このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
〜王城年代記・長岡京〜
元号 | 西暦 | 日 | 出来事 | 当帝 | 大臣 |
延暦 3年 | 784 | 2月 ---- | 大伴家持、持節征東将軍に任じられる。 | 桓武天皇 | (右)藤原是公 |
5月16日 | 遷都の為、藤原小黒麻呂らが山背国乙訓郡長岡村を視察。 | ||||
6月10日 | 藤原種継、造長岡宮使に任じられる。長岡京の建設が始まる。 | ||||
6月13日 | 遷都の旨、賀茂社に報告。 | ||||
10月28日 | 桓武天皇皇后藤原乙牟漏の生母・阿倍古美奈没。 | ||||
11月11日 | 長岡京遷都 | ||||
11月24日 | 光仁天皇皇太夫人高野新笠、長岡京に移る。 | ||||
延暦 4年 | 785 | 5月 3日 | 桓武天皇の外祖父・紀諸人に正一位・太政大臣を、祖母である道氏に太皇大夫人を贈る。 | 桓武天皇 | (右)藤原是公 |
7月17日 | 淡海三船没(64)。 | ||||
*この月、最澄、比叡山に草庵をかまえる | |||||
8月24日 | 桓武天皇皇女伊勢斎王朝原内親王(母:酒人内親王)の伊勢下向の為、桓武天皇平城前京に行幸。 | ||||
8月28日 | 大伴家持没(68)。 | ||||
9月 7日 | 伊勢斎王朝原内親王、伊勢郡行。百官陪従、大和国境・伊賀国境に送る。 | ||||
9月 8日 | 桓武天皇、水雄岡に行幸。遊猟。 | ||||
9月23日 | 造長岡宮使藤原種継、二本の矢に射ぬかれる。 | ||||
9月24日 | 藤原種継没(49)。桓武天皇、平城前京より還御。大伴継人・竹良並びに数十人を捕らえる。 | ||||
9月28日 | 藤原種継暗殺事件に関与していたとして、早良親王、長岡京今里の乙訓寺に幽閉。皇太弟を廃される。 | ||||
10月---- | 飲食を断ち、淡路配流途上の山崎高瀬橋のほとりにて早良親王没(36)。 | ||||
10月17日 | 早良親王を淡路国多賀へ葬る。(一説に7日とも) | ||||
11月25日 | 桓武天皇皇子安殿親王立太子。(母:皇后藤原乙牟漏) | ||||
延暦 5年 | 786 | 1月17日 | 従三位藤原旅子を夫人とする。 | 桓武天皇 | (右)藤原是公 |
4月11日 | 佐伯今毛人、大宰帥に任じられる。 | ||||
6月29日 | 桓武天皇夫人藤原旅子の生母・藤原諸姉没。(父:藤原良継) | ||||
10月28日 | 光仁天皇を大和国田原陵に改葬。 | ||||
*この年、桓武天皇皇子賀美能親王(母:皇后藤原乙牟漏。後の嵯峨天皇)、大伴親王(母:夫人藤原旅子、後の淳和天皇)誕生。 | |||||
延暦 6年 | 787 | 2月 5日 | 光仁天皇皇子諸勝(母:県犬養勇耳)に広根朝臣の氏姓を、桓武天皇皇子岡成(母:多治比豊継)に長岡朝臣の氏姓を与える。 | 桓武天皇 | (右)藤原是公 |
5月 6日 | 安殿親王に帯剣。(加冠前という異例の出来事) | ||||
10月17日 | 桓武天皇、鷹狩の為に摂津国交野に行幸。藤原継縄の別業を行宮とする。(〜20日) | ||||
延暦 7年 | 788 | 1月15日 | 安殿親王加冠。 | 桓武天皇 | (右)藤原是公 |
5月 4日 | 桓武天皇夫人藤原旅子没(30)、贈正一位・妃位を贈る。(父:藤原百川、淳和天皇生母) | ||||
*この年、最澄が一乗止観院(現・比叡山寺根本中堂)を創建。 | |||||
延暦 8年 | 789 | 1月 1日 | 日蝕。 | 桓武天皇 | (右)藤原是公 (〜789.9) |
3月16日 | 造東大寺司を廃する。 | ||||
6月 3日 | 大墓公阿弖流為、蝦夷政討軍を破る。 | ||||
9月 8日 | 征東大将軍紀古佐美、陸奥国から帰京し節刀を返還。 | ||||
9月19日 | 征東大将軍の敗戦の責任をただして処罰。右大臣藤原是公没(63)。 | ||||
12月28日 | 光仁天皇皇太夫人生母高野新笠没。(桓武天皇・崇道天皇生母) | ||||
延暦 9年 | 790 | 1月15日 | 光仁天皇皇太夫人高野新笠を大枝陵に埋葬。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 (790.2〜) |
2月18日 | 大宰員外帥藤原浜成没(67)。 | ||||
