の墓

八丈島の始祖伝説
丹那婆(たなば)伝説
江戸時代の著書「綜嶼噺話」によれば、その昔、大津波で島が全滅した時にただ一人生き残った妊婦の丹那が男子を産み、民俗学でいう母子交会して類葉繁栄したのが後の八丈島島民というもの。これは日本文化にはみられない伝説で、そこには南方系文化の影響がみられているそうで、インドネシア諸島や南の島に多い伝説です。八丈島ではよく知られていて、末吉にも丹那婆の墓があります。


秦の除福伝説
秦の始皇帝の命を受けた除福が不老不死の霊薬を求めて日本に渡来した帰りに船が八丈島に漂着してしまい、 その時に連れていた童女500人が島民の祖となったという伝説。
八丈島が別名女護ヶ島の地名はそれに由来しているそうです。なお、除福が童男500人
を乗せた別の船は青ヶ島(男島)に漂着したといいます。


八十八重姫(やそやえひめ)伝説
大賀郷の優婆夷宝(うばいたから)明神社の祭神の八十八重姫と、その子古宝丸を島の開祖とする伝説です。大国主の命の国ゆずり伝説である出雲系神話の類型だそうです。


八丈島の始祖伝説は以上の3つですが、まったく真実味がないわけでもなくて、八丈島の歴史をそこから読み取ることもできます。すなわち、最初は南方からの渡来者が島で生活したことを表す丹那婆伝説、その後黒潮に乗った南西地域からの渡来者がたびたび訪れたことを表す秦の除福伝説、中世以降は伊豆諸島を支配した本州の権力者の支配下におかれてきたことを表す八十八重姫伝説による島の歴史ですね。






八丈島の覇権を巡って北条氏と三浦氏の海戦も勃発!

中世の文書に登場し始める八丈島
八丈島のおおまかな歴史の流れとしては、鎌倉時代に相模の国に属して本土の支配下に置かれ、室町時代には代官による統治機構が設けられて、その後は明治にいたるまで徳川幕府の支配下にあったという歴史があります。

中世の頃の八丈島については資料が少ないため、詳しいことは判っていませんが、斯波義将施行状や八丈島年代記、北条家朱印状写などの文書に当時の八丈島について若干の記載が見られます。

そのうちの八丈島年代記が編纂されたのは元禄6年 (1693) のこと。 中世の記述の信憑性は低いそうですが、中世の文書が皆無といえる八丈島では完全に無視することもできない資料となっています。つまり、中世の八丈島については、それくらいしか分からないということですね。とりとめのない内容ですが、主な文書の記述は以下の通り。


斯波義将施行状」に見られる八丈島についての記載
応永3 (1369) 年7月23日、 当時の室町幕府菅領であった斯波義将(しばよしゆき)が伊豆守護上杉憲定(うえすぎのりさだ)に命令文書「斯波義将施行状(しぎょうじょう)」を出しており、そこに八丈島が登場しています。

施行状は上杉憲定の父、憲方の遺領として安堵された伊豆国の所領を交付するという命令文書で、そこには八丈島をはじめとする伊豆諸島の島々も含まれていました。


八丈島年代記」に見られる八丈島についての記載
上杉氏は伊豆諸島を代官による支配地とし、八丈島年代記によれば、上杉氏の代官の一人に奥山宗林(おくやまそうりん)という者がいたそうです。八丈島を含む領地である伊豆諸島の軍事、警察、徴税、行政を行って管理していました。

さらに八丈島年代記によれば、金川(現在の神奈川県横浜市神奈川区)の領主だった奥山宗林は60年間にわたって八丈島の代官の職にあったそうで、 奥山宗林の名は大賀郷の優婆夷宝(うばいたから)明神社に安置されている木造女神像に「丹那宗林」として刻まれています。 それ以外には、 永享11 (1439)年4月の年記がある銅造宝明神像にも「宗林・宗竜・広実」の銘が刻まれています。

時は流れて明応4 (1495)年、 北条早雲は小田原城の大森藤頼 (おおもりふじより)を追放して相模に進出。 永正13 (1516)年に最大の敵であった三浦義同 (みうらよしあつ)を荒井城(現在の神奈川県三浦市)で破って相模を制圧しています。八丈島年代記によると、 八丈島でもこの間の永正11〜12 (1514〜1515)年に北条氏と三浦氏の水軍が激戦を繰り広げたそうです。そして勝利した北条氏が伊豆諸島の支配権を確立し、代官の長戸路氏によって島の統治が行われました。

