このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

恐怖政治(1793年〜1795年)

1793年 1月14日ルイ16世の罪に関する3つの投票が行われる。
 1月18日ルイ16世の執行猶予についての投票が行われ、死刑が確定。ルイ16世の従兄フィリップ・エガリテは死刑票に投じる。
 1月20日ルイ16世に死刑判決。夜、ルイ16世はタンプル塔で家族と最後の別れをする。
 1月21日ルイ16世、ルイ・オーギュスト・カペーとして処刑(1754−1793)。以降王党派から王太子ルイ・シャルルはルイ17世と称され、プロヴァンス伯爵は亡命先で摂政を名乗る。
 2月 1日国民公会、イギリス、オランダに宣戦布告。
 3月 7日国民公会、スペインに宣戦布告。
 3月10日革命裁判所設置。ヴァンデ地方で暴動。ジャルジェイ将軍、マリー・アントワネットを救出しようと計画するも未遂に終わる。
 3月21日監視委員会設置。
 3月28日亡命者に関する法律制定。亡命者は死者とみなされ、財産没収。
*この月、デュ・バリ伯爵夫人イギリスより帰国。
 4月 3日フィリップ・エガリテ逮捕。マルセイユのサン・ジャン城に幽閉。
 4月 6日国民公会に公安委員会設立。
*この月、ド・フォントネ侯爵夫妻が離婚。
 5月27日コルシカ議会、ブオナパルテ一家を弾劾。一族はフランス本土へ逃亡。
 5月30日サン・ジュスト、公安委員会補助委員に選出。
 6月 1日「ジロンド派」に逮捕命令。ジロンド派と交流があったマノン・ロラン、逮捕。
 6月 2日「ジロンド派」逮捕。<ジロンド派の失墜>
 6月10日逃亡中のジロンド派議員がノルマンディー地方カーンに到着。
 6月13日ブオナパルテ一家、トゥーロンに到着。
 6月20日シャルロット・コルデー、ジロンド派議員のバルバルーと会見。
 7月 3日夜、ルイ17世が家族から引き離され、同タンプル塔内3階の部屋に入る。以降靴屋アントワーヌ・シモン夫妻の監視下に置かれる。
 7月 9日シャルロット・コルデー、パリに向かう。
 7月10日サン・ジュスト、公安委員に選出。
 7月13日シャルロット・コルデー、ジャン・ポール・マラーを暗殺。
*ジャック・ルイ・ダヴィット、遺体を前に『暗殺されたマラー』を描き始める。
 7月14日連盟祭。
 7月16日コルドリエ教会にてジャン・ポール・マラーの葬儀。
 7月17日シャルロット・コルデーの裁判。即日処刑(1768−1793)。ドイツ人国民公会議員アダン・リュックス、刑場に赴くシャルロットに一目惚れをする。
 7月23日ロベスピエール、公安委員に選出。
 7月31日元パリ市長バイイ、陰謀者として逮捕。
 8月 2日マリー・アントワネット、タンプル塔からコンシェルジュリー牢獄へ移される。
 8月 6日サン・ドニ教会で民衆による王族の墓の破壊が始まる。
 8月10日共和国1周年を記念してルーブル宮殿が美術博物館として開館。
 8月22日ロベスピエール、国民公会議長に就任。
 8月28日ルージュヴィル士爵、コンシェルジュリーにおいてマリー・アントワネットにカーネーションを贈る。
 9月2日深夜、ルージュヴィル士爵、コンシェルジュリーからマリー・アントワネットを救出しようとするが失敗。<カーネーション事件>
 9月17日反革命嫌疑者の投獄を命ずる法が制定。
 9月18日反革命嫌疑者として『ラ・マルセイエーズ』の作者ルジェ・ド・リールに逮捕状が出る。
 9月20日シャルル・ジルベール・ロムによる「共和暦についての報告」の呼びかけ。
 9月24日ルジェ・ド・リール、逮捕。ヴェルサイユの牢獄に投獄。
 9月22日デュ・バリ伯爵夫人逮捕。
10月 2日デカルトのパンテノン葬。
10月 5日共和暦採択。共和国元年にあたる1792年9月22日を共和暦元年葡萄月(ヴァンデミエール)1日とする。
10月10日革命政府樹立。公安委員会は平和到来秩序回復までの独裁を要求。
10月12日マリー・アントワネットの裁判が始まる(予審)。
サン・ドニ教会でブルボン王家の王族の墓の破壊が始まる。
