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─ DD54(ディーゼル機関車) ─




「駆動力」の解説で、ディーゼル車両の推進軸や減速機などの駆動系にかかる「力」を試算した。
これらの駆動系の破損が重大事故につながった事例がある。

走行中に車体床下の推進軸が脱落して、約70tの機関車DD54が棒高跳びした事故として知られている。
HPを検索すると、この事故のことを記述したものを見かけるが、その殆ど(全部といってもよい)が、 「機関出力に対して推進軸が強度不足だった」と記載している。
また、事故から既に50年が経過している(本稿2018年作成)こと、情報が不充分なこともあって、 この車両については、誤った解説が多数みられる。
筆者の許に「ディーゼル(交友社刊)」という業界雑誌の1966〜1970年版を保管している。
これに、この事故の詳細、その後の対応、対策のことが記載されている。
まず、事故の状況、概要を記事から要約する。

1968年6月28日深夜午前3時39分頃、山陰本線大阪発大社行き下りレ701寝台急行列車(現車12両換算44両(440t))。
湖山駅(鳥取)構内を通過中、牽引していたディーゼル機関車DD542が脱線転覆。
列車の先頭の郵便荷物車2両と3両目の一等寝台(現A寝台)車、4両目の一等座席車(現グリーン車)も脱線、 折り重なるように線路に対して横向きになって停まった。続く二等寝台(現B寝台)車も脱線した。
全線開通復旧まで約24時間を要する大きな事故となってしまった。
脱落した推進軸は進行方向に対し、後部の軸なので、「棒高跳び」といっても、車両後部が持ち上がって、 横転した、という状況と思われる。
約2km手前から部品の破片など約160点が点々と発見され、どのような経緯で破損していったのか 割と容易に判明していった。
記事によれば、まず推進軸の後部、台車側の十字継手部が破損、軸の一端が 破損したため回転しながら、周辺機器や路盤に当たり続け、駅構内の手前で、ついに前部、 変速機側の十字継手も破損して推進軸が落下、これが、道床砕石に埋まって車体を持ち上げたもの、とされている。
(ディーゼル誌/1968.10,1969.2.より)

翌年1969年11月18日には、
午前1時12分、上りレ702寝台急行だいせん(現車13両換算44両(440t))、
浜坂、久谷間(兵庫)走行中にDD5411の推進軸が折損して垂下、燃料タンクを破損したため走行不能。
救援機関車2両により客車と故障車両を収容し、代替機関車が運転し、列車は5時間半遅れとなった。
同じ日、午前10時12分、5時間遅れの下りレ701急行だいせん(現車13両換算45両(450t))、
赤崎駅(鳥取)通過中、DD5414の推進軸が折損、動輪1軸が脱線した。
これも、燃料タンクを破損して漏れた燃料に引火して火災になったが、すぐに消し止められた。
全線復旧までに約4時間を要する事故となった。
同じ日に2回、同種の事故が起きており、重大な事態だ、という認識になったことであろう。
(ディーゼル誌/1970.3.より)
該当機の製造日と事故時の走行距離は下記の通り
DD542 製造1966年6月24日 走行距離 152,665km
DD5411 製造1969年5月20日 走行距離 51,224km
DD5414 製造1969年6月19日 走行距離 45,016km


添付写真はディーゼル誌、左から1966-8、1969-2、1968-10。
A5判、約100ページ。現在(2018年)は発刊されていない。1966年の価格\100。
1966-8の表紙を新製のDD54が華々しく飾っている。
交友社は、こういった業界誌、車両整備のテキストとともに、「鉄道ファン」という趣味誌他を発刊している。

事故の状況と製造からの経過、走行距離から、68年の事故と69年の事故とは原因が異なると考えられる。
68年の1件は、製造から2年、約15万kmを走行しているのに対し、69年の2件は製造から半年、約5万kmの走行でしかない。
折れた推進軸も、68年の件は1端側、69年の件は2端側であって、折損箇所が異なっている。(1端、2端の説明は後述する)
エンジンの出力に対し、推進軸の強度が足りなかったと記載した書籍、HPもみかけるが、そんなマヌケな設計は誰もしない。
壊れたのだから、強度不足、設計不良とするのは早計というもので、他の要因はいくらでもある。
とくに、68年の1件は、製造から2年、約15万km走行している実績、同時期に製造された他の車両が問題なく 運行している実績を考慮するならば、通常は「設計不良」とはみなされないであろう。
「駆動力」の項で解説したように、車両の駆動系にもっとも大きな力が作用するのは、起動時である。
単純に推進軸の強度不足ならば、牽引定数一杯の貨物列車が駅を出発するときに壊れなければならない。
また、このとき、推進軸にかかる荷重(トルク)は軸重と車輪とレールの間の摩擦係数できまり、機関出力とはかけ離れている。
折損対策として、推進軸の強度を増したために、変速機が壊れるようになった、と記述した解説もみかけるが、 「推進軸が壊れることによって、変速機を保護する」ような機械はない。

「ディーゼル誌」1968年9月号と12月号には、この車両の機関に発生したキャビテーションの記事が掲載されている。
一次車1〜3号機全車で、稼動から9ヶ月頃より機関の水漏れが多発。分解調査したところ、 クランクケース内部におびただしい腐食があり、全車クランクケース交換、という記述もある。
クランクケースというのは、シリンダ、クランク軸を収納する屋台骨である。これを交換、ということは機関交換に限りなく近い。
このクランクケース腐食の問題は、推進軸の事故の前に発生しており、推進軸の事故以前から、 一般に表面化していない故障が発生していた。推進軸を改修したから、他の故障が起きたわけではない。
「機関好調であった」という記述もみかけるが、全数トラブルを起こし、交換までしているものを「好調」とは言い難い。


この車両、V型16気筒、定格出力1820PSの大型機関1台(注1)とトルクコンバータ1台(容量1660PS)の組合せで車軸4軸を駆動する。
車体外観上、大きなギャラリ(通風口ルーバ)の並んでいる側が1端(第1エンド)で、 こちらからラジエータ、変速機、主機関、ボイラ(蒸気発生器)の順に配列されている。蒸気発生器側を2端(第2エンド)という。

(内部機器の配置を概念図に示す。実際の寸法とは(たぶん)違っている。注2)
蒸気発生器というのは、当時、客車の暖房は蒸気で行なっていたので、軽油焚きのボイラを備えていた。
変速機は出力軸部が車体の床面から下に突き出していて、前後の台車に向かって動力を伝達する推進軸が延びている。
変速機は1端寄りに搭載されているので、1端側の推進軸は1本で済んでいるが、 2端側は、2つに分かれていて、中間の1ヶ所に軸受を設けて支えている。
69年の2件とも、この中間軸受と変速機の間で折れており、近傍にディスクブレーキのディスクが設けられている。
ディスクより変速機側で折れていた。
ディスクブレーキというのは、「手ブレーキ」という扱いになっている。
車両留置時の転動防止に使うことを想定して装備したものと思われる。(注3)
「ディーゼル」誌には、このブレーキディスクが重すぎるのではないか、というようなことが書かれている。
結局、対策として、このブレーキディスクの重量を軽減(約80kg→約10kg)し、推進軸の寸法を変更して強度を上げた。
落下防止環(注4)を設けて、万一、推進軸が破壊しても落下しないようにした。
なお、「ディーゼル」誌(1970.7,8)には、類似の試験片を製作して強度計測を行ない、また、1969年12月にDD545を用いて、 鷹取工場内で推進軸にかかる力を測定した、という記事もある。
工場内での測定なので実際とは条件が異なるのだが、強度上は「問題なし」で、「空転時は変動荷重が大きい」と報告されている。
1970年2月にはレ701,702(DD546/DD549)2往復の実運行時に各種計測を行ない、同時にビデオカメラを設置して推進軸を撮影、 観察を行なっている。(注5)


新見機関区で休憩中のDD5432(米子(よなご・鳥取)機関区所属:1972.7.撮影)
最後は福知山に全数集結していたが、当時は米子にも配置されていた。この32号機は最後まで稼動していた車両。

(注1)この機関はドイツのマイバッハ社の製造で機関型式MD870(国鉄型式DMP86Z)、シリンダ径185mm、行程200mm、 60°V型16気筒、総排気量86.02Lit、定格出力1820PS。
DF200の初期型に搭載した機関12V396を製造したmtu社と関連会社(mtuはM.A.N.社、マイバッハ社、ベンツ社の合弁会社) であって、mtuの型式16V538TBとして多用途に製造が続いているらしい。
396,538は1シリンダの排気量(3.96Lit,5.38Lit)を示している。
(注2)蒸気機関車は外観上、前後が明白であるが、多くの電気機関車やディーゼル機関車は どちらへも走って行けるように前後対称型となっている。
内部の機器配置は対称型とは限らない。整備の都合上、前後をはっきりさせておかないと都合の悪いことが多い。
なお、車体中央の車輪は、軸重を低減するためであって、駆動しない。
(注3)このレイアウトはDE10と酷似している。DE10も3軸台車側は短く、2軸台車側は運転室の下を通って、途中の軸受で継いでいる。
手ブレーキのブレーキディスクを付けていること、台車内の減速比まで同じである。
(注4)鋼板に軸と接触しないぐらいの大きな穴をあけて、この穴に軸を通し、鋼板は車体床面から吊るように固定する。
正式名称ではなく俗称であるが、これを「越中褌」と称した。
(注5)今ならビデオカメラも再生機も家庭にある時代であるが、1970年当時、まだビデオカメラは一般的ではない時代。
大型で、録画時間も短かったであろう。
それだけの物量を投入して何が何でも原因追及と確実な対策を実施しなければならない、という緊迫感がうかがえる。
(参考文献 ディーゼル/1968.10,1969.2,1970.1,3,7,8.:交友社刊)

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