その後、 享禄元年 (1528)に北条家の家臣中村又次郎が代官となり、 八丈島に渡った中村又次郎は陣屋を建てて奥山八郎五郎を島内支配に任じています。陣屋を構えた場所は大賀郷の大里で、陣屋跡には今は玉石垣だけが残されています。


北条家朱印状写」に見られる八丈島についての記載
弘治3(1557)年12月28日付の 北条家朱印状写にも八丈島の記載があります。八丈島に38人乗りの紀州船が漂着した際に、 当時の代官養真軒は回収した積荷などを北条氏に収めたため、その功績として船を与えられたことが記載されています。そして船は修理の後に諸役免除で商売に使うことが許可されています。






江戸時代は幕府の伊豆国代官によって治められた八丈島

徳川幕府の八丈島支配
近世となって徳川氏が関東を支配するようになると、徳川家康は伊豆諸島を代官支配とします。当初、八丈島支配の代官は八丈島奉行といいましたが、やがて奉行職は廃止されて伊豆国代官の支配となりました。

代官の下には地役人が任命され、地主と共に島政を担当し、各村には名主などの村役がいて村政を分担していたようです。なお、島を巡る廻船は幕府からの預かり御用船で、御船預役も島役人でした。

幕府から任命された代官は小田原から自ら渡島しますが、 寛永10 (1633)年に伊豆国代官に伊那兵右衛門が就任してからは、代官の代理として手代を渡島させて常駐の島役人として八丈島を宰領させる体制になりました。しかし、八丈島は依然として奥山氏の系類が地役人として島を実質支配していた実情があったため、手代を常駐させる渡海役人制度は享保8(1723)年に廃止されています。

現在の八丈島には奥山、菊池、浅沼、長戸路などの性が多くありますが、これらは代官として八丈島にやって来て、その後も地役人や神主などとして島の支配層となった家柄に関係のある性なんですね。






お米がほとんど採れない島の年貢は織物

江戸時代の八丈島の年貢
享保7 (1722) 年の調査では八丈島の人口は5770人、 反別は田が60町 (60ヘクタール)ほどで、 畑は265町 (263ヘクタール)くらいでした。 年貢は主に黄紬(黄八丈)で、総反別325町(323ヘクタール)に対して630反8尺と定められています。

八丈島・八丈小島・青ヶ島の八丈三島を除く伊豆諸島では、元禄期以降は年貢は金代納に変わりますが、長戸路家文書によれば八丈三島は近世全期間を通して物納だったそうです。米がほとんど採れない島ならでは年貢でした。






ひとたび飢饉に見舞われると悲惨であった八丈島・・・

八丈島を襲う飢饉の嵐
安永3(1774)年の「伊豆国附島々様子大概書」によると、島の家数は629戸で人口は4770人+流人157人となっています。田畑の反別は220町(218ヘクタール)ほど。享保期(1716〜1736)と比べて人口と耕地が減少していますが、要因は飢饉であったと思われます。

元禄14(1701)年には大暴風のため作物が全滅して600人ほどが餓死しているのをはじめ、明和3(1766)年から4年間に渡って飢饉に襲われ、中之郷村での餓死者は733人にもなり、生き残った者はわずかに400人だけという惨状だったそうです。

中之郷地区の大御堂内には、当時を追悲して明治23(1890)年に村民によって建立された餓死者冥福之碑が立っています。口減らしのために人を捨てたという怖い言い伝えのある人捨て穴なども、八丈島を襲った飢饉の惨状を偲ばせます。

なお、八丈島に甘藷(さつま芋)が持ち込まれた後も飢饉による犠牲者はなくならず、天保3(1832)年には大賀郷金土川で300人あまりが餓死しています。






これのおかげで飢饉は少なくなっていきました

八丈島への甘藷(サツマイモ)の伝来
文化年間(1804〜1818)の末頃に作成された八丈島田畑記録によれば、 八丈島の文化7(1810)年の田畑総反別は325町(322クタール)ほどでしたが、それが5年後の文化12(1815)年には4倍の1486町(1474ヘクタール)ほどにまで増大しています。1ヘクタールは100m四方の土地の面積であり、東京ドーム1個は4.7ヘクタールです。例えるならば5年間で実に東京ドーム47個分の畑が増えたわけですね。

実際に増えた耕地は山畑でしたが、その理由は甘藷が導入されたためでした。大賀郷にある八丈島甘藷由来碑によれば、 大賀郷の名主菊池秀右衛門が文化8 (1811)年4月に新島から赤さつま芋の種を移植したのが始まりだといいます。それ以前にも八丈島に芋はありましたが、サツマイモではなくてサトイモだったんですね。

