このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
〜王城年代記・平安京前期[1]〜
元号 | 西暦 | 日 | 出来事 | 当帝 | 大臣 |
延暦13年 | 794 | 1月10日 | 征夷大将軍大伴弟麻呂に節刀を授ける。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 |
5月27日 | 皇太子妃藤原帯子没。(父:藤原百川) | ||||
6月13日 | 坂上田村麻呂、蝦夷征討を開始。 | ||||
8月13日 | 「続日本紀」撰修。 | ||||
7月 1日 | 東西の市を新京に移す。 | ||||
10月22日 | 平安京遷都 | ||||
11月 8日 | 山背を山城とし、新京を平安京と名付ける。近江国古津を大津と改称。 | ||||
延暦14年 | 795 | 1月16日 | 宮中で平安新京を祝う踏歌を行う。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 |
11月23日 | 防人司を廃止。 | ||||
12月22日 | 聖武天皇皇女不破内親王、配流先の淡路より和泉国に移される。 | ||||
延暦15年 | 796 | 1月 1日 | 大極殿が完成。桓武天皇、百官の朝賀を受ける。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 (〜796.7) |
1月25日 | 坂上田村麻呂、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任じられる。 | ||||
2月13日 | 伊勢斎王朝原内親王の帰京の為、大和国に頓宮を造営。 | ||||
2月15日 | 伊勢斎王朝原内親王、退下。 | ||||
3月 5日 | 伊勢斎王朝原内親王、帰京。 | ||||
3月19日 | 北辰を祭る事を禁じる。 | ||||
4月27日 | 渤海使朝貢。 | ||||
7月16日 | 右大臣藤原継縄没(70)。 | ||||
10月27日 | 坂上田村麻呂、鎮守府将軍を兼任。 | (欠官) | |||
12月14日 | 桓武天皇、京中巡幸。朝原内親王第に立ち寄り、五位以上に物を賜う。 | ||||
12月29日 | 氷上川継の課役を免ずる。(父:氷上塩焼、母:聖武天皇皇女不破内親王) | ||||
*この年、東寺・西寺・鞍馬寺建立。 | |||||
延暦16年 | 797 | 2月13日 | 菅野真道ら、「続日本紀」を撰上。 | 桓武天皇 | (欠官) |
4月18日 | 桓武天皇皇女布施内親王、伊勢斎王に卜定。(母:中臣丸豊子) | ||||
4月20日 | 僧二人を淡路に送り、早良親王の霊に謝す。 | ||||
11月 5日 | 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任じられる。 | ||||
延暦17年 | 798 | 4月 2日 | 渤海使が任命される。 | 桓武天皇 | (右)神王 (798.8〜) |
4月18日 | 桓武天皇皇子大伴親王・葛原親王(母:夫人多治比真宗)加冠。 | ||||
12月27日 | 渤海使朝貢。 | ||||
延暦18年 | 799 | 1月20日 | 和気広虫没(70)。 | 桓武天皇 | (右)神王 |
2月21日 | 和気清麻呂没(67)。 | ||||
4月15日 | 渤海使朝貢を6年に1度とする。 | ||||
5月29日 | 遣新羅使を停止。 | ||||
6月20日 | 私出挙を禁止。 | ||||
7月---− | 天竺人、三河に漂着。綿種伝来。 | ||||
9月 3日 | 伊勢斎王布施内親王、伊勢郡行。 | ||||
延暦19年 | 800 | 7月19日 | 桓武天皇、神泉苑に行幸。 | 桓武天皇 | (右)神王 |
7月23日 | 廃太子早良親王に崇道天皇を追贈、廃后井上内親王に皇后位を復す。墓を山陵と称し、勅使は陰陽師衆僧を率いて淡路国崇道天皇陵を鎮謝。 | ||||
