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王様気分になる為のお話
〜白い黄金〜


そもそも陶磁器とは

陶磁器とは陶器と磁器とを総称した呼び方です。磁器を大まかに言うと陶石を砕き粉にして粘土状に練り上げ、長石などを加えて更にこね上げ高温で焼かれたもの。陶器を「土もの」と呼ぶのに対して石が成分の為に「石もの」とも呼ばれます。原料は中国江西省の高嶺(Kaoling)が語源となり高温に耐えるカオリン(Kaolin)が主成分で、素地に無色透明か半透明の釉薬(うわぐすり)をかけて焼かれます。特徴としては陶器に比べて高温の1300度から1450度(注:種類によって異なる)で焼成する為、透光性があり、吸水性がありません。また素地は白く、釉薬などの成分によっては青白色となります。因みに青磁のあの独特な色合いは釉薬に含まれる鉄分が還元される事で生まれるのです。釉薬とは陶磁器を蔽うガラス質部分を言い、世界で初めて陶器に釉薬を施したのは古代エジプト。また中国では紀元前1500年頃に使用され始めた事が知られています。

英語でチャイナ(China)といえば陶磁器をさすように、その発達と中国とは長い歴史があります。また磁器という言葉も、「磁州で焼かれたもの」という意味。磁州は唐時代末期からその存在を知られている、河北省磁県彭城鎮を中心とした華北最大の窯場なのです。中国では紀元前から磁器が作られていました。6世紀には白磁が生み出され、宋代になると中国各地に窯が広がりました。「北の定窯」「南の景徳鎮窯」が二大中心地です。また隣国の朝鮮にも磁器文化が伝来し、それぞれ独自の発展を遂げていきました。因みにポーセリン(Porcelain)とはイタリア語の「たから貝(Porcella)」から来た、これも磁器を表す言葉です。たから貝は昔に通貨として使われていた貝でした。

磁器の製法や成分については不明な部分が多く、ヨーロッパや日本では輸入に頼っていました。日本へは朝鮮出兵(1592年、1597年)の折に鍋島藩鍋島直茂が大陸から連れてきた陶工・李参平によってようやく伝えられたといいます。李参平は有田泉山で磁器の原料となる白陶土を探しあてます。これ以降、有田は鍋島藩御用窯として発展していくのです。ここでは日本独特の柿右衛門様式や鍋島様式などが生まれました。

さて、17世紀のヨーロッパに磁器をもたらしていたのは、1602年に作られたオランダ東インド会社の存在が大きいものでした。ヨーロッパでは王侯貴族がこぞって磁器を買い求め、今でもその城内に彼らがコレクションした磁器の姿を見る事が出来ます。ザクセン選帝侯アウグスト王が建てたツヴィンガー宮殿や、プロイセン国王フリードリヒ1世(フリードリヒ大王の祖父)が王妃ゾフィー・シャルロッテの為に建てた夏の離宮シャルロッテンブルク宮殿などに代表される「磁器の間」が有名です。中国では1640年代から50年代にかけて明から清に王朝が変わり、その政情により鎖国政策が取られました。それまで国外に輸出していた磁器は減産、需要と供給に打撃を受けた東インド会社では、技術的にも向上し始めていた日本に注文を依頼したのです。長崎の出島には、1653年に日本製磁器がヨーロッパに向けて輸出された記録が残っています。有田で焼かれた磁器が伊万里の港から各地に渡った為、伊万里(Imari)の名は広まりました。この中で日本古来の文様の製品だけでなく、ヨーロッパの需要に応じた形状や様式の製品も作られました。そして1709年にヨーロッパ初の磁器がザクセンの首都ドレスレンで生まれ、翌年マイセン磁器の前身である「王立ザクセン磁器工場」で生産されるようになるまで、日本陶磁器はヨーロッパで脚光を浴びたのです。

ザクセン選帝侯アウグスト王の保護のもと、マイセンで焼かれた磁器は秘法とされましたが、次第にその製法はヨーロッパ各地各国に知られるようになります。そんな中、陶土に恵まれなかった国では様々な方法で磁器を、または磁器に匹敵するものの開発に力を注いでいました。フランスでは軟質磁器が発展しました。軟質磁器とは石膏やガラス等を粘土に加え硬質磁器よりもやや低い温度で焼き上げた磁器で、硬質磁器の形成に必要なカオリンが含まれていないかまたは僅かなものを指します。また、イギリスではボーン・チャイナが誕生します。初期のボーン・チャイナは品質が悪い粗野なものでしたが、1744年(一説に1748年)にボウ窯のトーマス・フレイが特許を取得。製品化に成功したのはスポード窯のジョサイア・スポード(ジョサイア2世)でした。ボーン・チャイナはその名が示す通り、「骨の磁器」。粘土に骨灰(燐酸カルシウム)を混ぜて作り出された軟質磁器(骨灰磁器とも呼ばれる)の事です。始めは20%ほどだった骨灰は50%〜60%となり、主に牛の骨が使用されています。一般にファイン・ボーン・チャイナと呼ばれるものは、骨灰が50%以上のもの。ボーン・チャイナは焼成中の破損が少ない為に量産に向いている上、暖かみのある白さと強度も兼ね揃え、人気が高まりました。

