このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

グーデ・デ・ロワ
〜ヨーロッパの主な名窯1〜

創始の国ドイツでは
[マイセン] Meissen 
ザクセン王国/ドイツ連邦共和国 Federal Republic of Germany (旧東ドイツ領)

ザクセン選帝侯アウグスト強健王が、錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベッドガーに開発を命じ、製造されたヨーロッパ最初の磁器窯。1707年、ベッドガーは白磁の手がかりとなるヤスピス磁器の焼成に成功し、1709年に王の望みを叶えたのです。1710年1月、マイセンの前身となる「王立ザクセン磁器工場」がドレスデンに設立され、同年6月にマイセンのアルブレヒト城に移されました。ベッドガーの後、マイセンの名を高めたのは1720年にウィーンから招かれた絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト、そして1733年に主任塑造師となった彫像家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーでした。
1717年には染付磁器の焼成に成功。今でも馴染みであり、有名な意匠の1つ
ブルー・オニオンは1739年に採用され、それが各地の窯の模倣となりました。ブルー・オニオンとは「青い玉葱」の事ですが、実際には東洋の磁器に描かれた石榴の文様が元になっていて、必ずしも玉葱ではないのです。この意匠が意味するものは子孫繁栄(石榴)、不老長寿(桃)、富(芍薬)、未来(竹)。そしてマイセンでは19世紀後半から他窯と区別をつける意味もかねて「双剣」が書き添えられています。ザクセン選帝侯の紋章に由来する窯印の双剣は、1722年にシュタインブリュックにより提案され、時代の移り変わりと共に変化しながら現在に至ります。また、マイセンでも1765年頃に「王者の青」と呼ばれる青い色合いの磁器が開発されました。 

[ヘキスト] HOCHST 
マインツ選帝侯領/ドイツ
連邦共和国 Federal Republic of Germany (旧西ドイツ領)

マイセンの絵付師という経歴を持つアダム・フリードリヒ・フォン・レーベンベルクが1746年に開窯したヨーロッパで3番目に古い窯。レーベンベルクは、製法を守る為に監視が厳しかったマイセンを逃げ出すような形でザクセンを出ました。彼がフランスのシャンティーイ窯に入ったのが1738年、その後マインツ選帝侯の領地であるヘキストの町にやって来たのです。1796年に閉窯し、再び開窯したのは約180年もたった1977年。窯印はマインツ選帝侯の紋章に由来する「六つの車軸」です。ヘキストを代表するフィギュリンを生んだ彫像家ヨハン・ペーター・メルヒオールは、ゲーテと深い親交があった事で知られており、彼の自然回帰思想に影響された作品が残されています。転写を用いる窯が増えている中で、ヘキストの絵付けは今でも全て手作業に徹しているのが特徴。

[KPMベルリン] KPM Berlin 
プロイセン王国/ドイツ連邦共和国
 Federal Republic of Germany(旧西ドイツ領)

プロイセン王国の首都ベルリンに窯が開かれたのは1751年にウィルヘルム・カスパー・ウェゲリーが始まりですが、製品が未熟だった事や経営難から僅かで閉窯となります。後にヨハン・エルンスト・ゴッコフスキーがベルリンに再び窯を作り、支援者でもあったプロイセン国王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が1763年に買収。この時に「KPM(王立製陶所)」と呼ばれるようになりました。ここではプロイセンとの戦争の折にマイセンから連れ帰った陶工達も働いていたといいます。フリードリヒ大王は一時あの錬金術師ベッドガーを雇っていた事もあり、ベッドガーはフリードリヒ大王の元を逃げ出して、アウグスト王に雇われ磁器を生んだのです。
フリードリヒ大王は「朕は国家の僕である」という名言を残した啓蒙専制君主である一方、音楽や芸術にも従事し、食材としてのじゃがいもを奨励した類稀なる人物。ハレで白陶土が見つかった1771年から磁器の製造が始まりました。窯印はブランデンブルク選帝侯の紋章(フリードリヒ大王は即位前、ブランデンブルク選帝侯でした)に由来した「青い笏」。これに王権を表す「金球」が加わったのは1832年の事です。KPMベルリンといえば陶板画が有名ですが、こちらは19世紀に作られるようになります。


[ドレスデン] DRESDEN 
ザクセン王国/ドイツ連邦共和国Federal Republic of Germany (旧東ドイツ領)


ザクセン王国の首都ドレスデンには多くの磁器窯が生まれました。原料となるカオリンや木材が入手しやすかったのも理由の一つといえます。ドレスデンは1762年に世界初の装飾用磁器工場が作られ、その後マイセンのライバルとして発展していきました。どちらかといえば他窯から素磁を入れ、絵付けを施しドレスレンから売り出すというスタイルが多かったようです。しかし、最盛期には100もあったとされる窯も現在では1872年創業のS.P.ドレスデン[S.P.DRESDEN]を残すのみとなっています。

[ビレロイ&ボッホ] Villeroy&Boch 
ロレーヌ公領、のちフランス王国/ルクセンブルク大公国 Grand Duchy of Luxembourg  

1748年にドイツ人武具師フランソワ・ボッホがロレーヌ地方(現フランス)オーダン・ル・ティッシュに窯を開いたのが始まりです。ロレーヌ地方及びザールラント地方(現ドイツ)、そしてルクセンブルクは、その帰属をめぐって歴史に翻弄された地でした。1768年にはオーストリア女帝マリア・テレジアの保護を受け、ルクセンブルク王家御用達窯となります。後、1809年に工場をマイン川沿いのメトラックに移転。フランス人ニコラ・ビレロイのビレロイ窯(現ルクセンブルク)と合併し、社名を「ビレロイ&ボッホ」としたのは1836年。イギリス以外の国でボーン・チャイナが焼かれた窯としても有名です。

[ニンフェンブルグ]
 NYMPHENBURG 
バイエルン公国/ドイツ連邦共和国 Federal Republic of Germany (旧西ドイツ領)

バイエルンの首都ミュンヘン郊外ノイテックに、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフによって作られた王立磁器工房。1747年にウィーン窯のヨゼフ・ヤコブ・リングラーを迎え、1753年に磁器の焼成に成功します。1761年にニンフェンブルグに移転。マクシミリアン3世はヴッテルスバッハ家の出身でしたが、男子に恵まれなかった為に家系は断絶。別系のヴッテルスバッハ家のライン・プファルツ選帝侯カール・テオドールが即位します。しかしカール・テオドールがブファルツのフランケンタール窯を擁護した為、このニンフェンブルク窯は一時衰退してしまうのです。カール・テオドールの後、同族のマクシミリアン4世ヨーゼフ(バイエルン国王マクシミリアン1世)が即位し、この時にバイエルンは公国から王国となりました。ニンフェンブルク窯に再び火が点るのは19世紀の事で、1918年の王国解体後もこの窯は続き、現在に至ります。窯印はバイエルン選帝侯の紋章からきている菱形の盾。

ハプスブルクでも
[ウィーン窯] Royal Vienna 
神聖ローマ帝国 オーストリア帝国/オーストリア共和国 Republic of Austria


ヨーロッパで2番目に古い窯。ベッドガーが作り出した磁器は秘法とされていましたが、次第に各国へとその製法が伝えられるようになります。皇帝カール6世の許しを得てウィーンにオランダ人クラディウス・デュ・ベキュによって窯が作られたのは1718年。マイセンの陶工で絵付師クリストフ・コントラー・フンガー、ザミュエル・シュテルツェルらを引き抜き、1719年には磁器の焼成に成功します。しかし経営難に陥るとフンガーやシュテルツェルはウィーンを去ってしまいます。ウィーン窯でも有能な絵付師の1人であった若きヨハン・グレゴール・ヘロルトを伴って。1744年に女帝マリア・テレジアによって買収され、国営の王立ウィーン窯となりますが、女帝の死後に衰退し1864年に閉窯。しかしこの技術は1924年に至りウィーンの郊外の離宮アウガルテンでアウガルテン窯[AUGARTEN(現ウィーン磁器工房アウガルテン)]で蘇る事になります。窯印はオーストリア・ハプスブルク家の紋章に由来する「盾」。
またハンガリーの民窯ヘレンド[Herend]が継承したウィーン窯の意匠の1つが
ウィーンのばらで、オーストリア・ハプスブルク家門外不出のものでした。フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃エリザベートが愛したものとして知られています。ハンガリーは独立前にハプスブルク家の統治下に置かれていました。

北欧でも試みられた
[ロイヤル・コペンハーゲン] ROYAL COPENHAGEN 
デンマーク王国/デンマーク王国 Kingdom of Denmark


1771年に科学者ミュラーによってデンマーク国内で採掘されたカオリンを使った磁器がもたらされました。1775年に国王クリスチャン7世と皇太后ジュリアン・マリーの援助を得てデンマーク磁器製作所が設立。1779年から王立となりました。窯印はデンマーク王室を表す王冠と、デンマークを囲む大ベルト・小ベルト・ダイスンドの三海峡を表す波。現在は民営化されていますが、「ロイヤル」の名は健在です。
ロイヤルコペンハーゲンの代表的な意匠
ブルー・フルーテッドは1775年の創業以来のもので、フルレース、ハーフレース、プレーンがあります。民営化の後、1885年に招かれたアーノルド・クローが再デザインし、現在に至る人気意匠となったのです。「青い(線、絵図)、溝のある(地様)」の意味で、この唐草が意味するところは菊。また、意匠の中でも高級品と名高いフローラ・ダニカとは「デンマークの花」の意。オリジナルはクリスチャン7世が同盟国ロシアの女帝エカテリーナ2世に贈る為に作らせたものです。1761年に出版された「フローラ・ダニカ(図鑑)」に記載された2600種もの植物を絵付師バイエルによって描く予定でしたが、エカテリーナ2世が没した為、作業は中断。完成していた1802点はローゼンボーグ城に残され、デンマークの国宝となっています。
陶磁器による
クリスマスプレートはビングー・オー・グレンダール[Bing&Grondahl]が1895年に販売しました。もともとクリスマスプレートは、クリスマスにご馳走を山盛りにした木製の皿を贈るという貴族の風習からきています。ロイヤル・コペンハーゲンによる販売は1908年の事。

ロマノフ王朝では早くから着手
 [ロマノーソフ] Lomonosou 
ロシア帝国/ロシア連邦 Russian Federation


ロマノーソフの名は18世紀に現れた科学者で言語学者ロマノーソフに由来。彼はモスクワ大学の創設者でもありました。1744年に女帝エリザヴェータによって首都サンクト・ペテルブルクの郊外に開かれた「ネフスキー磁器工房」が前身で、1765年に「ロシア帝室磁器工場」に改称。ロシア皇帝専属の窯として発展してきた事から、その使用は王侯貴族に限られていました。ロシア革命後の1925年に「ロマノーソフ磁器工場」に名を改めています。
代表的なのは
コバルト・ネットと呼ばれる意匠で、コバルト独特の濃紺の網目に金彩色がほどこされています。ロマノーソフの製品は創業以来全て手描きというのも特徴。

統一前のイタリアで
[リチャード・ジノリ] Richard Ginori 
トスカーナ大公領/イタリア共和国 Republic  Italian


イタリアにウィーンから磁器製造が伝わったのは1720年。ヴェネツィアのヴェッツイ窯でした。ここにはマイセン窯からウィーン窯へと移ったクリストフ・コントラー・フンガーの姿もありましたが彼は1725年にマイセンへと戻り、ヴェッツイ窯も僅か8年にして閉窯してしまいます。
ジノリ窯は
1735年にトスカーナ侯爵カルロ・ジノリが、トスカーナ大公国の首都フィレンツェ郊外の領地ドッキアに開窯。またの名をドッキア窯ともいい、ここで生まれた磁器は「トスカーナの白い肌」と呼ばれ賞賛されました。実はマイセンへ戻ったフンガーの姿を再びこの窯でも見る事が出来るのです。さて、当時のフィレンツエは、それまでこの地を支配してきたメディチ家がトスカーナ大公ジャン・ガストーネを最後に1737年に断絶。その為、トスカーナ大公位はロートリンゲン公フランツ・シュテファン(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承しました。ジノリ侯爵家は1300年代には既にその名が見られる家柄。創業以来5代の当主により受け継がれてきたこの窯をミラノのリチャード社が買収合併したのは1896年の事。ジノリの窯印には年代などによって様々なものが見られます。
ジノリで有名なのは青紫のプラムを中心に花が散りばめられた
イタリアン・フルーツ。これは2代目ロレンツォ・ジノリの1760年頃にトスカーナ地方の某貴族の別荘で使用するディナーセットの為に考えられた意匠です。シェイプはまさにその時代を代表するアンティコドッチア(ロココ様式)。グランデューカは「大公妃」の意でジノリ窯初期に考案されました。「大公妃」とはオーストリア女帝マリア・テレジアの事。フランツ・シュテファンは彼女の夫君であり、その為トスカーナ大公妃でもあったのです。また、ベッキオも古くからある意匠で、その意味も「古い」。

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