10月14日マリー・アントワネットの裁判(公判)。
10月15日マリー・アントワネットに死刑判決。夜、義妹エリザベート・フィリピーヌ王女に遺書を書く。
10月16日マリー・アントワネット、カペー未亡人として処刑(1755−1793)。マリー・アントワネットの遺書は看守長ボーから検事フーキエ・タンヴィルに渡る。(後、ロベスピエールやクロトワなどの手を経て、1816年に至り娘のマリー・テレーズ王女に渡る)
同日、サン・ドニ教会にてルイ15世の墓が暴かれる。
10月17日サン・ジュスト、ライン軍に派遣。
10月24日ジロンド派裁判が始まる。
10月31日「ジロンド派」処刑。
11月 6日フィリップ・エガリテ処刑(1747−1793)。
11月 8日マノン・ロラン処刑(1754−1793)。
11月10日ノートルダム寺院を「理性の神殿」と改称。同寺院にてパリ市長ハッシュ命名の旬日節「自由と理性の祭典」が開催。
11月12日元パリ市長バイイ処刑(1736−1793)。
11月24日共和暦制定。
*この月、ルジェ・ド・リール、サン・ジェルマン・アン・レイの城に移される。
12月 5日亡命先のウィーンにてマルティエーヌ・ガブリエル・ド・ポリニャック公爵夫人没(1749−1793)。
12月 8日デュ・バリ伯爵夫人処刑(1743−1793)。
サド侯爵、自宅にて逮捕。マドロネット収容院に送られる。
トゥーロン攻略の砲兵隊司令官ナポレオーネ、トゥーロンを奪回する事に成功する。
12月25日『ライン軍の為の軍歌』をルジェ・ド・リールに依頼したストラスブール市長ディートリッヒ処刑(1748−1793)。
1794年 1月 5日アントワーヌ・シモン、ルイ17世の家庭教師の地位と1万リーブルの報酬を放棄。
 1月13日サド侯爵、レ・カルム僧院に移される。
 1月18日ントワーヌ・シモン、ルイ17世を、警史ルグラン、ロリネ、ラニエ、コシュケールに引き渡す。
 1月19日アントワーヌ・シモン夫妻、タンプル塔を出る。ルイ17世、4人の警史の監視下に入り隔離軟禁される。
 1月21日「国王の死」の祝典。
フォン・フェルセン伯爵、マリー・アントワネットの刻印を受け取る。
 1月22日サド侯爵、サン・ラザール牢獄に移される。
 1月23日サン・ジュスト、北方軍に派遣。
 1月28日タレーランにイギリス退去命令が下される。
 3月 3日タレーラン、アメリカに亡命。
 3月 2日マインツ戦敗戦の不手際を罪としてポーアルネ子爵に逮捕状が出る。
 3月13日「エベール派」逮捕。
 3月24日ジャック・エベール(1757−1794)ら「エベール派」処刑。
 3月27日サド侯爵、ビクピュス療養所に移される。
 3月29日ジロンド派とみなされていたコンドルセ、獄中で自殺(1743−1794)。(アラゴ説では4月8日)
 3月31日「ダントン派」逮捕。
 4月 3日「ダントン派」裁判が始まる。
 4月 6日ダントン(1759−1794)、カミーユ・デムーラン(1760−1794)、ファーブル・デグランチーヌ(1750−1794)ら「ダントン派」、グレーヴ広場にて処刑。
 4月22日ジョゼフィーヌ、夫ポーアルネ子爵の罪に連座して逮捕。ラ・フォルス監獄に投獄。
 4月29日サン・ジュスト、北方軍に派遣。
 5月 9日エリザベート・フィリピーヌ王女処刑(1764−1794)。
 6月 6日サン・ジュスト、東北戦線に派遣。
 6月 7日画家ジャック・ルイ・ダヴィットの演出による「最高存在の祭典」が催される。
 6月26日サン・ジュストら「フリュリスの勝利」を収める。
 6月30日サン・ジュスト、パリに帰る。
*この月、逃亡中のジロンド派議員バルバルー処刑(1767−1794)。
*バルバルー処刑から約1週間後、逃亡中のジロンド県でジロンド派の元パリ市長ペティヨン(1756−1794)とビュゾ(1760−1794)の遺体が発見される。
*寛政6年旧暦7月(1794年6月)、徳川幕府にオランダ船よりフランス革命についての『風説書』が提出される。
 7月14日「7月14日」の祭典。
 7月19日音楽家ヨハン・フリードリッヒ・エーデルマン処刑(1749−1794)。