延暦20年 | 801 | 2月14日 | 征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を授ける。(〜10月28日) | 桓武天皇 | (右)神王 |
6月12日 | 隼人番上の制を廃止。 | ||||
8月10日 | 藤原葛野麻呂を遣唐大使に任じる。 | ||||
9月27日 | 坂上田村麻呂、蝦夷征討を奏上。 | ||||
延暦21年 | 802 | 1月 9日 | 坂上田村麻呂に胆沢城を築城させる。 | 桓武天皇 | (右)神王 |
2月 6日 | 神泉苑で雅宴を催す。 | ||||
4月15日 | 大墓公阿弖流為ら配下500人余りを率いて降伏。 | ||||
延暦22年 | 803 | 3月 6日 | 坂上田村麻呂に斯波城を築城させる。 | 桓武天皇 | (右)神王 |
4月 2日 | 遣唐大使藤原葛野麻呂に節刀を授ける。 | ||||
5月22日 | 遣唐使船、難波を出発。途中暴風雨の為に渡唐を断念。 | ||||
延暦23年 | 804 | 1月28日 | 坂上田村麻呂、征夷大将軍に再任。 | 桓武天皇 | (右)神王 |
3月28日 | 遣唐大使藤原葛野麻呂に節刀を授ける。 | ||||
5月11日 | 桓武天皇、伊予親王第に行幸。 | ||||
8月10日 | 暴風雨の為に神泉苑に被害。 | ||||
10月11日 | 桓武天皇、紀伊国玉津に行幸。 | ||||
12月25日 | 桓武天皇不予。 | ||||
延暦24年 | 805 | 1月 1日 | 桓武天皇不予。廃朝。 | 桓武天皇 | (右)神王 |
1月14日 | 崇道天皇の為に淡路国に寺を建立。桓武天皇、皇太子安殿親王に遺詔。 | ||||
2月 6日 | 霊安寺に一小倉を建て井上内親王の霊を慰撫。 | ||||
3月23日 | 氷上川継の罪を免じる。 | ||||
4月 5日 | 崇道天皇の為に小倉を建てる。 | ||||
7月 1日 | 遣唐大使藤原葛野麻呂、節刀を返還。 | ||||
7月27日 | 唐国の物品を崇道天皇陵に献上。 | ||||
10月19日 | 坂上田村麻呂、清水寺を建立。 | ||||
10月25日 | 崇道天皇の為に一切経を書写。 | ||||
11月12日 | 壱志濃王没(73)。 | ||||
*この年、最澄が唐より持ち帰った茶を近江坂本に植えたと伝えられる。 *この年、葛原親王、最澄から鎮将夜叉秘法を伝授。 | |||||
延暦25年 大同 元年 | 806 | 1月 1日 | 桓武天皇不予。 | 桓武天皇 平城天皇 | (右)神王 (〜806.4) (右)藤原内麻呂 (806.5〜) |
3月16日 | 五百枝王(桓武天皇甥。種継暗殺事件に関与)・氷上川継を本位に復す。 | ||||
3月17日 | 藤原種継暗殺事件に連坐の者に恩赦。故大伴家持ら数名復位。崇道天皇の為に諸国の国分寺で春秋に七日間の金剛般若経の読経を命じる。 桓武天皇崩御(70)。皇太子安殿親王践祚。伊勢斎王布施内親王、退下。 | ||||
3月29日 | 伊勢斎王布施内親王帰京の為、頓宮を造営。 | ||||
4月15日 | 伊勢斎王布施内親王、帰京。 | ||||
4月24日 | 右大臣神王没(70)。 | ||||
5月18日 | 改元(大同元年)。 | ||||
5月19日 | 桓武天皇皇子賀美能親王立太子。(母:皇后藤原乙牟漏、平城天皇同母弟) | ||||
5月24日 | 故藤原帯子に皇后位を贈る。 | ||||
閏6月16日 | 勘解由使廃止。 | ||||
8月22日 | 空海・橘逸勢が唐より帰国。 | ||||
11月13日 | 平城天皇皇女大原内親王、伊勢斎王に卜定。(母:伊勢継子) | ||||
*この年、空海が唐より持ち帰った茶を長崎に播いたと伝えられる。 | |||||
大同 2年 | 807 | 2月13日 | 『古語拾遺』成立。 | 平城天皇 | (右)藤原内麻呂 |
4月16日 | 参議廃止。観察使を設置。 | ||||
4月22日 | 近衛府を左近衛府に、中衛府を右近衛府に改める。 | ||||
4月29日 | 空海、帰国。大宰府は観世音寺に滞在させる。 | ||||
5月13日 | 聖武天皇の国忌を廃する。 | ||||
5月16日 | 諸国の采女の献上を廃止。 | ||||
8月15日 | 十五条憲法を下す。 | ||||
10月27日 | 藤原宗成、伊予親王に謀反を勧める。伊予親王、平城天皇に上奏、謀叛が発覚。 | ||||
10月29日 | 謀叛に関わりありとして伊予親王逮捕。 | ||||
11月 2日 | 伊予親王と母・藤原吉子、大和国川原寺に幽閉。母子は飲食を断つ。 | ||||
11月12日 | 伊予親王と母・藤原吉子、大和国川原寺で自害。 | ||||
11月13日 | 藤原宗成ら、流罪。 | ||||
大同 3年 | 808 | 1月13日 | 京中の疫病による死者を埋葬。 | 平城天皇 | (右)藤原内麻呂 |
2月 4日 | 紀伝博士設置。 | ||||
6月 3日 | 藤原乙叡没(48)。 | ||||
7月22日 | 左右衛門府を廃止。左右衛士府に合併。 | ||||
9月 4日 | 斎王大原内親王、伊勢郡行。 | ||||
大同 4年 | 809 | 1月 2日 | 正四位下藤原薬子を従三位に叙す。(父:藤原種継。平城天皇寵妃) | 平城天皇 嵯峨天皇 | (右)藤原内麻呂 |
2月26日 | 平城天皇不予。 | ||||
4月 1日 | 平城天皇譲位。伊勢斎王大原内親王、退下。 | ||||
4月13日 | 賀美能親王受禅、即位。(嵯峨天皇) | ||||
4月14日 | 平城上皇子高岳親王立太子。(母:伊勢継子) | ||||
4月28日 | 平城上皇不予。七日間殺生を禁じる。 | ||||
5月 7日 | 桓武天皇皇女高志内親王没(21)。(平城・嵯峨天皇同母妹。大伴親王妃) | ||||
6月10日 | 伊勢斎王大原内親王帰京の為、摂津国に頓宮を造営。 | ||||
7月 3日 | 旱天の為、井上内親王の吉野山陵を掃除読経。 | ||||
8月11日 | 嵯峨天皇皇女仁子内親王、伊勢斎王に卜定。(母:大原浄子) | ||||
9月 2日 | 嵯峨天皇の諱にふれる事から伊予国神野郡を新居郡と改名。 | ||||
10月 1日 | 渤海使朝貢。 | ||||
12月 4日 | 平城上皇、平城前京に向かう。 | ||||
12月20日 | 摂津・伊賀・近江・紀伊・阿波の米を平城宮造営にあてる。 | ||||
12月27日 | 平城宮造営の為、畿内諸国から役夫二千五百人を雇う。 | ||||
大同 5年 弘仁 元年 | 810 | 1月 1日 | 嵯峨天皇不予。廃朝。 | 嵯峨天皇 | (右)藤原内麻呂 |
3月10日 | 蔵人所設置。 | ||||
6月28日 | 観察使を廃止。参議復活。 | ||||
7月27日 | 崇道天皇・伊予親王・藤原吉子追福の為、各々百人・十人・二十人の度者を定める。 | ||||
9月 6日 | 平城上皇、平城遷都を表明。嵯峨天皇、藤原冬嗣らを造平城宮使に任じる。 | ||||
9月10日 | 宮中戒厳。三関を警備。尚侍藤原薬子、解任追放。藤原仲成逮捕。 | ||||
9月11日 | 藤原仲成、射殺。平城上皇、藤原薬子を伴い東国に向かうも天皇軍に阻まれる。 | ||||
9月12日 | 平城上皇剃髪。藤原薬子自害。薬子の変 | ||||
9月13日 | 皇太子高岳親王廃される。桓武天皇皇子大伴親王立太子。(母:夫人藤原旅子) | ||||
9月19日 | 改元(弘仁)。阿保親王、太宰権帥に任じられる。(薬子の変に連坐した上での左遷) | ||||
12月18日 | 僧七口を遣わし、井上内親王吉野山陵に読経。 | ||||
*この年、賀茂斎院が置かれる。 | |||||
弘仁 2年 | 811 | 4月23日 | 藤原雄友没(59)。 | 嵯峨天皇 | (右)藤原内麻呂 |
5月23日 | 坂上田村麻呂没(54)。 | ||||
9月 4日 | 伊勢斎王仁子内親王、伊勢郡行。 | ||||
10月13日 | 文室綿麻呂、蝦夷征討の件を奏上。 | ||||
11月28日 | 左右衛士府を左右衛門府と改名。 | ||||
12月28日 | 大宰府より新羅船が対馬に接近の知らせを受け、沿海諸国に警備を命じる。 | ||||
弘仁 3年 | 812 | 2月12日 | 嵯峨天皇、神泉苑に行幸。花宴を催す。 | 嵯峨天皇 | (右)藤原内麻呂 (〜812.10) (右)藤原園人 (812.12〜) |
2月21日 | 采女司を復す。 | ||||
10月 6日 | 右大臣藤原内麻呂没(57)。 | ||||
11月15日 | 空海、高雄山寺にて灌頂を行う。 | ||||
弘仁 4年 | 813 | 2月16日 | 嵯峨天皇、交野遊猟。山埼駅を行宮とする。 | 嵯峨天皇 | (右)藤原園人 |
3月18日 | 新羅人百十人、肥前国小近島を来襲。 | ||||
9月29日 | 対馬島に新羅訳語を一人設置。 | ||||
*この年、藤原冬嗣、興福寺南円堂を建立。 | |||||
弘仁 5年 | 814 | 5月 8日 | 嵯峨天皇の子女に源姓を賜う。(賜姓嵯峨源氏) | 嵯峨天皇 | (右)藤原園人 |
6月 1日 | 「新撰姓氏録」撰進。 | ||||
閏7月27日 | 嵯峨天皇、嵯峨院に行幸。 | ||||
9月30日 | 渤海使朝貢。 | ||||
*この年、出雲国に俘囚の乱(荒橿の乱)が勃発。 *この頃『凌雲集』が出来る。 | |||||
弘仁 6年 | 815 | 1月30日 | 対馬島に新羅訳語を設置。 | 嵯峨天皇 | (右)藤原園人 |
6月 3日 | 畿内・近江・丹波・播磨諸国での茶樹の栽培と献上を命じる。 | ||||
7月13日 | 嵯峨天皇夫人橘嘉智子立后。 | ||||
7月25日 | 国司の任期を4年と改める。水害の為、京畿内のこの年の田租を免除。 | ||||
10月25日 | 服色・乗車の制を定める。 | ||||
弘仁 7年 | 816 | 2月---− | 左衛門尉興世書主に検非違使の役を兼任させる。(検非違使の初見) | 嵯峨天皇 | (右)藤原園人 |
8月16日 | 大嵐の為、羅城門が倒壊。 | ||||
8月24日 | 嵯峨天皇、冷然院に行幸。 | ||||
弘仁 8年 | 817 | 2月21日 | 桓武天皇皇女無品甘南備内親王没(18)。(母:藤原東子、平城天皇妃、藤原薬子姪) | 嵯峨天皇 | (右)藤原園人 |
4月25日 | 桓武天皇皇女朝原内親王没(39)。(母:妃酒人内親王、第23代伊勢斎王、平城天皇妃) | ||||
9月16日 | 藤原縄主没(58)。 | ||||
弘仁 9年 | 818 | 3月23日 | 朝会の礼・常服などを唐法に准じる事と定める。 | 嵯峨天皇 | (右)藤原園人 (〜818.11.5) |
3月27日 | 光仁天皇皇女酒人内親王、娘・朝原内親王の遺訣により東大寺へ大般若経を、美濃国厚見荘などに遺愛の品を添えて施入。 | ||||
4月27日 | 宮中宮閣・諸門の名称を唐風に改める。 | ||||
5月22日 | 賀茂斎院司を設置。嵯峨天皇皇女有智子内親王、賀茂斎王に卜定。(母:交野女王) | ||||
12月19日 | 右大臣藤原園人没(63)。 | ||||
弘仁10年 | 819 | 3月21日 | 故伊予親王・藤原吉子を本位に復す。 | 嵯峨天皇 | (欠官) |
5月 3日 | 空海、紀伊国高野山に金剛峯寺を建立。 | ||||
6月16日 | 唐人周光翰、唐国の騒乱を報じる。 | ||||
7月17日 | 伊勢大神宮と井上内親王吉野山陵に祈雨奉幣。 | ||||
7月20日 | 白竜出現。暴風雨。 | ||||
11月20日 | 渤海使朝貢。 | ||||
*この年の春〜夏に旱天。被害が出る。 | |||||
弘仁11年 | 820 | 2月14日 | 遠江・駿河両国に移住していた新羅人七百人余りが叛乱。相模・武蔵などの七国が追討にあたる。 | 嵯峨天皇 | (欠官) |
4月21日 | 弘仁格を施行。 | ||||
11月11日 | 文章生選抜制度を改める。三位以上の貴族の子弟を採用する事と定める。 |
HOME > 王城 > 王城年代記> 長岡京(784〜793)> 平安京前期[2](821〜840) |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |