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〜王城年代記・平安京前期[3]〜
元号 | 西暦 | 日 | 出来事 | 当帝 | 大臣 |
承和 8年 | 841 | 7月 6日 | 左兵衛府駕輿町で火災。 | 仁明天皇 | (左)藤原緒嗣 (右)源常 |
7月15日 | 伊勢国・尾張国の正税をもって斎内親王の離宮を造営。 | ||||
8月19日 | 大宰府の曽・百四人を対馬島の防人とする。 | ||||
8月21日 | 長門国関司らによる京と大宰府間の公文書等の閲見を禁じる。 | ||||
9月 1日 | 洪水の為、京中の民家及び橋梁が流失。 | ||||
12月19日 | 藤原緒嗣ら、「日本後紀」撰上。 | ||||
承和 9年 | 842 | 3月27日 | 渤海使賀福延らが入京。 | 仁明天皇 | (左)藤原緒嗣 (右)源常 |
7月15日 | 嵯峨上皇崩御(57)。(父:桓武天皇、母:皇后藤原乙牟漏、同母兄:平城天皇) | ||||
7月17日 | 伴健岑・橘逸勢らの謀叛が発覚し逮捕。承和の変 | ||||
7月23日 | 恒貞親王廃太子。藤原愛発・藤原吉野らを処罰。 | ||||
7月28日 | 伴健岑を隠岐国に、橘逸勢を伊豆国に流罪。 | ||||
8月 4日 | 仁明天皇皇子道康親王立太子。(母:女御藤原順子) | ||||
8月13日 | 橘逸勢、伊豆国配流の途上の遠江国板築駅で没。 | ||||
8月15日 | 大宰大弐藤原衛の起請により、新羅人の入国を禁じる。 | ||||
10月17日 | 菅原清公没(73) | ||||
10月22日 | 平城天皇皇子阿保親王没(51)。(母:葛井藤子、在原行平・業平の父) | ||||
12月 5日 | 淳和天皇皇太后正子内親王出家。 | ||||
承和10年 | 843 | 3月 2日 | 文室秋津没(57)。 | 仁明天皇 | (左)藤原緒嗣 (〜843.1) (右)源常 |
3月25日 | 義倉を開き、左右悲田院の病人・貧窮者に賑給。 | ||||
6月25日 | 飢饉の為、陸奥・安房・上総・下総・武蔵・三河・尾張・上野・伊賀・近江・越前・加賀・丹後・因幡・伯耆・出雲・周防・伊予諸国に賑給。 | ||||
7月23日 | 左大臣藤原緒嗣没(70)。 | ||||
9月16日 | 藤原愛発没(57)。 | ||||
9月29日 | 飢饉の為、豊後・肥前・薩摩・壱岐・対馬諸国に賑給。 | ||||
12月20日 | 弾正台・左右京職の巡察の折の下馬の法を定める。 | ||||
12月22日 | 文室宮田麻呂、謀叛。 | ||||
12月29日 | 文室宮田麻呂、伊豆国に流罪。 | ||||
承和11年 | 844 | 4月30日 | 滋野貞主、居宅を西寺に施入。慈恩寺と号す。 | 仁明天皇 | (左)源常 (844.7〜) (右)源常 (〜844.7) (右)橘氏公 (844.7〜) |
閏7月 7日 | 仁寿殿で林邑樂を催す。 | ||||
11月 4日 | 王臣家人・百姓らが鴨川を汚す事を禁じる。 | ||||
承和12年 | 845 | 1月 8日 | 尾張連浜主(113)、大極殿前において和風長寿楽を舞う。 | 仁明天皇 | (左)源常 (右)橘氏公 |
2月16日 | 仁明天皇皇子時康親王・人康親王元服。 | ||||
5月 9日 | 山城国綴喜郡と相楽郡で虻被害。牛馬に害をなす為、神社に祈る。 | ||||
承和13年 | 846 | 3月 9日 | 畿内諸国に諸家の氏姓の出自と所在の皇胤を明らかにさせる。 | 仁明天皇 | (左)源常 (右)橘氏公 |
8月13日 | 藤原吉野没(61)。 | ||||
12月11日 | 西大寺講堂焼失。 | ||||
承和14年 | 847 | 5月18日 | 大雨の為、左右京の餓民に賑給。 | 仁明天皇 | (左)源常 (右)橘氏公 (〜847.12) |
10月 5日 | 故橘奈良麻呂に太政大臣正一位を追贈。 | ||||
10月26日 | 嵯峨天皇皇女有智子内親王没(41)。(母:交野女王、第1代賀茂斎王) | ||||
12月19日 | 右大臣橘氏公没(65)。 | ||||
*この年、桓武天皇皇子葛井親王が清水寺三重塔を建立。 *この頃、皇太后橘嘉智子・橘氏公らが学館院を創立。 | |||||
承和15年 嘉祥元年 | 848 | 1月10日 | 藤原良房、右大臣に任じられる。 | 仁明天皇 | (左)源常 (右)藤原良房 (848.1〜) |
2月10日 | 上総国俘囚丸子廻毛、叛乱。上総・下総・相模諸国はこれを討つ。 | ||||
6月13日 | 改元(嘉祥)。5月14日に大宰府より白亀が献上された事による | ||||
8月 5日 | 京畿大洪水。河陽橋・宇治橋が損傷し、茨田堤が流失。 | ||||
8月 8日 | 摂津国・河内国の洪水被害者に賑給。 | ||||
9月19日 | 長年大宝を鋳造。 | ||||
12月 4日 | 和気斉之、伊豆国に流罪。 | ||||
嘉祥 2年 | 849 | 3月26日 | 興福寺において仁明天皇の宝算四十を祝う。 | 仁明天皇 | (左)源常 (右)藤原良房 |
4月28日 | 渤海使王文矩ら入京。 | ||||
6月 1日 | 霧雨の為に京中の飢民に賑給。 | ||||
9月 7日 | 伊勢神宮に神宝を奉納。 | ||||
10月23日 | 太皇太后橘嘉智子、銭五十万を京中の飢民に賑給。 | ||||
閏12月10日 | 仁明天皇、京中巡幸。飢民に賑給。 | ||||
嘉祥 3年 | 850 | 1月26日 | 盗賊が横行し、左右京職・畿内諸国司に追捕を命じる。 | 仁明天皇 文徳天皇 | (左)源常 (右)藤原良房 |
3月 8日 | 左右京・畿内・近江・丹波諸国百寺に誦経させ、帝釈天を安置。 | ||||
3月21日 | 仁明天皇崩御(41)。皇太子道康親王践祚。 | ||||
3月25日 | 文徳天皇皇子惟仁親王誕生。(母:藤原明子) | ||||
3月28日 | 良岑宗貞(僧正遍照)出家。 | ||||
4月 2日 | 桓武天皇皇子葛井親王没(51)。(母:坂上春子) | ||||
4月17日 | 道康親王即位。(文徳天皇)。母・藤原順子、皇太夫人となる。 | ||||
5月 4日 | 嵯峨天皇太皇太后橘嘉智子没(65)。(父:橘清友、仁明天皇・淳和天皇皇后正子内親王生母、号:檀林皇后) | ||||
5月15日 | 故橘逸勢に正五位を追贈し、本郷に帰葬を許す。 | ||||
7月 9日 | 文徳天皇皇女晏子内親王(母:藤原列子)を伊勢斎王に、慧子内親王(母:藤原列子)を賀茂斎王に卜定。 | ||||
7月17日 | 故藤原冬嗣に太政大臣位を追贈。 | ||||
7月−--- | 洪水の為、山崎橋破損。 | ||||
9月 8日 | 摂津国淀川口において八十島祭を催す。(八十島祭=即位儀礼の1つ。これが初見) | ||||
10月15日 | 信濃国建御名方富命神と建御名方富命前八坂刀売命神に従三位を授ける。 | ||||
11月 6日 | 興世書主没(73)。 | ||||
11月25日 | 文徳天皇皇子惟仁親王立太子(9ヶ月)。(母:藤原明子) | ||||
嘉祥 4年 仁寿元年 | 851 | 1月27日 | 諸国の諸神に正六位上を授ける。 | 文徳天皇 | (左)源常 (右)藤原良房 |
2月13日 | 清涼殿を移し伏見嘉祥寺の堂とする。 | ||||
2月23日 | 仁明天皇皇子常康親王、父天皇を追慕し出家。(母:紀種子) | ||||
2月24日 | 仁明天皇女御藤原貞子出家。(父:藤原三守) | ||||
6月 5日 | 畿内諸国の水害被災者に賑給。 | ||||
8月15日 | 京中の水害被災者に賑給 | ||||
4月28日 | 改元(仁寿) | ||||
仁寿 2年 | 852 | 2月 8日 | 滋野貞主没(68) | 文徳天皇 | (左)源常 (右)藤原良房 |
4月19日 | 賀茂斎王慧子内親王、紫野斎院に入る。 | ||||
閏8月16日 | 京中の風害被災者に賑給。 | ||||
9月 7日 | 伊勢斎王晏子内親王、伊勢郡行。 | ||||
12月22日 | 小野篁没(51)。 | ||||
仁寿 3年 | 853 | 2月14日 | 文徳天皇、梨本院に移る。 | 文徳天皇 | (左)源常 (右)藤原良房 |
2月30日 | 文徳天皇、右大臣藤原良房第に行幸。花見。 | ||||
2月---− | *この月、疱瘡流行。 | ||||
4月18日 | 仁明天皇皇子成康親王、疱瘡の為没(17)。(母:女御藤原貞子) | ||||
4月25日 | 疱瘡流行の為、賀茂祭が中止。 | ||||
4月26日 | 疱瘡流行の為、調庸の未進を免じる。医薬を賑給。 | ||||
5月 4日 | 陸奥・常陸・上総・下総・相模・上野諸国において一切経を書写。 | ||||
5月13日 | 大宰府に観音寺・弥勒寺・管内国分寺において大般若経読経を命じる。 | ||||
5月22日 | 美濃国の疱瘡患者に二千百斛を賑給。 | ||||
5月25日 | 故橘逸勢に従四位下を追贈。 | ||||
6月 4日 | 桓武天皇皇子平葛原没(68)。(母:夫人多治比真宗、元名:葛原親王) | ||||
8月 1日 | 右京で火災。 | ||||
12月 8日 | 災害鎮静の為、諸国国分寺・国分尼寺において陰陽書法を行わせる。 | ||||
仁寿 4年 斉衡元年 | 854 | 2月13日 | 災疫退散を願い、大和国において灌頂経法を行う。 | 文徳天皇 | (左)源常 (〜854.6) (右)藤原良房 |
4月13日 | 文徳天皇、梨本院より冷然院に移る。 | ||||
4月26日 | 仁明天皇皇太夫人藤原明子が皇太后に、淳和天皇皇后正子内親王が太皇太后となる。 | ||||
4月28日 | 陸奥国で兵士が逃亡、叛乱。 | ||||
11月30日 | 改元(斉衡) | ||||
斉衡 2年 | 855 | 2月17日 | 右大臣藤原良房らに「続日本後紀」の撰修を命じる。 | 文徳天皇 | (右)藤原良房 |
5月23日 | 地震。東大寺大仏の頭が落ちる。 | ||||
9月28日 | 東大寺大仏を修繕。 | ||||
斉衡 3年 | 856 | 3月---− | 地震が相次いで起り、京中に被害続出。 | 文徳天皇 | (右)藤原良房 |
4月22日 | 五世王は非皇親とし、服色を諸臣の位階に准じるものと定める。 | ||||
5月 9日 | 疫災退散を願い、大極殿・冷然院・賀茂社・松尾社で大般若経を読経。 | ||||
7月 7日 | 藤原長良没(55)。 | ||||
8月 8日 | 安房国に黒灰が降る。 | ||||
11月 1日 | 近江国大津で火災。 | ||||
12月28日 | 美作国より白鹿が献上され、神泉苑に放つ。 | ||||
*この年、仙遊寺建立。(後の泉涌寺) | |||||
斉衡 4年 天安元年 | 857 | 1月17日 | 「開元大衍暦経」廃止。「五紀暦経」を採用。 | 文徳天皇 | (太政)藤原良房 (857.2〜) (左)源信 (857.2〜) (右)藤原良房 (〜857.2) (右)藤原良相 (857.2〜) |
2月19日 | 右大臣藤原良房、太政大臣に任じられる。 | ||||
2月21日 | 改元(天安) | ||||
2月28日 | 賀茂斎王慧子内親王を廃し、述子内親王(母:紀静子)を卜定。 | ||||
3月16日 | 京南に群盗を衛府・検非違使・馬寮に追捕させる。 | ||||
3月18日 | 平城前京の群盗を六衛府に追捕させる。 | ||||
4月23日 | 近江国の相坂(逢坂)関を復活。 | ||||
10月23日 | 故空海に大僧正位を贈る。 | ||||
10月23日 | 女賊徒が蔵殿に侵入、逮捕。 | ||||
12月 1日 | 文徳天皇皇子惟喬親王元服。(母:更衣紀静子) | ||||
*この年、雷雨・地震が頻発。 | |||||
天安 2年 | 858 | 5月 3日 | 侍従殿に漏水を置き、院外漏刻の誤りを正す。 | 文徳天皇 清和天皇 | (太政)藤原良房 (左)源信 (右)藤原良相 |
5月22日 | 大雨で洪水。冷然院浸水。 | ||||
5月29日 | 水害被災者に賑給。穀倉院の殻二千斛・民廩院の米五百斛・大膳職の塩二十五斛をこれにあてる。 | ||||
6月 7日 | 和泉国で地震。官舎六十余・民家三十家余を損傷。 | ||||
8月27日 | 文徳天皇崩御(32)。皇太子惟仁親王践祚。 | ||||
11月 7日 | 惟仁親王即位(清和天皇)。母・藤原明子、皇太夫人となる。 | ||||
11月25日 | 中宮職を改め皇太后宮職とする。 | ||||
12月 9日 | 十陵四墓を定める。 | ||||
天安 3年 貞観元年 | 859 | 2月11日 | 右大臣藤原良相、崇親院・延命院を建立。藤原一族の困窮者・病者を救済。 | 清和天皇 | (太政)藤原良房 (左)源信 (右)藤原良相 |
4月15日 | 改元(貞観) | ||||
4月28日 | 饒益神宝を鋳造。 | ||||
10月 5日 | 文徳天皇皇女恬子内親王(母:紀静子)を伊勢斎王に、儀子内親王を賀茂斎王(母:藤原明子)に卜定。 | ||||
11月19日 | 藤原高子、五節舞姫となり従五位下に叙せられる。(父:藤原長良) | ||||
貞観 2年 | 860 | 4月19日 | 国祈の為、諸国に仏頂尊勝陀羅尼を読経させる。 | 清和天皇 | (太政)藤原良房 (左)源信 (右)藤原良相 |
8月27日 | 神祇官西院斎戸神殿に賊徒侵入。 | ||||
10月21日 | 諸国の禁野での狩猟を禁止。 |
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