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〜 雪月花 戦国恋語り 信玄の娘 松姫 編 〜
〜 文紡ぎ 年積月 枝もとををに雪の降れれば 〜
登場人物
松姫[武田信玄の五女]、織田信忠(幼名:奇妙丸)[織田信長の嫡男](文だけの登場)、
菊姫[武田信玄の四女]、
「あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば」
「万葉集 第十巻 二三一五番」より
作者:柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)歌集より
松姫と奇妙丸の縁談が調ってから、六十二の月になっている。
暦は十二月になっている。
季節は晩冬になる。
ここは、甲斐の国。
天気の良い時も寒さを感じる日が続く。
天気の悪い時は更に寒さを感じる日が続く。
ここは、菊姫と松姫が住む屋敷。
庭。
菊姫は微笑んで居る。
松姫は微笑んで居る。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「季節的に外に長く居ると寒いわね。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松の部屋で続きを話しても良いかしら?」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫を微笑んで見た。
菊姫は微笑んで居なくなった。
松姫も微笑んで居なくなった。
僅かに後の事。
ここは、菊姫と松姫が住む屋敷。
松姫の部屋。
菊姫は部屋の中に微笑んで入ってきた。
松姫は部屋の中に微笑んで入ってきた。
松姫は考えながらため息をついた。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松。部屋の外では常に笑顔で過ごしているものね。疲れるわよね。」
松姫は菊姫を考えながら見た。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松。無理をしないで。」
松姫は菊姫を微笑んで見た。
菊姫も松姫を微笑んで見た。
数日後の事。
ここは、菊姫と松姫が住む屋敷。
松姫の部屋。
松姫は考えながら居る。
菊姫は部屋の中に微笑んで入ってきた。
松姫は菊姫を考えながら見た。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松。疲れているの?」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「大丈夫です。」
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松の乳母の屋敷に出掛けたいの。私のみで行くと不思議に感じる人達がいると思うの。お松も一緒に行ってくれとる嬉しいわ。」
松姫は菊姫に不思議な様子で話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫を微笑んで見た。
暫く後の事。
ここは、一軒の屋敷。
一室。
菊姫は部屋の中に微笑んで入ってきた。
松姫は部屋の中に不思議な様子で入ってきた。
松姫は菊姫を不思議な様子で見た。
菊姫は懐から文を微笑んで差し出した。
松姫は菊姫と文を不思議な様子で見た。
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで囁いた。
「信忠様からお松宛ての文が届いたの。」
松姫は菊姫を驚いて見た。
菊姫は松姫に文を微笑んで渡した。
松姫は菊姫から文を驚いて受け取った。
菊姫は松姫に微笑んで囁いた。
「お松。落ち着いて。」
松姫は文を持ち、菊姫に微笑んで囁いた。
「はい。」
菊姫は松姫に微笑んで囁いた。
「お松。文を読みましょう。」
松姫は文を持ち、菊姫に微笑んで囁いた。
「はい。」
菊姫は松姫を微笑んで見た。
松姫は文を微笑んで丁寧に広げた。
菊姫は松姫を微笑んで見た。
松姫は文を持ち、文を微笑んで読んだ。
菊姫は松姫を見ながら、文を微笑んで読んだ。
大切な姫へ
あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば
春の気配の見えない日が続くね。
春の訪れる日はいつになるのだろうか。
時の流れに逆らってでも、春の訪れを早められるように、精進を積む。
体調に気を付けて過ごしてくれ。
奇妙より
松姫は文を持ち、菊姫を心配な様子で見た。
菊姫は松姫に考えながら囁いた。
「“あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば”。歌の意味は、“どこが山道なのか分かりません。白橿の枝もたわわになるほどに雪が降っているので。”、となるわね。」