のちに近藤富蔵は著書の八丈実記に「はじめて島開闘以来の患をわすれる。八丈島の大穏徳誰か及ぶべき」 と書き留めています。 サツマイモが食料増産に果たした威力は凄まじく、三根地区の西山卜神居記碑には海神が住むとされていた神止(かんど)山の山頂まで開墾されたことが記されています。サツマイモの伝来によって飢饉の回数と被害が減り、島の人口が増えるという食料革命が起こりました。






八丈島のあちこちで見られる流人墓

八丈島へ流された流人の数は1900人
流人の話を抜きに語れないのが八丈島。 慶長11 (1606) 年に関ヶ原合戦の敗将宇喜多秀家主従13名が八丈島へと流されたのが公式な八丈流人の初めで、 島内には宇喜多秀家の墓や宇喜多秀家住居跡、宇喜多秀家公と豪姫の像などがあります。

その後、5代将軍徳川綱吉の頃から流人の数は急増し、「流人在命帳」および「流人赦免並死亡覚帳」 や「配流員数明細帳」によれば、 明治14(1881)年に流刑制度が廃止となるまでに、付添人と再渡島者を含む約1900人が八丈島に流されました。

八丈流人のなかには越後騒動の永見大蔵(ながみおおくら)、芝増上寺の僧周練、伊豆諸島に多くの作品を残した仏師菊池民部、のちに八丈実記を著した近藤富蔵、幕末の勤王家・神道家鹿島則文(かひまのりぶみ)や梅辻規清(うめつじのりきよ)などもいました。なお、宇喜多秀家主従の子孫は浮田(宇喜多)流人とよばれ、幕末まで他の流人とは区別されていたようです。

八丈島への流人は直接島へは送られず、まず幕府御用船で三宅島まで送って風待ちのため半年ほど逗留、その後三宅島役所の船で八丈島に送られました。流人と島民との間はおおむね友誼的でしたが、 文化2 (1737) 年に元小普請組佐野新蔵らが陣屋襲撃を企てる事件(事前に発覚)が、 方延元年 (1860) には一部の流人たちが集団脱走を試みて露見、首謀者の甲州無宿幸八らが樫立村の名主であった平吉父子を殺傷して山中に立籠るといった事件も起きています。

八丈島の島民に教育を施して文化を伝授するなど、流人の島への貢献も大きかったのですが、いったん飢饉に見舞われると平常から食糧生産の方法をまったくもっていない流人たちは悲惨でした。越後騒動の永見大蔵などは飢饉の時に一粒の米すら売ってもらえず、千両箱を枕に餓死したといわれています。陣屋襲撃を企てて集団脱走を計り、名主を殺傷した佐野新蔵も飢餓に迫られて凶行に及んだといいます。

ところで八丈島=島流しの地のイメージが定着したのは、江戸時代のことらしいです。関ヶ原合戦で破れた宇喜多秀家を流罪にするため、江戸幕府が正式に流刑地として現地に代官所を置いたことが背景にあるそうで、それ以前にも平安時代の貴族伴善男(とものよしお)や、源義経の父である源為朝などが伊豆諸島に流されています。

八丈島へと流された後、赦免されて本土へ帰った流人も多くいましたが、そのまま島で朽ち果てた者もまた多かったそうで、流人墓が島内各地にが多く残されています。今も昔も海に囲まれて美しい八丈島ですが、かつて島弐ながされた流人の人たちに思いをめぐらせてみると感慨深いものがあります。






八丈島の名の由来でもある絹織物

八丈島の絹織物「黄八丈」
八丈島の絹織物は黄八丈として広く知られていましたが、上杉氏支配の時代にはすでに絹織物を貢納していたといいます。島の支配が北条氏に替わってからは貢絹を収めに3年に一度、下田(現在の静岡県下田市)から渡島したといい、江戸時代も島の年貢は絹織物でした。

八丈絹は江戸中期までは大奥の御殿女中や大名・上級旗本などの使用に限られていましたが、江戸中期以降は江戸市中にも普及してきます。幕末には医師が好んで用いていました。柄も最初の頃は白地か黄縞だけでしたが、のちに黄、鳶(樺)、黒の三色を使った縞・格子柄が織られるようになってきます。

織立ては上平袖(上袖)・下袖・合糸織・帯織・生絹(すずし)などがあり、品質の劣る下袖2反が上袖1反に相当し、合糸織は上袖5反、帯織は上袖8反に相当するところから、それぞれ5反掛、八反掛とも呼ばれました。ちなみに反物の長さを表す「1反」の長さは、時代や生地の種類などによってまちまちですが、おおむね一着分の幅、丈の大きさだと思っていいと思います。

