このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

グーデ・デ・ロワ
〜ヨーロッパの主な名窯2〜


イギリスのやんごとなき事情
[ウェッジウッド] Wedgwood 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国 The United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland

1759年ジョサイア・ウエッジウッドが、ストーク・オン・トレントに開窯。ストーク・オン・トレントはイギリスの北西中央部スタッフォードシャーにある古くからの陶工の町。ここでは多くの名窯が生まれています。ジョサイアは後年「イギリス陶工の父」と呼ばれイギリス史においても名高い人物で、代々陶工という家系に育ちました。因みに娘のスザンナは『進化論』のチャールズ・ダーウィンの母にあたります。
創業当時は陶器を作り、特にクリーム色の陶器の改良の焼成に成功。このクリーム・ウェアが国王ジョージ3世の妃シャーロットの目にとまり、
クィーンズ・ウェアの名称を許されました。ウェッジウッドは「王家御用達陶工」の称号を下賜され、一躍その名は広まりました。ロシアの女帝エカテリーナ2世もウェッジウッドに食器を注文。サンクトペテルブルクには、沼地に沢山の蛙が住んでいる事から「蛙の宮殿」の別名を持つチェスミー宮殿がありました。イギリス各地の風景や宮殿などを描いたこの952ピースの食器は、フロック(蛙)が書き添えられ、1774年に完成。フロックサービスと呼ばれ世界3大ディナーサービスの1つです。息子ジョサイア2世の1812年に骨灰を使用したファイン・ボーン・チャイナが完成。以後17年程製造されますが、ウェッジウッドでの本格的なボーン・チャイナ製造は1878年までまたなければなりませんでした。窯印はかなりの移り変わりがあり、1878年以降「ポートランドの壷」を使用しています。
ウェッジウッドの代表的パターンの1つジャスパー・ウェアが完成したのは1774年。これは磁器よりも低い温度で焼成された炻器に分類され、ストーン・ウェアとも呼ばれます。吸水性が低く、透光性はなく、硬度があるもので釉薬は使われません。ウェッジウッドの製品における素地はそのものに色素を含み、そこにレリーフ装飾を施したもの。このジャスパー・ウェアはヨーロッパに大流行し、マイセン窯を始めとする諸窯の磁器製造を圧迫したといわれています。
窯印の由来となっている
ポートランドの壷は、古代ローマの壷を模したもの。この意匠の元となったオリジナルの壷はカメオグラスで出来ており、1582年にローマで発見されました。製造当時はアンフォラの形であったと推測されていますが、いつしか尖台は失われ、壷自体も修復を繰り返した形跡が見られるそうです。この壷は1627年に枢機卿デルモンテから枢機卿フランチェスコ・バルベリーニへと渡り、「バルベルーニ・ヴァーズ」の名でその名が知られるようになりました。後にローマからイギリスに渡りますが、この時所有者となったポートランド公爵夫人がその名の由来です。ジョサイアはこれを見てポートランドの壷を復元したのです。大英博物館所蔵のオリジナルは、貸出展示中に1845年に観覧者が割ってしまい、修復したという経緯があります。これにはジョサイアが復元したものがかなり役立ったのだとか。
日本で人気が高い
ワイルド・ストロベリー1965年の採用のボーン・チャイナ製。原画は19世紀初頭に既に描かれており、それを製品化したストロベリー・ヒル(現在は廃盤)のパターンを元に再意匠されたものなのです。

[スポード] Spode 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国
 The United Kingdom of Great Britain &NorthernIreland

ストーク・オン・トレントにジョサイア・スポードが1770年に創業。数年後にはジョン・サドラーとガイ・グリーンにより既に開発されていた銅板転写技術の改良と実用に成功します。イギリスでは磁器の開発がヨーロッパ本土よりも大きく遅れていました。原因は陶土。イギリスにはカオリンを含む陶土が見つからず、磁器に匹敵するものの開発を余儀なくされていたのです。骨灰を使用したボーン・チャイナが生まれたのはそんな背景からでした。初期のボーン・チャイナは品質が悪く粗野なものでしたが、1744年(一説に1748年)にボウ窯のトーマス・フレイが特許を取得していました。それから半世紀後の1800年頃。製品化に成功したのは創設者スポードの息子ジョサイア(ジョサイア2世)だったのです。柔らかく暖かみを持ち備えた白さと硬質磁器以上といわれる強度を持ったボーン・チャイナは瞬く間に人々に受け入れられ、スポード窯は工業式大量生産を実現させていきました。1806年には皇太子ウェールズ(後のジョージ4世)によって王室御用達の称号を許されます。
スポード3世の没後の1833年にウィリアム・コープランドのコープランド[Copeland]と共同経営となり、後にコープランドの単独経営にもなりますが、現在は1970年にスポードに社名を戻し、現在はロイヤルウースタースポード[Royal Worcester Spode]。1842年には骨灰の割合が50%以上のファイン・ボーン・チャイナを完成。
中国の悲恋を描いた作品
ブルーウィローに関しては多くの窯で作られていますが、転写技術を応用して作られたのはスポード窯が始まりだったといいます。同じく手彫りの転写技術を駆使したパターンで知られるブルー・イタリアンは1816年の採用で、その名の通り染付でイタリアの風景を描いたもの。

[ミントン]
 Minton 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国
 The United Kingdom of Great Britain & Northe
rnIreland

1793年彫刻家でありデザイナーでもあったトーマス・ミントンの創業。トーマスはそれまでカーフレイ窯の銅板転写用の彫刻をしていた人物。ストーク・オン・トレントに窯を開いた当初は陶器を手がけていました。ボーン・チャイナの製造を始めたのは1800年頃。また開発していた転写技術を陶器に応用しました。工場の近代化や人材登用など経営に巧みであった2代目ハーバードの代にミントンの名は広まり、甥のコリンも革新的な技法の開発に力を尽くしました。レイズド・ペイスト・ゴールド技法(いわゆる金盛り)、金を腐食させる事により細密な模様を浮き彫りにさせていくアシッド・ゴールド技法などを開発。特に液状にした粘土を重ねレリーフを作り出すパテ・シュール・パテ技法は食器装飾技術の最高発明といわれています。1856年ヴィクトリア女王より王室御用達を下賜、現在はロイヤル・ドルトングループ[ROYAL DOULTON]とに入っています。ヴィクトリア女王曰く「世界で最も美しいボーン・チャイナ」。また、ミントン独特のトルコブルーにも似た青色は、一般にミントン・ブルーとして知られています。
日本でも馴染み深い
ハドン・ホールは1948年の採用。ジェームス1世のハドンホール城のタペストリーを手本にジョン・ワズワースにより考案されたもの。青色のハドン・ホール・ブルーは1993年にミントン200年記念に作られたシリーズ。ファイフ・シェイプ。現在はウェッジウッドグループに入っています。

[エインズレイ]
 Aynsley 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国 The United Kingdom of Great Britain & NorthernIreland

創業者ジョン・エインズレイはスタッフォードシャーの炭鉱社長。当時のイギリスは産業革命の真っ只中で、この土地の良質な石炭は需要が拡大、ジョンの経営する会社も大いに潤っていたと考えられています。しかし趣味の陶芸が高じてついに1775年、製陶所を立ち上げてしまうのです。それがエインズレイの始まりとなりました。彼自身、その道を極めていつしかマスターの資格を持つまでに腕を上げています。孫ジョン・エインズレイ(エインズレイ2世)の時代、イギリスにおける喫茶が習慣的になった事に着目してティーセットを製造し、これが成功をおさめました。1861年にはボーン・チャイナ製造の為の工場「ポートランド製陶所」を設立。3代目になるとボーン・チャイナの製品が作られるようになり、現在でもエインズレイは全てがボーン・チャイナ製なのです。透かし模様の製品はヴィクトリア女王のお気に入りのものだった為、貴族達からの注文が殺到したといいます。
見込みに絵柄が描かれているものが多いのがエインズレイの特徴。また
陶花はチャールズ皇太子成婚の折に参列者に贈られた事でも知られています。

[コールポート] Coalpoat 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国 
The United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland

1795年、カーフレイ窯(サロピアン窯とも。1775−1814)から独立したジョン・ローズにより開窯。現在はウェッジウッドグループに入っています。

[ニューホール] NEW HOLL
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国 The United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland

イギリス風土から軟質磁器を作る窯が多い中で、硬質磁器を作っていた少ない窯の1つ。1781年スタッフォードシャーのシェルトンで創業され、後に硬質磁器からボーン・チャイナへと製造を移すものの、1835年歴史に幕を閉じました。

[ロイヤルウースター] Royal Worceter 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国 
The United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland


前身は1748年創業のブリストル窯で、1751年に医者であり化学者でもあったジョン・ウォールと薬剤師ウイリアム・ディヴィスの呼びかけに応えたウースター市在住の人々による共同出資からウースター窯は誕生します。実は現存する窯ではイギリス最古。1789年には国王ジョージ3世から「王室御用達」を下賜され、王侯貴族に注目を集めるようになりました。イギリスでは最古の王室御用達窯である上に、この「王室御用達(ロイヤルウォラント)」の授与を現在まで途切れる事なく受け続けているのは、このロイヤルウースターのみ。前身のブリストル窯ではステアタイト(凍石、ソープストーン)を原料にした磁器を製造していましたが、ウースターでもこれを引き継ぎ高い評価を受けていました。1800年頃にはボーン・チャイナの製造に成功。
パターンの1つ
ロイヤル・リリーは、1788年に名付けられたもの。以前はブルー・リリーという名でしたが、ジョージ3世とシャーロット王妃が共にウースター窯を訪れ、このパターンを注文した事に由来するのです。他にもジョージ6世、エリザベス1世からの注文も応じた歴史があります。

[ロイヤル・クラウン・ダービー] ROYAL CROWN DERBY 
グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国
 The United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland


アンドリュー・ブランシェが1748年に開いたダービー窯が前身。ダービー窯は、フリット磁器(軟質磁器に似たもの)を作りイギリスで初めてボーン・チャイナを生み出したボウ窯(1744年頃開窯、ニュー・キャントンとも呼ばれる)、ニコラス・スプリモントとシャルル・ゴーインによってロンドン郊外に1743年に開かれたチェルシー窯と合わせて、イギリス三大古窯と言われています。チェルシー窯[Chelsea]はイギリスで初めて磁器が焼かれたところでもあり、ここで作られたものは当時最高の評価を得ていました。1770年にダービー窯がこれを買収し、1784年にはその歴史に幕を閉じました。またボウ窯も諸説はありますが1778年にダービー窯によって買収されたといわれています。
1756年に銀行家ジョン・ヒースの資金援助を得、また絵付師ウイリアム・デュズベリが参入する事で大きく飛躍。同年ブランシェはここを去り、経営はデュズベリに委ねられました。1775年にはジョージ3世から「王冠(クラウン)」の称号を下賜されます。一旦、経営難から1848年に閉窯しますが1877年に再びクラウン・ダービー社の名で経営を再開。ヴィクトリア女王から「王室御用達」を許されたのは1890年の事。現在はロイヤル・ドルトン・グループに入っています。
良く知られている
ジャパンは、1775年に採用された意匠。オールド・イマリ、イマリの名でも有名。そのネーミングの通り、日本から輸出されていた伊万里が意匠の元になっています。

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