閏3月 4日 | 蝦夷征討に備え東海・東山両道に3年を限りとして革甲を二千領作らせる。 | ||||
閏3月10日 | 桓武天皇皇后藤原乙牟漏没(31)。(父:藤原良継、平城天皇・嵯峨天皇生母) | ||||
閏3月16日 | 大赦。早良親王に親王号を復する。 | ||||
閏3月28日 | 皇后藤原乙牟漏を長岡山陵に埋葬。(高畠陵) | ||||
4月29日 | 飢饉の為、上野・遠江・三河・美濃・近江、また和泉・紀伊・丹後・淡路・伯耆・播磨・備前・美作・備中に賑給。 | ||||
7月21日 | 桓武天皇妃坂上又子没。(父:坂上苅田麻呂) | ||||
8月 1日 | 飢餓により大宰府管内の領民8万8千人に賑恤。 | ||||
9月 1日 | 安殿親王不予の為、京の七寺で誦経。 | ||||
10月 3日 | 佐伯今毛人没(72)。 | ||||
11月27日 | 旱魃と疫病流行の為坂東諸国からの今年の田租を免除。 | ||||
12月 1日 | 桓武天皇の外祖父高野乙継と土師真妹に正一位を贈り、土師氏を大枝朝臣と改める。 | ||||
*この年秋冬、京畿内に豌豆瘡流行。 | |||||
延暦10年 | 791 | 1月18日 | 蝦夷征討の為、百済王俊哲・坂上田村麻呂に東海・東山両道の武具・兵士を検閲させる。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 |
3月 6日 | 刪定律令二十四条を施行。 | ||||
4月27日 | 桓武天皇、弾正尹神王第に行幸。神王の娘・前斎王浄庭女王を従五位に叙す。 | ||||
5月12日 | 飢饉の為、紀伊・豊後・日向・大隈に賑給。 | ||||
7月13日 | 大伴弟麻呂を征東大使に坂上田村麻呂を副使に任じる。 | ||||
8月 3日 | 伊勢神宮に盗賊が侵入。正殿・財殿などを焼失。 | ||||
8月14日 | 伊勢神宮に奉幣。使いを遣わし、修繕。 | ||||
9月17日 | 越前・丹波・播磨・阿波他の諸国に平城宮の諸門を長岡宮に移築させる。 | ||||
10月10日 | 桓武天皇、交野行幸。右大臣藤原継縄別荘を行宮とする。(〜13日) | ||||
10月27日 | 安殿親王、病平癒の為伊勢神宮に下向。 | ||||
11月11日 | 安殿親王、還御。 | ||||
延暦11年 | 792 | 1月11日 | 陸奥国斯波の蝦夷胆沢公阿奴志己ら帰順。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 |
2月15日 | 桓武天皇皇子伊予親王加冠。(母:夫人藤原吉子) | ||||
6月 7日 | 陸奥・出羽・佐渡・大宰府管内諸国を除き、全国の兵士を廃止。 | ||||
6月10日 | 安殿親王不予。卜占により早良親王の祟りと出る。勅使を淡路国に派遣し、その霊に奉謝する。 | ||||
6月14日 | 諸国に健児を置く。 | ||||
6月17日 | 故早良親王の墓に堀を巡らす。 | ||||
6月22日 | 洪水の為、式部省南門倒壊。 | ||||
7月25日 | 蝦夷爾散南公阿破蘇、帰順。 | ||||
8月 9日 | 大雨洪水。 | ||||
8月11日 | 洪水視察の為、桓武天皇赤目崎に行幸。 | ||||
閏11月 1日 | 新弾例八十三条を施行。 | ||||
延暦12年 | 793 | 1月15日 | 遷都の為、藤原小黒麻呂らが山背国葛野郡宇太村を視察。 | 桓武天皇 | (右)藤原継縄 |
2月 2日 | 遷都の旨を賀茂社に報告。 | ||||
2月17日 | 征東使を征夷使とする。 | ||||
3月 1日 | 天皇、葛野に行幸し新京を視察。 | ||||
3月 9日 | 摂津職を摂津国に改める。 | ||||
3月10日 | 遷都の旨を伊勢神宮に報告。 | ||||
3月15日 | 五位以上・諸司主典以上に新京の宮城を築かせる。 | ||||
6月23日 | 諸国に新京の門を造らせる。 | ||||
9月 2日 | 菅原真道らに新京の宅地を班給させる。 | ||||
9月10日 | 藤原氏に限り二世以下の王・王女との婚姻を許す。 |
HOME > 王城 >王城年代記> 平城京[3](770〜783)> 平安京前期[1](784〜820) |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |