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1789年 | 1月 4日 | タレーラン、オータン司教としての就任式。 |
*この月、エマニュエル・シェイエス、『第三身分とはなにか』を刊行。 | ||
4月 | *この月、シャルル・アンリ・サンソン(大サンソン)、ルイ16世に謁見。 | |
5月 4日 | 三部会開催の行列がヴェルサイユにて繰り広げられる。 | |
5月 5日 | 三部会をヴェルサイユに召集。 | |
*この頃、サン・ジュストの長編詩『オルガン』が刊行されるが、発禁処分となりサン・ジュストは身を隠す。 | ||
6月 4日 | 王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ逝去(1781−1789)。第2王子ルイ・シャルル、王太子となる。 | |
6月 8日 | 財政圧迫の為、バスティーユ牢獄の廃止・建物撤去案の一貫として、建築家ダヴィ・ド・シャヴィニェが広場建設案を王立建築学士院に提出。 | |
6月17日 | 第三身分、国民議会を成立。 | |
6月19日 | 第一身分の一部が国民議会に合流。 | |
6月20日 | 式部長官トゥー・ルー・プレゼ候爵、ムニュ・プレジール大広間入口を武力閉鎖。第三身分、入室を拒まれる。 ジョゼフ・ギヨタン博士、国民議会の集結場所に球戯場(ジュー・ド・ポーム)を提案。第三身分が国民議会を放棄しない誓いをたてる。<テニスコート(ジュー・ド・ポーム)の誓い> | |
6月22日 | スイス連隊、ヴェルサイユに集結。 | |
6月23日 | ルイ16世により、国民議会の解散と身分別での討議を命じられるも第三身分はこれを拒否。 | |
7月 2日 | サド侯爵、バスティーユ牢獄から民衆に向かって演説を行う。 | |
7月 4日 | サド侯爵、バスティーユ司令官ド・ローネー候爵の怒りを買いシャトラン精神病院に移される。 | |
7月 9日 | 国民議会、憲法制定国民議会と名称を変更。憲法制定に向けて動き出す。 | |
7月11日 | 財務総監ネッケル罷免。 | |
7月12日 | ネッケル罷免に抗議してカミーユ・デムーラン、パレ・ロワイヤルにて演説。市民蜂起を促す。 | |
7月14日 | 武器を求めて民衆が、廃兵院ついでバスティーユ牢獄襲撃。司令官ド・ローネー候爵(1740−1789)、パリ市長フレッセル(1730−1789)惨殺。<バスティーユ陥落。フランス革命の勃発> | |
7月15日 | 早朝リアンクール・ド・ロッシュフーコー公爵、ルイ16世に「革命」を告げる。パリ市長にバイイが就任。国民議会の代表団がパリを訪れる。 | |
7月16日 | ネッケル、再任。バスティーユ牢獄の取り壊しが決定し、建築請負人のパロアが指揮をとる。パリ市の青と赤にブルボン王家の白を入れた三色旗が登場(当初の三色旗は左は赤、中に白、右は青の配色)。<三色旗使用の始まり> *アルトワ伯をはじめ、ド・コンデ大公、ブルトゥイユ男爵、ポリニャック公爵夫妻など、王侯貴族の亡命が始まる。 | |
7月17日 | ルイ16世、パリに出向く。プロヴァンス伯爵は国王代理官に任命される。ルイ16世、新パリ市長バイイから三色帽章を受け取る。 | |
7月18日 | プロヴァンス伯爵、一時ヴェルサイユを脱出。 | |
8月 4日 | 国民議会、封建的諸特権を廃止。 | |
8月26日 | ラ・ファイエット将軍起草の「人間と市民の為の権利宣言(人権宣言)」を採択。 | |
9月11日 | 憲法制定議会、ルイ16世に「拒否権」を認める。 | |
9月12日 | ジャン・ポール・マラー、「人民の友」を刊行。 | |
10月 4日 | ヴェルサイユ行進。パリの下層階級の女性達が中心となりヴェルサイユに向かう。 | |
10月 6日 | マリー・アントワネット、ヴェルサイユ行進の報を受けプチ・トリアノン離宮からヴェルサイユ宮殿に戻る。国王一家はランブイエに向かおうとするも民衆に阻止される。ラ・ファイエット将軍、国民衛兵に宮殿の警護を任せる。 | |
10月 6日 | 明け方、ヴェルサイユ宮殿に暴徒侵入。国王一家パリ帰還。チュイルリー宮殿に入る。 | |
10月10日 | ルイ16世、「フランス人の王」となる。 ジョゼフ・ギヨタン博士、処刑法における断頭台(ラ・ギヨティーヌ。当初の名はラ・ルイゼット、ラ・ルイゾン)の使用を提案。 | |
11月 | *この月、「ブルトン・クラブ」が「憲法友の会」に名を改める。 *この月、初めての革命劇『シャルル9世、または王様の学校』(マル・ジョゼフ・シェニエ作)、名優タルマを迎えて初演。 | |
12月19日 | アッシニア紙幣発行。 | |
12月27日 | ローマに逃れていたアレッサンドロ・カリオストロ伯爵が異端裁判にかけられる。妻ロレンザ・フェリシァーニに裏切られ、死刑一等を免れるも終身刑を言い渡され、サンタンジェロ城に幽閉される。 | |
1790年 | 2月 6日 | バスティーユ牢獄の取り壊しが終わる。 |
2月16日 | タレーラン、国民議会議会長に選出。 | |
2月20日 | マリー・アントワネットの長兄・神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世逝去(1741−1790)。次兄のレオポルト、神聖ローマ皇帝2世として即位。 | |
4月 2日 | サド侯爵、憲法制定議会により保釈される。 | |
6月19日 | 憲法制定議会、貴族の称号を廃止。 | |
7月 3日 | サン・クルー離宮でマリー・アントワネットとオノレ・ミラボー伯爵が会見。 | |
7月14日 | バスティーユ襲撃一周年を記念した連盟祭が国王一家を迎えシャン・ド・マルスで行われる。オータンの司教タレーランがミサを執り行う。フランス全土で連盟祭が行われる。 | |
8月24日 | ナンシー事件。ラ・ファイエット将軍、人望を失う。 | |
8月27日 | アッシニア紙幣への切り替え。 | |
9月 4日 | 財務総監ネッケル辞職。 | |
10月21日 | 三色旗がフランス王国の国旗となる。 | |
1791年 | 1月13日 | タレーラン、オータン司教を辞す。 |
*この月、デュ・バリ伯爵夫人、イギリスに亡命。 | ||
2月19日 | ルイ16世の叔母マリー・アデライド王女とルイーズ・マリー・テレーズ・ヴィクトワール王女、ローマに向けて亡命。 | |
4月 2日 | オノレ・ミラボー伯爵没(1749−1791)。 | |
4月 4日 | オノレ・ミラボー伯爵のパンテノン葬。 | |
4月18日 | ルイ16世、サン・クルー離宮行きを阻止されて憤慨。 | |
5月30日 | ロベスピエール、死刑制度の廃止を提案するも否決。 | |
6月 3日 | 全ての死刑囚に対する処刑方法を斬首と決定。 | |
6月10日 | ロベスピエール、パリ革命裁判所検事に選出。 | |
6月20日 | 国王一家はフランス北東部のモンメディに向け、プロヴァンス伯爵夫妻はベルギーに向けパリを脱出。逃亡に関与していたフォン・フェルセン伯爵、亡命。 | |
6月21日 | 国王一家、ヴァレンヌにて逮捕。<ヴァレンヌ逃亡事件> ポーアルネ子爵、立憲国民議会議長に選出(6月21日〜7月16日)。 | |
6月23日 | フォン・フェルセン伯爵、ベルギーのアルロンでド・ブイエ将軍に国王一家亡命の失敗の報を受ける。 | |
6月25日 | 国王一家、パリに帰還。憲法制定会議、王権の停止を決議。 | |
7月11日 | ヴォルテール、ロミリーからパンテノンに葬られる。 | |
7月14日 | 連盟祭。 | |
7月16日 | プロヴァンス伯爵、アルトワ伯爵、ドイツのコブレンツに到着。 | |
7月17日 | シャン・ド・マルスの虐殺。ルイ16世の廃位を求める民衆に対しラ・ファイエット将軍率いる国民衛兵が弾圧を加える。パリ市長バイイ、人望を失う。 | |
*ウォルフガング・モーツァルト、この月に『レクイエム』の作曲を依頼される。 | ||
8月27日 | ピルニッツ宣言。オーストリア、プロイセンがフランス革命干渉を表明。 | |
9月13日 | ルイ16世、三権分立と立法王政を基本とする「1791年憲法」を認可。 | |
9月14日 | ルイ16世、憲法に忠誠を誓う。 | |
9月30日 | 憲法制定会議解散。 | |
10月 1日 | 立法議会召集。 | |
10月31日 | 亡命貴族(エミグレ)処罰法制定。 | |
11月 9日 | 亡命貴族処刑法制定。 | |
11月12日 | パリ市長バイイ、辞任。ナントに引退。 | |
11月14日 | ペティヨン、新パリ市長に選出。 | |
12月 5日 | 作曲家モーツァルト没(1756−1791)、翌日埋葬。 | |
12月12日 | 神聖ローマ皇帝フランツ2世の皇女マリー・ルイーズ誕生(後のナポレオン1世皇后)。 | |
*この年、亡命先のイギリスでラ・モット伯爵夫人転落死。 *この年、カリオストロ伯爵、サン・レオ牢獄に移る。 *この年、シャトーブリアンがアメリカ旅行に旅立つ(ヴァレンヌ逃亡事件をアメリカにて知り帰国) | ||