松姫文を持ち、菊姫に心配な様子で囁いた。
「漠然とした内容ですが、何か遭った様子に感じます。」
菊姫は松姫に考えながら囁いた。
「確かに、漠然とした内容だけど、何か遭った様子に感じるわね。」
松姫は文を持ち、菊姫を心配な様子で見た。
菊姫は松姫に考えながら囁いた。
「文の内容から想像して話すわね。信忠様を信じて過ごせるだろうか、の内容を省略したように感じるの。何か遭ったけれど、文の返事を受け取れる可能性の内容も省略したように感じるの。」
松姫文を持ち、菊姫を心配な様子で見た。
菊姫は松姫に微笑んで囁いた。
「お松。文の返事を書く用意を頼んだの。時間が無いわ。文の返事を直ぐに書きなさい。短い文で返事を書きなさい。」
松姫は文を持ち、菊姫に微笑んで囁いた。
「はい。」
菊姫は松姫を微笑んで見た。
大切な方へ
あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば
春の気配の見えない日が続くように感じます。
大切な方を信じます。
春の訪れが早まると信じて待ちます。
体調に気を付けて過ごしてください。
姫より
幾日か後の事。
ここは、菊姫と松姫の住む屋敷。
松姫の部屋。
松姫は考えながら居る。
菊姫は部屋の中に心配な様子で入ってきた。
松姫は菊姫を心配な様子で見た。
菊姫は松姫に心配な様子で話し出す。
「織田家が徳川家に援軍を送った連絡が届いたわ。織田家が徳川家に送った援軍は、約三千らしいわ。織田家の送った援軍の中心人物が、信忠様らしいわ。」
松姫は菊姫を心配な様子で見た。
菊姫も松姫を心配な様子で見た。
松姫は菊姫に寂しく話し出す。
「武田家と織田家は、敵同士になってしまいました。」
菊姫は松姫に微笑んで囁いた。
「お松。父上を信じるの。信忠様も信じるの。お松は、辛さを感じて過ごす時があるとしても、寂しさを感じて過ごす時があってはならないの。」
松姫は菊姫を微笑んで見た。
菊姫も松姫を微笑んで見た。
「あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば」
松姫と織田信忠を取り巻く状況は、白橿の枝もたわわになるほどに雪が降っている状況になってしまった。
松姫と織田信忠を取り巻く状況は、何処が山道なのか分からない状況になってしまった。
松姫は織田信忠を信じて過ごす日が続く。
織田信忠も松姫を信じて過ごす日が続く。
松姫と織田信忠にとって、春の訪れる日は幾日後になるのか。
今を生きる者達の中に、答えの分かる人物は居ないかも知れない。
冬の季節は、様々な思惑と複雑な時の流れの中で、ゆっくりと過ぎていく。
* * * * * *
ここからは後書きになります。
この物語に登場する歌は「万葉集 第十巻 二三一五番」
「あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば」
ひらがなの読み方は「あしひきの やまぢもしらず しらかしの えだもとををに ゆきのふれれば」となるそうです。
作者は「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)歌集より」
原文は「足引 山道不知 白■(戈)■(可) 枝母等乎々尓 雪落者」
歌の意味は「どこが山道なのか分かりません。白橿(しらかし)の枝もたわわになるほどに雪が降っているので。」となるそうです。
「■」は文字変換で出来ない字のようです。
「あしひき」は「山」に掛かる枕詞です。
武田家についての補足です。
油川夫人は、元亀二年(1571年)(※月日は不明)に亡くなったそうです。
松姫と織田信忠の縁談が、破談なのか、続いているのか、分からなくなってしまった理由の一つに、「西上作戦(さいじょうさくせん)」があります。
西上作戦は、甲斐武田家が、元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)四月に掛けて行った遠征をいいます。
武田軍の関連についてです。
元亀三年(1572年)九月から十二月の動きです。
元亀三年九月二十九日(1572年11月4日)に、山県昌景の別働隊が三河に向けて、古府中を出陣します。
武田信玄が将軍の足利義昭の要請を受けて、三万近くの本隊を率いて上洛戦を開始するのは、元亀三年十月三日(1572年11月7日)です。
武田信玄の本隊が犬居城に着陣します。
武田信玄は、馬場信春に二俣城の攻撃に向かわせて、本隊は木原に着陣します。
後に、一言坂で、武田軍と徳川軍による「一言坂の戦い」が起きます。(武田軍が浜松城へ敗走中の徳川軍に追いついて、一言坂で起きた合戦)
十月の間に、武田軍は二俣城を包囲します。
元亀三年十一月十四日(1572年12月18日)に、秋山信友が、岩村城を攻略します。
二俣城は、最初は攻めあぐねていたそうですが、元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に戦法を変えたそうです。
元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に、二俣城を攻略します。
後の出来事になりますが、天正七年九月十五日(1579年10月5日)に、徳川家康の嫡男の徳川信康が二俣城で切腹して亡くなります。
元亀三年十二月二十二日(1573年1月25日)に、「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのかっせん)」(別称:三方ヶ原の合戦[みかたがはらのかっせん])が起こります。
「三方ヶ原」は、現在の静岡県浜松市に在ります。
「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康が武田信玄の上洛を阻止するため、徳川軍は一万一千の兵(内、織田信長からの援軍は、約三千、と伝わる)で、武田軍のおよそ2万5千の兵(他には、二万五千、二万七千、三万、などとの兵の人数が伝わっています。)に、戦いを挑みます。
状況から見ると、武田軍、対、徳川軍と織田軍の連合軍、との戦いになります。
戦闘時間は、約二時間と伝わっています。
結果は、徳川軍の大敗で終わったそうです。
「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康の唯一の敗戦と喩えられています。
「三方ヶ原の戦い」に関係する戦いになりますが、「犀ヶ崖の戦い」が伝わっています。
「犀ヶ崖の戦い」は、「三方ヶ原の戦い」の終わった日の夜に、徳川軍の大久保忠世と天野康景らが、一矢を報いようとして、三方ヶ原台地に在る「犀ヶ崖」で野営していた武田軍を奇襲した戦いをいいます。
奇襲の内容は、崖に白色の布を架けて橋と見せかけた、となります。
武田軍は、夜の時間と地理に疎い状況が合わさって、次々に崖下に落下したと伝わっています。
「犀ヶ崖の戦い」は、徳川関係の書物では見るそうですが、徳川関係以外の記録では見られないそうです。
徳川関係の書物には、幅100m近い崖に短時間で白色の布を渡したなどの記録があるそうです。
書物の内容から考えると時間や設定的に無理のある内容があるそうです。
犀ヶ崖の付近に碑があるそうなので、落下した人達がいるとは思いますが、大人数の兵士達が崖下に落下したのか分かりません。
白色の布が原因で崖下に落ちたのではなく、当日の夜に雪が降ったため崖下に落ちた、とする説があります。
伝説なのか、一部は真実なのか、詳細は分かりません。
ご了承ください。
織田家関連について簡単に説明します。
織田信忠(幼名“奇妙丸”)の母と伝わる生駒(いこま)家の吉乃(きつの)が亡くなったのは、永禄九年五月十三日(1566年5月31日)と伝わっています。
織田信忠(幼名“奇妙丸”)が元服するのは、元亀三年(1572年)と伝わっています。
織田信忠は、実弟の「茶筅丸(ちゃせんまる)(織田信雄[おだのぶかつ])」、実弟の「三七丸(神戸三七郎信孝[かんべさんしちろうのぶたか]、織田信孝[おだのぶたか])」、と共に元服したと伝わっています。
元亀三年(1572年)一月に元服した説があります。
織田信忠が元服時に改名した名前は「織田勘九郎信重(おだかんくろうのぶしげ)」です。
「織田信忠」と改名するのは後の出来事になりますが、名前が幾度も変わると分かり難くなるため、元服後の名前は「織田信忠」で統一します。
ご了承ください。
織田信忠の初陣は、元亀三年(1572年)と伝わっています。
織田信忠の「具足初め(ぐそくはじめ)の儀」が、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)に執り行われたと伝わっています。
織田信忠の初陣は、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)、または、直ぐ後の日付になるようです。
織田信忠の初陣の相手は「北近江」の「浅井家」の「浅井長政」です。
浅井長政の継室は、織田信長の妹の「お市の方」です。
織田信忠の初陣の相手は、父親(織田信長)の妹(お市の方)の嫁ぎ先になります。
浅井長政は、織田家との戦いの中で、元亀三年九月一日(1572年9月26日)に自害して亡くなります。
織田信忠にとって、初陣の次の大きな戦は、元亀三年(1572年)十二月頃の遠江の二俣城の戦いや三方ヶ原の戦いになります。
「年積月(としつみづき)」についてです。
「陰暦十二月の異称」です。
楽しんで頂けると嬉しいです。
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