白い黄金への夢

財政難だったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世強健王(ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト2世)が、錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベッドガーを雇ったのが、ヨーロッパにおける磁器の始まりでした。

ベッドガーはアウグスト王の望む黄金を生み出す事が出来ず、代わりに白い磁器を作るという建白書を王に差し出しました。元々アウグスト王は東洋の磁器に魅入られた王侯の一人。ヨーロッパでは未だ磁器は生産されておらず輸入に頼っていました。そしてそれはとても高価なものだったのです。アウグスト王さえもプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム1世兵隊王が譲り受け、かつては父フリードリヒ1世所蔵の磁器120点をを得る為に600人もの兵士と交換しようと願うほどでした。磁器への関心の高さと、名誉と富の象徴だった事が伺いしれる事でしょう。

「白い黄金」と呼ばれた白磁の、その白さと硬さを自らの手で作り出す事が出来たなら。そしてそれを富に変える事が可能ならば・・・。多くの王侯がそれを望んでいました。
ベッドガー以前の1694年からその研究を重ねていた数学者エーレンフリート・ヴァルター・リッターフォン・チルンハウスは、彼と共に更なる研究をしていきます。チルンハウスは自然科学や物理学、科学まで修めた人物で、その人柄はアウグスト王にも好まれ、ベッドガーにとっては良き理解者でもありました。王命によりベッドガーは外とは断絶した世界で、3人の助手と共に過ごさなければなりませんでした。そして試行錯誤の結果、ようやくカオリンを含む陶土と出会い、白磁を王にもたらしたのです。しかし成功を目前とした1708年の10月にチルンハウスは病死し、ベッドガーは盟友を失ってしまいます。

1710年1月ドレスレンには「王立ザクセン磁器工場」が設立され、同年6月にマイセンのアルブレヒト城に移されました。しかし磁器の製造を門外不出のものとする為に、ベッドガーは自由を奪われ幽閉の身となってしまいます。9年後、生活は改善されたとはいえ永遠に城外に出る事を許されないまま、ただひたすら酒にその孤独を紛らわせる事しか出来なかったベッドガーは、若くして命を終えました。彼の死は自殺とも暗殺ともアルコール中毒ともいわれていますが、詳しい事は不明のままです。

白い磁器を得たアウグスト王が次に求め、ベッドガーが命を削りながらその開発に携わり遂に成し得なかったもの。それは磁器に対する絵付けであり磁器を発想のままに形に変える事でした。ベッドガーは錬金術師、いわば化学者でした。彼にはそれを芸術として大成出来なかったのです。
絵付けにはウィーンからやってきたヨハン・グレゴリウス・ヘロルトが応えます。彼は早々に現在にも伝わるマイセンの絵の具を開発。青花(染付)や金彩色、シノワズリ(中国趣味)の絵付けを巧みとし東洋な世界をその白い空間に描きました。ヘロルト・シノワズリとして知られているものです。磁器への絵付けに満足する事なく、王が次に求めたフィギュリン(彫像、置物)には彫像家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーが応えました。ヘロルトとケンドラー。10歳違いのこの2人は互いを牽制しあいました。また、フランスで繰り広げられたロココ様式はマイセンにも大きな影響を与え、ヘロルトもケンドラーもそれぞれのロココ調の作品を作り上げています。

この秘法とされていた磁器製法や絵付け技術は、瞬く間にヨーロッパに広がっていきました。ウィーンに磁器製法が伝わったのは1718年の事。マイセンの陶工達が、この厳しい監視下の中での仕事に見切りをつけ他窯に引き抜かれたり、戦争の折に連れて行かれたり、またそれらの陶工達が他窯へ移ったりと、様々な原因が考えられます。
ヘロルトがマイセンにやってきたのもこの理由からです。アウグスト王による賃金の支払いは滞る事が多く、陶工達は外界との断絶と過酷な労働条件の中、不満を抱えながらも逃げ出す事も出来ず、ただ耐えるしかありませんでした。特に王による賃金の未払いでは、あのベッドガーですらこれに憂慮しており、彼が亡くなった時の財産は殆どないも同然だったのです。マイセンの陶工サミュエル・シュテルツェルは、こんな事情もあり、ウィーンのデュ・パキュに引き抜かれ彼の地に窯を作る手助けをしたのでした。これがウィーン窯の前身です。彼は元々フライベルグの鉱山で働いていましたが、1706年にベッドガーの元に入り、磁器焼成の知識を彼の元で間近で見ていました。再びマイセンに戻るにあたり、磁器焼成の漏洩への処罰の減刑を条件として、今度はウィーンから連れ帰り推薦したのが絵付師ヘロルトだったのです。
また、プロイセンはマイセンの磁器工場を我が手にする為に、ザクセンに侵攻した際は磁器を略奪していきました。それだけではなく陶工にも受難が続きました。それなりの地位にあった者や優秀な陶工達は、こうした事を恐れたアウグスト王によって別地に避難させられていましたが、難を逃れられなかった者達はプロイセンの首都ベルリンに連れて行かれてしまいます。PKMベルリン窯にマイセンの技術が伝えられたのはこんな背景もあったのです。

ロココ時代にあったヨーロッパの主な磁器窯

こちらで取り上げたものは、現在にまで続く磁器窯が中心となっています。
陶器窯については対象にしていません。いわゆるももかの趣味ともいう(*^^*)

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