黄色はカリヤス(刈安、コブナグサ)の煎汁とツバキの灰汁、鳶色はマダミ(タブ)の煎汁と灰汁、黒色はシイ(イタジイ)の樹皮と泥田の媒染などをもって染上げました。機織は女性の仕事で、江戸時代の織機は地機でしたが、明治中期以降はより効率的に生地を織れる高機となりす。なお、八丈富士の山腹にはタブノキ林が広がりますが、そのタブノキの樹皮が染料として使われていたそうです。

黄八丈は八丈島で唯一の換金物であり、年貢分以外の余剰は江戸表で売却されてその代金で貴重な食糧や日用品や蚕糸などを購買して島に持ち帰りました。 天明6 (1786)年に田沼意次は黄八丈などの専売をもくろみ、浅草平右衛門町(現在の東京都台東区)に八丈島荷物会所を設置して呉服商を集めて入札させましたが、田沼意次の失脚などで沙汰やみとなりました。しかし、この試みはのちの島会所設立につながります。

ちなみに黄八丈の呼び名は戦後に使われるようになったものです。それ以前は丹後、八丈織、八丈絹と呼ばれていました。






明治の時代にはなったけれど八丈島はまだ昔のまま

明治維新を迎える八丈島
明治維新を迎えても八丈島では時代の変化はあまりみられず緩やかでしたが、 明治元年 (1868) に 「御一新ニ付キ、右ノ者ドモ、御赦シ仰セツケラル」 として、 359人の流人が赦免されたました。 なお、最後の八丈流人は近藤富蔵で、 1880 (明治13)年2月27日に明治政府より赦免されています。50年以上にも及ぶ流人生活でした。

明治6(1873)年には戸長制度が導入されましたが、 明治14(1881)年に再び旧制の島役人・名主制度に戻されています。 近代的な村長制度になったのは明治41 (1908)年になってからのことでした。また、地租導入後も八丈三島では黄袖の物納を続けていましたが、同じ年の明治41(1908)に金収に改められます。

明治14 (1881) 年には自由民権の闘士松沢求策が来島、 旧制度を厳しく批判して地役人であった長戸路十兵衛が辞職します。松沢求策は南海開島会社を設立して本土との交易にあたりましたが、 事業はうまくいかずに明治17 (1884) 年に八丈島を離島。そののち長戸路氏が地役人に復職しています。

文久2 (1862) 年の小笠原の開拓に参加したこともあった大賀郷の玉置半右衛門が明治19(1886)年に仲間を集めて鳥島に渡ります。 アホウドリの捕獲などをして、 外国に羽毛を輸出し、糞を肥料として本土に売りさばいて財産を築きました。さらに沖縄県の南北大東島で製糖業を興し、玉置小学校(現在の南大東島小学校)を開校していますが、初代校長には八丈島の末吉から沖山岩作を招いています。






インフラ整備で発展する八丈島
明治13 (1880)年には中之郷に四等郵便取扱所が置かれています。 明治39(1906)年には河津浜(現在の静岡県河津町)との間に海底電線が敷設されて八丈島郵便局が電信業務を開始、 明治38 (1905) 年には島内諸村を坂上三村と坂下二村とに分断してきた最大の難所大坂峠のトンネル化が計画され、明治40(1907)年に完成しています。






第二次世界大戦中の八丈島
第二次世界大戦では、 昭和19 (1944) 年に大本営は本土防衛のため八丈島に兵力を配置しています。 昭和20 (1945) 年の春、 兵力は陸軍1万9000名、 海軍は7600名を数えました。 当時の八丈島の人口は 5935人、 疎開が始まる前の昭和 17 (1942)年の人口は約8700人だったので、島は兵隊で溢れていました。

戦争中の八丈島には飛行場や砲台などが構築されました。 出撃することはありませんでしたが、人間魚雷回天の基地が設けられるなど特殊攻撃隊も配属されています。公共施設のみでなく民家も徴収され、島民は縁故疎開に加えて軍の命令によって集団疎開も強制されます。

戦争中は空襲されることもなかったそうですが、 昭和20 (1945) 年4月16日に疎開船東光丸が、アメリカ海軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没するという悲劇が起きています。 戦争中は連合軍に上陸されることもないまま終戦を迎え、 終戦後の 10月末に武装解除のためアメリカ海軍の重巡洋艦クインシーが八丈島に来ています。






安定してくる八丈島への航路
昭和22(1947)年には黒潮丸が就航して船便は月6回となり、 八丈島で初めての接岸港の底土港が昭和40(1965)年には完成 (同年の台風で被害を受けて翌年に修復) しました。 昭和29(1954)年からは航空路も開かれ、 昭和38(1963)年からは毎日の運行となります。現在は空路が1日3往復、海路は1日1便の定期船があります。

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