このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

建御名方命と戦った諏訪の神様
〜藤島神社〜


朝日を受けて輝く小さなお社。
建御名方命の諏訪入りに際し
土着の神々は戦い、或いは恭順を選んだ。
洩矢族の長・洩矢神は
天竜川を挟んで対峙した
と伝えられる。
古代より存在した小さな墳丘は
現代に至ってその形を変える運命を強いられた。
毎日通り過ぎる現代人の関心をひくこともなく、
生まれ変わった社地に
昔の面影は微塵も感じる事はない。

かつて中仙道の脇往還と呼ばれ重要な交通手段として使用されていた伊那道近くに、県道が一筋走っています。諏訪湖から天竜川へ流れ込む水の行く手と並行するように続く、細く狭く長い道。藤島社が鎮座するのはその道の途上です。祭神は藤島明神。一説に諏訪明神といわれています。

諏訪の原住民であり天竜川河口周辺を治めていた洩矢神は、下流からやってきた建御名方命の諏訪入りを阻む為、戦いを挑みました。言い伝えによると建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪(かぎ)をもって戦い、これに敗れた洩矢神は、以後建御名方命の傍らに仕えたとされます。そして建御名方命の子孫は神氏(諏訪氏)を名乗って諏訪神社(上社)大祝となり、洩矢神の子孫は守矢氏を名乗ってその神長(官)となったのだとか。建御名方命が陣を置いたとされる場所がこの地であり、所縁の藤が此処に根付いた事から藤島の名があります。そして天竜川を挟んで対峙するのが洩矢神の陣地跡とされる洩矢神社です。かつては諏訪湖口から天竜川へという水流が見えたといわれていますが、河岸工事がなされ住宅が立ち並ぶようになった現在ではその様子は一変しています。
この二つのお社は松沢義章の『顕幽本紀夏の部』によれば五六丁、勝田正履の『洲羽事跡考』によれば四五丁の隔たりがありました。両社からは藤蔓が伸び育ち、絡み合って天竜川を覆い、まるで一つの大橋のようだったといい、初夏に藤の花が咲き乱れる有様は「奇しき覧ものなりける趣(『諏訪明神絵詞』)」であったと伝えられています。

藤島神社はかつて四方を田畑で囲まれた古墳の上にありました。古墳の築造年代は7世紀後半から8世紀頃と推定されています。墳墓の上には小さな祠と鳥居、そして大きな欅と藤が繁りちょっとした木陰を作っていました。藤が墳丘を覆っていた様は明治初期までは確認されています。
明治14年に堤防を造る為、塚の石を使おうとしたところ(うっかり?)石室を開いてしまいました。古墳の形状が横穴式だったという事や出土品などはこの時に初めて世に知られる事になりました。石室は再び閉じられ出土品も埋め戻されたのですが、昭和9年の道路拡張工事により墳墓は著しく縮小。石室は無残にも破壊されてしまいました。それに伴い祠も石室部分を欠いた墳墓の残骸の僅かな盛り土の上に移築されました。そして失われた石室の真上には県道が通り人々が往来を始めたのです。石室の遺構である天井石は祠の基壇に姿を変え新たな運命を辿る事になりました。
のち昭和年間に2回の発掘調査を経て、平成15年から3年余りの道路拡張工事により欅は切り倒され、墳丘の存在そのものが消え去り、祠だけが元の地に残りました。かつて古墳をぐるりと囲んでいたであろう田畑は今や住宅や工場が立ち並び、長閑だったその面影は微塵にも残っていません。荒神塚古墳と呼ばれていたこの場所に古代の名残を探すことは出来ないのです。
*上記写真は道路拡張工事終了後の再建直後のもの。工事期間中、御魂代は近くの熊野神社に遷されていました。


*諏訪には二つの藤島伝説が残ります。もう一つの藤島社は こちら 。洩矢神社は こちら をご覧下さい。

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