 7月23日ポーアルネ子爵処刑(1760−1794)。
 7月24日アントワーヌ・シモン処刑(1736−1794)。
 7月25日ラ・フォルス監獄に投獄されていた元ド・フォントネ侯爵夫人テレジア・カヴァリス、愛人ジャン・ランベール・タリアンに手紙を書きロベスピエール派打倒を促す。
詩人アンドレ・シェニエ処刑(1762−1794)。
 7月26日タリアン、テレジア・カヴァリスに決意の返事を書く。
 7月27日ロベスピエールら逮捕。ロベスピエール、自殺未遂のところをピストルで顎を砕かれる。<熱月(テルミドール)9日の反動>
 7月28日明け方にポール・バラス将軍、タンプル塔のルイ17世を訪問。
午後、ロベスピエール(1758−1794)、サン・ジュスト(1767−1794)ら「ジャコバン派」22名が処刑。
 7月30日テレジア・カヴァリス、釈放。「テルミドールの聖母」と称えられる。
 8月 6日ジョゼフィーヌ、ラ・フォルス監獄より釈放。以降総裁バラスの愛人となる。
 8月18日ルジェ・ド・リール、釈放。
*この月の下旬、ようやくルイ17世の隔離軟禁が緩和。
 9月21日ジャン・ポール・マラーのパンテノン葬。
 *この月、ニースでオーギュスタン・ド・ロベスピエールらの庇護を受けていたとしてナポレオーネ、ジャコバン派とみなされ投獄される。約2週間後に釈放。
10月15日サド侯爵、釈放。
10月21日ジャン・ジャック・ルソーのパンテノン葬。生涯のライバルであったヴォルテールの側に葬られる。
12月26日タリアンとテレジア・カヴァリスが結婚。
1795年 1月21日「国王の死」の祝典。
 2月 8日パンテノンからジャン・ポール・マラーらの遺骨を除く。
 4月21日ナポレオーネ、エティエンヌ・クラリーの娘のデジレ・クラリー(ナポレオーネの兄ジョゼフの妻ジュリーの妹。後のスウェーデン王妃)と婚約。
 5月 1日フーキエ・タンヴィル、処刑(1746−1795)。
 6月 6日医師フィリップ・ぺルタン、ルイ17世を診察。
 6月 7日ルイ17世、不調を訴える。
 6月 8日ンプル塔にてルイ17世逝去(1785−1795)。プロヴァンス伯、ルイ18世と称す。
 6月 9日医師ペルタン、デュマンジャン、ジャンロワ、ラシュらルイ17世を解剖。ペルタンはルイ17世の心臓を盗み出す。翌日サント・マグリット教会共同墓地に埋葬。
 6月16日ロム、自殺(1750−1795)。
 6月20日マドレーヌ・ド・ラ・ロシェット、タンプル塔に入りマリー・テレーズ王女の面倒を見るようになる。後、マドレーヌにより母や叔母の死を初めて聞かされる。
 6月27日フォン・フェルセン伯爵、シュティニンゲにてルイ17世の訃報を聞く。
 7月14日革命祭典において『ラ・マルセイエーズ』が国歌として採用。
 7月24日フィリップ・ド・ノワイユ伯爵(1715−1794)とその夫人処刑。
 7月27日「テルミドール9日」の祭典。
 8月26日サン・レオ牢獄でカリオストロ伯爵没(1743−1795)。
 8月30日パリの処刑人(ムッシュウ・ド・パリ)シャルル・アンリ・サンソン、引退を表明し辞表を提出。
 9月 5日アンリ・サンソン、父シャルル・アンリ・サンソンの後を継ぐ。
 9月23日1795年憲法公布。
10月 5日王党派による葡萄月(ヴァンデミエール)の反乱。ナポレオーネ、これを鎮圧し「ヴァンデミエールの将軍」と称えられる。
10月26日国民公会解散。
10月27日総裁政府成立。
12月18日フランス・オーストリア間の捕虜交換の為、マリー・テレーズ王女、タンプル塔を出、オーストリアに向かう。
(C) Copyright momoka Sakurakouji rights reserved.

HOME 薔薇の回廊 花々の舞台> 革命前夜(1754〜1788年) >革命勃発(1789〜1792) >英雄登場(1796年以降)































このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください