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1793年 | 1月14日 | ルイ16世の罪に関する3つの投票が行われる。 |
1月18日 | ルイ16世の執行猶予についての投票が行われ、死刑が確定。ルイ16世の従兄フィリップ・エガリテは死刑票に投じる。 | |
1月20日 | ルイ16世に死刑判決。夜、ルイ16世はタンプル塔で家族と最後の別れをする。 | |
1月21日 | ルイ16世、ルイ・オーギュスト・カペーとして処刑(1754−1793)。以降王党派から王太子ルイ・シャルルはルイ17世と称され、プロヴァンス伯爵は亡命先で摂政を名乗る。 | |
2月 1日 | 国民公会、イギリス、オランダに宣戦布告。 | |
3月 7日 | 国民公会、スペインに宣戦布告。 | |
3月10日 | 革命裁判所設置。ヴァンデ地方で暴動。ジャルジェイ将軍、マリー・アントワネットを救出しようと計画するも未遂に終わる。 | |
3月21日 | 監視委員会設置。 | |
3月28日 | 亡命者に関する法律制定。亡命者は死者とみなされ、財産没収。 | |
*この月、デュ・バリ伯爵夫人イギリスより帰国。 | ||
4月 3日 | フィリップ・エガリテ逮捕。マルセイユのサン・ジャン城に幽閉。 | |
4月 6日 | 国民公会に公安委員会設立。 | |
*この月、ド・フォントネ侯爵夫妻が離婚。 | ||
5月27日 | コルシカ議会、ブオナパルテ一家を弾劾。一族はフランス本土へ逃亡。 | |
5月30日 | サン・ジュスト、公安委員会補助委員に選出。 | |
6月 1日 | 「ジロンド派」に逮捕命令。ジロンド派と交流があったマノン・ロラン、逮捕。 | |
6月 2日 | 「ジロンド派」逮捕。<ジロンド派の失墜> | |
6月10日 | 逃亡中のジロンド派議員がノルマンディー地方カーンに到着。 | |
6月13日 | ブオナパルテ一家、トゥーロンに到着。 | |
6月20日 | シャルロット・コルデー、ジロンド派議員のバルバルーと会見。 | |
7月 3日 | 夜、ルイ17世が家族から引き離され、同タンプル塔内3階の部屋に入る。以降靴屋アントワーヌ・シモン夫妻の監視下に置かれる。 | |
7月 9日 | シャルロット・コルデー、パリに向かう。 | |
7月10日 | サン・ジュスト、公安委員に選出。 | |
7月13日 | シャルロット・コルデー、ジャン・ポール・マラーを暗殺。 *ジャック・ルイ・ダヴィット、遺体を前に『暗殺されたマラー』を描き始める。 | |
7月14日 | 連盟祭。 | |
7月16日 | コルドリエ教会にてジャン・ポール・マラーの葬儀。 | |
7月17日 | シャルロット・コルデーの裁判。即日処刑(1768−1793)。ドイツ人国民公会議員アダン・リュックス、刑場に赴くシャルロットに一目惚れをする。 | |
7月23日 | ロベスピエール、公安委員に選出。 | |
7月31日 | 元パリ市長バイイ、陰謀者として逮捕。 | |
8月 2日 | マリー・アントワネット、タンプル塔からコンシェルジュリー牢獄へ移される。 | |
8月 6日 | サン・ドニ教会で民衆による王族の墓の破壊が始まる。 | |
8月10日 | 共和国1周年を記念してルーブル宮殿が美術博物館として開館。 | |
8月22日 | ロベスピエール、国民公会議長に就任。 | |
8月28日 | ルージュヴィル士爵、コンシェルジュリーにおいてマリー・アントワネットにカーネーションを贈る。 | |
9月2日 | 深夜、ルージュヴィル士爵、コンシェルジュリーからマリー・アントワネットを救出しようとするが失敗。<カーネーション事件> | |
9月17日 | 反革命嫌疑者の投獄を命ずる法が制定。 | |
9月18日 | 反革命嫌疑者として『ラ・マルセイエーズ』の作者ルジェ・ド・リールに逮捕状が出る。 | |
9月20日 | シャルル・ジルベール・ロムによる「共和暦についての報告」の呼びかけ。 | |
9月24日 | ルジェ・ド・リール、逮捕。ヴェルサイユの牢獄に投獄。 | |
9月22日 | デュ・バリ伯爵夫人逮捕。 | |
10月 2日 | デカルトのパンテノン葬。 | |
10月 5日 | 共和暦採択。共和国元年にあたる1792年9月22日を共和暦元年葡萄月(ヴァンデミエール)1日とする。 | |
10月10日 | 革命政府樹立。公安委員会は平和到来秩序回復までの独裁を要求。 | |
10月12日 | マリー・アントワネットの裁判が始まる(予審)。 サン・ドニ教会でブルボン王家の王族の墓の破壊が始まる。 | |
10月14日 | マリー・アントワネットの裁判(公判)。 | |
10月15日 | マリー・アントワネットに死刑判決。夜、義妹エリザベート・フィリピーヌ王女に遺書を書く。 | |
10月16日 | マリー・アントワネット、カペー未亡人として処刑(1755−1793)。マリー・アントワネットの遺書は看守長ボーから検事フーキエ・タンヴィルに渡る。(後、ロベスピエールやクロトワなどの手を経て、1816年に至り娘のマリー・テレーズ王女に渡る) 同日、サン・ドニ教会にてルイ15世の墓が暴かれる。 | |
10月17日 | サン・ジュスト、ライン軍に派遣。 | |
10月24日 | ジロンド派裁判が始まる。 | |
10月31日 | 「ジロンド派」処刑。 | |
11月 6日 | フィリップ・エガリテ処刑(1747−1793)。 | |
11月 8日 | マノン・ロラン処刑(1754−1793)。 | |
11月10日 | ノートルダム寺院を「理性の神殿」と改称。同寺院にてパリ市長ハッシュ命名の旬日節「自由と理性の祭典」が開催。 | |
11月12日 | 元パリ市長バイイ処刑(1736−1793)。 | |
11月24日 | 共和暦制定。 | |
*この月、ルジェ・ド・リール、サン・ジェルマン・アン・レイの城に移される。 | ||
12月 5日 | 亡命先のウィーンにてマルティエーヌ・ガブリエル・ド・ポリニャック公爵夫人没(1749−1793)。 | |
12月 8日 | デュ・バリ伯爵夫人処刑(1743−1793)。 サド侯爵、自宅にて逮捕。マドロネット収容院に送られる。 トゥーロン攻略の砲兵隊司令官ナポレオーネ、トゥーロンを奪回する事に成功する。 | |
12月25日 | 『ライン軍の為の軍歌』をルジェ・ド・リールに依頼したストラスブール市長ディートリッヒ処刑(1748−1793)。 | |
1794年 | 1月 5日 | アントワーヌ・シモン、ルイ17世の家庭教師の地位と1万リーブルの報酬を放棄。 |
1月13日 | サド侯爵、レ・カルム僧院に移される。 | |
1月18日 | アントワーヌ・シモン、ルイ17世を、警史ルグラン、ロリネ、ラニエ、コシュケールに引き渡す。 | |
1月19日 | アントワーヌ・シモン夫妻、タンプル塔を出る。ルイ17世、4人の警史の監視下に入り隔離軟禁される。 | |
1月21日 | 「国王の死」の祝典。 フォン・フェルセン伯爵、マリー・アントワネットの刻印を受け取る。 | |
1月22日 | サド侯爵、サン・ラザール牢獄に移される。 | |
1月23日 | サン・ジュスト、北方軍に派遣。 | |
1月28日 | タレーランにイギリス退去命令が下される。 | |
3月 3日 | タレーラン、アメリカに亡命。 | |
3月 2日 | マインツ戦敗戦の不手際を罪としてポーアルネ子爵に逮捕状が出る。 | |
3月13日 | 「エベール派」逮捕。 | |
3月24日 | ジャック・エベール(1757−1794)ら「エベール派」処刑。 | |
3月27日 | サド侯爵、ビクピュス療養所に移される。 | |
3月29日 | ジロンド派とみなされていたコンドルセ、獄中で自殺(1743−1794)。(アラゴ説では4月8日) | |
3月31日 | 「ダントン派」逮捕。 | |
4月 3日 | 「ダントン派」裁判が始まる。 | |
4月 6日 | ダントン(1759−1794)、カミーユ・デムーラン(1760−1794)、ファーブル・デグランチーヌ(1750−1794)ら「ダントン派」、グレーヴ広場にて処刑。 | |
4月22日 | ジョゼフィーヌ、夫ポーアルネ子爵の罪に連座して逮捕。ラ・フォルス監獄に投獄。 | |
4月29日 | サン・ジュスト、北方軍に派遣。 | |
5月 9日 | エリザベート・フィリピーヌ王女処刑(1764−1794)。 | |
6月 6日 | サン・ジュスト、東北戦線に派遣。 | |
6月 7日 | 画家ジャック・ルイ・ダヴィットの演出による「最高存在の祭典」が催される。 | |
6月26日 | サン・ジュストら「フリュリスの勝利」を収める。 | |
6月30日 | サン・ジュスト、パリに帰る。 | |
*この月、逃亡中のジロンド派議員バルバルー処刑(1767−1794)。 *バルバルー処刑から約1週間後、逃亡中のジロンド県でジロンド派の元パリ市長ペティヨン(1756−1794)とビュゾ(1760−1794)の遺体が発見される。 *寛政6年旧暦7月(1794年6月)、徳川幕府にオランダ船よりフランス革命についての『風説書』が提出される。 | ||
7月14日 | 「7月14日」の祭典。 | |
7月19日 | 音楽家ヨハン・フリードリッヒ・エーデルマン処刑(1749−1794)。 | |
7月23日 | ポーアルネ子爵処刑(1760−1794)。 | |
7月24日 | アントワーヌ・シモン処刑(1736−1794)。 | |
7月25日 | ラ・フォルス監獄に投獄されていた元ド・フォントネ侯爵夫人テレジア・カヴァリス、愛人ジャン・ランベール・タリアンに手紙を書きロベスピエール派打倒を促す。 詩人アンドレ・シェニエ処刑(1762−1794)。 | |
7月26日 | タリアン、テレジア・カヴァリスに決意の返事を書く。 | |
7月27日 | ロベスピエールら逮捕。ロベスピエール、自殺未遂のところをピストルで顎を砕かれる。<熱月(テルミドール)9日の反動> | |
7月28日 | 明け方にポール・バラス将軍、タンプル塔のルイ17世を訪問。 午後、ロベスピエール(1758−1794)、サン・ジュスト(1767−1794)ら「ジャコバン派」22名が処刑。 | |
7月30日 | テレジア・カヴァリス、釈放。「テルミドールの聖母」と称えられる。 | |
8月 6日 | ジョゼフィーヌ、ラ・フォルス監獄より釈放。以降総裁バラスの愛人となる。 | |
8月18日 | ルジェ・ド・リール、釈放。 | |
*この月の下旬、ようやくルイ17世の隔離軟禁が緩和。 | ||
9月21日 | ジャン・ポール・マラーのパンテノン葬。 | |
*この月、ニースでオーギュスタン・ド・ロベスピエールらの庇護を受けていたとしてナポレオーネ、ジャコバン派とみなされ投獄される。約2週間後に釈放。 | ||
10月15日 | サド侯爵、釈放。 | |
10月21日 | ジャン・ジャック・ルソーのパンテノン葬。生涯のライバルであったヴォルテールの側に葬られる。 | |
12月26日 | タリアンとテレジア・カヴァリスが結婚。 | |
1795年 | 1月21日 | 「国王の死」の祝典。 |
2月 8日 | パンテノンからジャン・ポール・マラーらの遺骨を除く。 | |
4月21日 | ナポレオーネ、エティエンヌ・クラリーの娘のデジレ・クラリー(ナポレオーネの兄ジョゼフの妻ジュリーの妹。後のスウェーデン王妃)と婚約。 | |
5月 1日 | フーキエ・タンヴィル、処刑(1746−1795)。 | |
6月 6日 | 医師フィリップ・ぺルタン、ルイ17世を診察。 | |
6月 7日 | ルイ17世、不調を訴える。 | |
6月 8日 | タンプル塔にてルイ17世逝去(1785−1795)。プロヴァンス伯、ルイ18世と称す。 | |
6月 9日 | 医師ペルタン、デュマンジャン、ジャンロワ、ラシュらルイ17世を解剖。ペルタンはルイ17世の心臓を盗み出す。翌日サント・マグリット教会共同墓地に埋葬。 | |
6月16日 | ロム、自殺(1750−1795)。 | |
6月20日 | マドレーヌ・ド・ラ・ロシェット、タンプル塔に入りマリー・テレーズ王女の面倒を見るようになる。後、マドレーヌにより母や叔母の死を初めて聞かされる。 | |
6月27日 | フォン・フェルセン伯爵、シュティニンゲにてルイ17世の訃報を聞く。 | |
7月14日 | 革命祭典において『ラ・マルセイエーズ』が国歌として採用。 | |
7月24日 | フィリップ・ド・ノワイユ伯爵(1715−1794)とその夫人処刑。 | |
7月27日 | 「テルミドール9日」の祭典。 | |
8月26日 | サン・レオ牢獄でカリオストロ伯爵没(1743−1795)。 | |
8月30日 | パリの処刑人(ムッシュウ・ド・パリ)シャルル・アンリ・サンソン、引退を表明し辞表を提出。 | |
9月 5日 | アンリ・サンソン、父シャルル・アンリ・サンソンの後を継ぐ。 | |
9月23日 | 1795年憲法公布。 | |
10月 5日 | 王党派による葡萄月(ヴァンデミエール)の反乱。ナポレオーネ、これを鎮圧し「ヴァンデミエールの将軍」と称えられる。 | |
10月26日 | 国民公会解散。 | |
10月27日 | 総裁政府成立。 | |
12月18日 | フランス・オーストリア間の捕虜交換の為、マリー・テレーズ王女、タンプル塔を出、オーストリアに向かう。 |
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