八丈島の特徴的な流人たち
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  八丈島の歴史林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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なんともアホらしい理由で流罪となったも者も・・・
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 [3]八丈島の特徴的な流人たち
およそ400年前の江戸時代になると八丈島は幕府に直接治められるようになり、 多くの流人が送られてくるようになります。 流人の数は慶長11 (1606) 年の宇喜多秀家から明治4(1871)年までの265年間で1900人ほどとなり、初期の頃には人数も少なくて主に政治思想犯が流されています。その頃は比較的身分の高い者が多かったのですが、時代が下ると賭博や喧嘩、女犯などの罪状が多くなって流人の質が低下したそうです。

流人の罪科は様々ですが、なかにはその時代を特徴づけるものがあって、現代では考えられない気の毒過ぎるバカバカしい理由もありました。

流罪の理由が特徴的な八丈流人
 名前 流された期間 理由
 宇喜多秀家 / うきたひでいえ 1606〜1655 関ヶ原の西軍の総大将。敗北したため家族・家来など13人で流罪
 宗寿 / そうじゅ 1683〜1701 町人流人の最初の人物。不受不施の罪で流罪
 山本兵助 / やまもとひょうすけ 1683〜1697 知人が吹き矢でツバメを射るのを見ていたということで生類哀れみの令で流罪
 天野五郎太夫 / あまのごろうだゆう 1683〜1701 江戸城で井戸に蓋をしておかずネコが落ちて死んだため生類哀れみの令で流罪
 伊左衛門 / いざえもん 1687〜1693 病気の馬を捨てたため生類哀れみの令で流罪
 三郎左衛門 / さぶろうざえもん 1775〜1816 美濃国の百姓がおこした郡上一揆のリーダーだったため流罪
 折田与右衛門 / おりたよえもん 1792〜1807 幕府が禁止していた鶴を鹿児島藩の藩主が穫ったため身代わりで流罪
 近藤富蔵 / こんどうとみぞう 1827〜1880 探検家近藤重蔵の長男。隣の家の7人を殺しまくって流罪
 佐々木卯之助 / ささきうのすけ 1836〜1868 飢饉のため農民に幕府の鉄砲場の開墾を勝手に許可して青ヶ島に流罪
 梅辻則清 / うめつじのりきよ 1847〜1861 京都上賀茂神社の神主。神道を広めその影響が大きくなったため流罪
 丹宗庄右衛門 / たんそうしょうえもん 1853〜1868 御用廻船業者で島津家の藩財政立て直しのために行った密貿易で流罪
 八郎(八老) / はちろう 1860〜1862 庄屋の息子だったが、水戸一揆に関係したというので流罪
 鹿島則文 / かしまのりぶみ 1860〜1868 鹿島神宮の宮司の長男。勤皇の志士でその思想や行動によって流罪

流人たちがもたらした八丈島の文化
八丈島に流された流人のなかには武士や僧侶、大工のような学問や技術を持っていた者もいました。そうした流人は村の書記を勤めたり、教育を行ったり、様々な技術を八丈島へ伝えています。流人文化というやつですね。

狭い八丈島で生きる張り合いというか、そうでもしなければ流人生活をやりきれなかったのでしょうが、 江戸時代の初めの100年ほどはとくに武士や僧侶が多く、人数も少なかったため島の人々も流人を大切にしました。

しかし、その後は毎年多くの流人が送り込まれてくるようになって喧嘩や博打による罪の流人が増えてきます。それにつれて島内に脱走の抜け舟や暴動などが発生するようになってくると、流人はしだいに尊敬されなくなってしまいますが、豆腐の作り方を教えたり、脱走成功のヒーローなどなど、多様な顔ぶれの流人たちがいたものです。

八丈島に流されてから特徴的なことがあった流人
 名前 流された期間 理由
 和田藤左衛門 / わだとうざえもん 1728〜1769 サツマイモを切って干した「きんぼし」を作った
 勘兵衛 / かんべえ 1768〜1783 豆腐の作り方を伝えた
 下枝釆女 / したえだうねめ 1769〜1782 僅か1粒を植えたことからお多福豆が八丈島と八丈小島に伝わった
 加藤又兵衛 / かとうまたべえ 1788〜1793 樫立のいぶりやの池を造る指導をした
 辻彦之丞 / つじひこのじょう 1781〜1838 八丈島で初めて商売を行った
 伊辺定左衛門 / いべじょうざえもん 1792〜1838 八丈島で初めて商売を行った
 近藤富蔵 / こんどうとみぞう 1827〜1880 八丈実記を著し、公立学校ができる前の末吉や三根の学校教員を務めた
 仙次郎 / ぜんじろう 1834〜1856 石工。石を伐り出して石碑を作り、文字を刻むことを教えた
 喜三郎 / きさぶろう 1836〜1838 抜け舟成功! 流罪の2年後に仲間7人と抜け舟して本土にたどり着く!
 利右衛門 / りえもん 1843〜1860 流人30人ほどによる「利右衛門騒動」のリーダー。騒動は失敗する
 石山留五郎 / いしやまとめごろう 1844〜不明 八丈島一の大工で末吉の長戸路家の再建をした棟梁
 梅辻則清 / うめつじのりきよ 1847〜1861 学者で中之郷の子どもたちに読み書きソロバンを教えた
 丹宗庄右衛門 / たんそうしょうえもん 1853〜1868 サツマイモから焼酎を造ることを教えた
 八郎(八老) / はちろう 1860〜1862 末吉に蚕の飼い方を教え、そのため末吉地域は潤った
 鹿島則文 / かしまのりぶみ 1860〜1868 八丈八景を選ぶ。赦免後は伊勢神宮や鹿島神宮の神主になった
 平川親義 / ひらかわちかよし 1869〜1873 末吉の長戸路敦行と八丈島で最初の学校、末吉学館をつくる
 
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