1792年 | 1月 | タレーラン、外交使節としてロンドンへ向かう(〜7月)。 |
2月13日 | 深夜、フォン・フェルセン伯爵、単身でチュイルリー宮殿に忍び込む。 | |
2月14日 | フォン・フェルセン伯爵、ルイ16世に引見。国王夫妻との永遠の別れとなる。 | |
2月23日 | フォン・フェルセン伯爵、パリを出立しブリュッセルに亡命。 | |
3月 1日 | マリー・アントワネットの兄神聖ローマ皇帝レオポルト2世逝去(1747−1792)。長子フランツ、神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位(1806年神聖ローマ皇帝退位、オーストリア皇帝フランツ1世として即位)。 | |
3月20日 | 断頭台の使用が許可される。 | |
3月23日 | ジロンド派による内閣成立。 | |
3月30日 | スウェーデン国王グスタフ3世逝去(1746−1792)。 | |
4月20日 | オーストリアに宣戦布告。 | |
4月24日 | ストラスブールにて深夜、ストラスブール市長フィリップ・フレドリック・ド・ディートリッヒの依頼により、公兵大尉クロード・ジョゼフ・ルジェ・ド・リールが『ライン軍の為の軍歌』を書き上げる。<フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の誕生> | |
4月25日 | 断頭台をクレーヴ広場に設置。ニコラ・ジャック・ベルティエ、断頭台の最初の処刑者となる。 | |
4月29日 | 『ライン軍の為の軍歌』、一般に披露。 | |
6月20日 | 民衆がチュイルリー宮殿を襲撃。 | |
7月11日 | プロイセン軍、フランス国内に前進。「祖国は危機にあり」宣言。 | |
7月14日 | 連盟祭。 | |
7月30日 | マルセイユ連盟兵がパリに到着し、シャンゼリゼ宮殿で宴会が催される。 | |
8月 3日 | ロベスピエール、国王の廃位を要求。 | |
8月 9日 | チュイルリー宮殿襲撃計画が練られる。 | |
8月10日 | 8月10日の革命(パリ・コミューンの蜂起)。チュイルリー宮殿襲撃。国王一家は議会に逃れる。<王権の停止> | |
8月11日 | 立法議会解散。国民公会召集。 | |
8月13日 | 国王一家、アルトワ伯爵が所有していたタンプル塔に幽閉。 | |
8月19日 | ラ・ファイエット将軍、オーストリアに亡命。 | |
8月21日 | 断頭台の使用が公式に開始される。断頭台はカルーゼル広場に移動。 | |
9月 2日 | 9月大虐殺(2日〜6日)。貴族や王党派の大虐殺。ラ・フォルス牢獄に収容されていたランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ、惨殺される。 | |
9月 5日 | サン・ジュスト、最年少の国民公会議員に当選。 | |
9月 7日 | タレーラン、ロンドンへ向かう。 | |
9月10日頃 | 亡命貴族デュテイユによりプロヴァンス伯爵に王国摂政の称号が贈られる。プロイセン皇帝はこれを承認するも神聖ローマ皇帝フランツ2世は拒否。 | |
9月14日 | オルレアン公ルイ・フィリップに「エガリテ(平等公)」の称号が贈られ、以後「フィリップ・エガリテ」と名乗る。 | |
9月18日 | ラ・ファイエット将軍、亡命先のオーストリアで捕らえられ投獄。 | |
9月20日 | 国民公会成立。ヴァルミーの勝利。 | |
9月21日 | 王政廃止。第一回国民公会開催。<第1次共和制> | |
9月22日 | 「一にして不可分の共和国」の樹立を宣言。<共和国宣言> *1793年10月5日、グレゴリオ暦を否定した革命暦により共和国元年にあたるこの日は共和暦元年葡萄月1日と改められた。 | |
10月22日 | サン・ジュスト、ジャコバン・クラブで初演説。 | |
11月13日 | サン・ジュスト、国民公会で国王の処刑の是非を問う初演説。 | |
11月20日 | 錠前師ガマンの密告によりチュイルリー宮殿の秘密の戸棚が開かれる。 | |
12月 5日 | タレーラン、国民公会にて告発される。 | |
12月11日 | ルイ16世、裁判の為タンプル塔から移される。 | |
12月25日 | ルイ16世、遺書を書く。 |
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