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〜 雪月花 戦国恋語り 信玄の娘 松姫 編 〜


〜 文紡ぎ 大簇 一つ松 吹く風の音の清きは 〜


登場人物

松姫[武田信玄の五女]、織田信忠(幼名:奇妙丸)[織田信長の嫡男](文だけの登場)、

菊姫[武田信玄の四女]、



「一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも」

「万葉集 第六巻 一〇四二番」より

作者:市原王(いちはらのおほきみ)



松姫と奇妙丸の縁談が調ってから、六十三の月になっている。

暦は一月になっている。



季節は初春になる。



複雑に絡まる時の中で新しい年を迎えている。



松姫は、十三歳になっている。

織田信忠は、十七歳になっている。



ここは、甲斐の国。



一日をとおして寒い日が続く。

天気の良い日などは、寒さの中に僅かに暖かさを感じる気配を感じるようになった。



ここは、松姫と菊姫の住む屋敷。



松姫の部屋。



松姫は考えながら居る。



菊姫は部屋の中に微笑んで入ってきた。



松姫は菊姫を考えながら見た。

菊姫は松姫に微笑んで話し出す。

「お松。新しい年を迎えているのよ。慌しい時があるけれど、明るく過ごしましょう。」

松姫は菊姫を見ながら軽く息をはいた。

菊姫は松姫に微笑んで話し出す。

「お松。何を考えているの?」

松姫は菊姫に考えながら話し出す。

「三方ヶ原の戦いは、武田軍の大勝でした。織田家は信忠様が率いる軍を援軍で送りました。援軍を率いた信忠様の無事の噂を聞きました。」

菊姫は松姫に微笑んで話し出す。

「武田軍の大勝。信忠様は無事。お松にとっては、複雑だけど、良い出来事が起きていると思うわ。」

松姫は菊姫に考えながら話し出す。

「武田軍は浜名湖北岸の刑部で越年したそうですね。父上は大勝したのに、直ぐに侵攻しませんでした。父上に何か遭ったのでしょうか?」

菊姫は松姫を考えながら見た。

松姫は菊姫に考えながら話し出す。

「姉上。考える仕草になりました。」

菊姫は松姫を僅かに驚いて見た。

松姫は菊姫を考えながら見た。

菊姫は松姫に微笑んで話し出す。

「お松。父上を信じましょう。」

松姫は菊姫に微笑んで話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫の耳元で微笑んで囁いた。

「お松は信忠様も信じるのよ。」

松姫は菊姫の耳元で微笑んで囁いた。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。

松姫も菊姫を微笑んで見た。



数日後の事。



ここは、松姫と菊姫の住む屋敷。



菊姫の部屋。



菊姫は微笑んで居る。

松姫も微笑んで居る。



菊姫は松姫に微笑んで話し出す。

「父上は年が明けて数日後に侵攻を再開した連絡が届いたわね。」

松姫は菊姫に微笑んで話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。

松姫は菊姫に考えながら話し出す。

「戦が始まると不安です。今までと違う侵攻状況なので不安です。私達が不安になると、多くの者達が不安になります。姉上と私の二人のみの時だけ、複雑な気持ちを話せます。」

菊姫は松姫を微笑んで話し出す。

「私も、お松と二人のみの時だけ、複雑な気持ちを話せるわ。」

松姫は菊姫を微笑んで見た。

菊姫も松姫を微笑んで見た。



数日後の事。



ここは、松姫と菊姫の住む屋敷。



松姫の部屋。



松姫は普通に居る。



菊姫は部屋の中に微笑んで入ってきた。



松姫は菊姫を微笑んで見た。

菊姫は松姫の耳元で微笑んで囁いた。

「お松にとって良い知らせがあるの。」

松姫は菊姫を不思議な様子で見た。

菊姫は懐から紙を微笑んで取り出した。

松姫は菊姫を不思議な様子で見た。

菊姫は松姫に紙を渡すと、松姫に微笑んで囁いた。

「信忠様からの文よ。」

松姫は紙を持ち、菊姫を微笑んで見た。

菊姫は松姫の耳元で微笑んで囁いた。

「文の返事か言付けがあれば、直ぐに頼む手配になっているの。」

松姫は紙を持ち、菊姫に微笑んで囁いた。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。

松姫は紙を微笑んで広げた。

菊姫は松姫と紙を微笑んで見た。



大切な愛しい姫へ

新しい年になっているね。

私は無事に過ごしている。

今年のような新年を初めて迎えた。

新年と私の想いを繋げた歌を贈る。

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも

大切な愛しい姫に素敵な出来事が起きるように祈っている。

奇妙より



大切な愛しい君へ

新しい年になっていますね。

大切な愛しい君の無事が分かり安心しました。

私も無事に過ごしています。

歌の贈り物ありがとうございます。

大切な愛しい君と共に数多の姿の松を観たいです。

大切な愛しい君と共に数多の種類の素敵な音を聴きたいです。

大切な愛しい君と共に数多の日々を過ごしたいです。

体調に気を付けてお過ごしください。

姫より



数日後の事。



ここは、甲斐の国。



ここは、松姫と菊姫の住む屋敷。



菊姫の部屋。



菊姫は微笑んで居る。

松姫も微笑んで居る。



菊姫は松姫の耳元で微笑んで囁いた。

「“一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも”。お松の名前を直接的に文に書けないから、新年と松を繋げて、お松への想いを表現したのね。さすがだわ。」

松姫は菊姫に微笑んで囁いた。

「はい。」

菊姫は松姫に微笑んで話し出す。

「お松。良い一年になるように再び祈りに行きましょう。」

松姫は菊姫に微笑んで話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。



菊姫は部屋を微笑んで出て行った。

松姫も部屋を微笑んで出て行った。



「一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも」

複雑に絡まる時の中で、新しい年を迎えている。

複雑に絡まる時は、更に複雑に絡まる気配を漂わせている。

松姫と織田信忠は、複雑に絡まる時の中でも想いを繋げている。

菊姫、松姫、織田信忠は、良い一年になるように願いながら過ごしている。

菊姫、松姫、織田信忠は、複雑に絡まる時が早く解けて欲しいと願いながら過ごしている。




*      *      *      *      *      *




ここからは後書きになります。

この物語に登場する歌は「万葉集 第六巻 一〇四二番」

「一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも」

ひらがなの読み方は「ひとつまつ いくよかへぬる ふくかぜの おとのきよきは としふかみかも」

作者は「市原王(いちはらのおほきみ)」

原文は「一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞」

歌の意味は「松よ、きみはいったい何年経っているのですか。吹く風の音が清らかなのは、長い年月を経ているからなのかな。」となるそうです。

天平十六年一月五日(744年1月24日)に、安倍虫麻呂(あべのむしまろ)の邸宅で行われた宴席での歌です。

武田家についての補足です。

油川夫人は、元亀二年(1571年)(※月日は不明)に亡くなったそうです。

松姫と織田信忠の縁談が、破談なのか、続いているのか、分からなくなってしまった理由の一つに、「西上作戦(さいじょうさくせん)」があります。

西上作戦は、甲斐武田家が、元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)四月に掛けて行った遠征をいいます。

織田家が浅井家を攻めた頃は、武田家と浅井家は繋がっていて、織田信長の妹のお市の方が浅井長政に嫁いでいました。

武田軍の関連についてです。

元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)一月の動きです。

元亀三年九月二十九日(1572年11月4日)に、山県昌景の別働隊が三河に向けて、古府中を出陣します。

武田信玄が将軍の足利義昭の要請を受けて、三万近くの本隊を率いて上洛戦を開始するのは、元亀三年十月三日(1572年11月7日)です。

武田信玄の本隊が犬居城に着陣します。

武田信玄は、馬場信春に二俣城の攻撃に向かわせて、本隊は木原に着陣します。

後に、一言坂で、武田軍と徳川軍による「一言坂の戦い」が起きます。(武田軍が浜松城へ敗走中の徳川軍に追いついて、一言坂で起きた合戦)

十月の間に、武田軍は二俣城を包囲します。

元亀三年十一月十四日(1572年12月18日)に、秋山信友が、岩村城を攻略します。

二俣城は、最初は攻めあぐねていたそうですが、元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に戦法を変えたそうです。

元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に、二俣城を攻略します。

後の出来事になりますが、天正七年九月十五日(1579年10月5日)に、徳川家康の嫡男の徳川信康が二俣城で切腹して亡くなります。

元亀三年十二月二十二日(1573年1月25日)に、「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのかっせん)」(別称:三方ヶ原の合戦[みかたがはらのかっせん])が起こります。

「三方ヶ原」は、現在の静岡県浜松市に在ります。

「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康が武田信玄の上洛を阻止するため、徳川軍は一万一千の兵(内、織田信長からの援軍は、約三千、と伝わる)で、武田軍のおよそ2万5千の兵(他には、二万五千、二万七千、三万、などとの兵の人数が伝わっています。)に、戦いを挑みます。

状況から見ると、武田軍、対、徳川軍と織田軍の連合軍、との戦いになります。

戦闘時間は、約二時間と伝わっています。

結果は、徳川軍の大敗で終わったそうです。

「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康の唯一の敗戦と喩えられています。

「三方ヶ原の戦い」に関係する戦いになりますが、「犀ヶ崖の戦い」が伝わっています。

「犀ヶ崖の戦い」は、「三方ヶ原の戦い」の終わった日の夜に、徳川軍の大久保忠世と天野康景らが、一矢を報いようとして、三方ヶ原台地に在る「犀ヶ崖」で野営していた武田軍を奇襲した戦いをいいます。

奇襲の内容は、崖に白色の布を架けて橋と見せかけた、となります。

武田軍は、夜の時間と地理に疎い状況が合わさって、次々に崖下に落下したと伝わっています。

「犀ヶ崖の戦い」は、徳川関係の書物では見るそうですが、徳川関係以外の記録では見られないそうです。

徳川関係の書物には、幅100m近い崖に短時間で白色の布を渡したなどの記録があるそうです。

書物の内容から考えると時間や設定的に無理のある内容があるそうです。

犀ヶ崖の付近に碑があるそうなので、落下した人達がいるとは思いますが、大人数の兵士達が崖下に落下したのか分かりません。

白色の布が原因で崖下に落ちたのではなく、当日の夜に雪が降ったため崖下に落ちた、とする説があります。

伝説なのか、一部は真実なのか、詳細は分かりません。

ご了承ください。

武田信玄は「三方ヶ原の戦い」の勝利の後に直ぐに三河に信仰せずに、浜名湖北岸の刑部で越年しました。

元亀四年一月三日(1573年2月3日)、武田軍は進軍を再開しました。

三河への侵攻を開始しました。

東三河の要衝である野田城を包囲します。

野田城は小規模な城のため、兵は400人ほどだったそうです。

武田軍は、2万7000千人だったそうです。

織田家関連について簡単に説明します。

織田信忠(幼名“奇妙丸”)の母と伝わる生駒(いこま)家の吉乃(きつの)が亡くなったのは、永禄九年五月十三日(1566年5月31日)と伝わっています。

織田信忠(幼名“奇妙丸”)が元服するのは、元亀三年(1572年)と伝わっています。

織田信忠は、実弟の「茶筅丸(ちゃせんまる)(織田信雄[おだのぶかつ])」、実弟の「三七丸(神戸三七郎信孝[かんべさんしちろうのぶたか]、織田信孝[おだのぶたか])」、と共に元服したと伝わっています。

元亀三年(1572年)一月に元服した説があります。

織田信忠が元服時に改名した名前は「織田勘九郎信重(おだかんくろうのぶしげ)」です。

「織田信忠」と改名するのは後の出来事になりますが、名前が幾度も変わると分かり難くなるため、元服後の名前は「織田信忠」で統一します。

ご了承ください。

織田信忠の初陣は、元亀三年(1572年)と伝わっています。

織田信忠の「具足初め(ぐそくはじめ)の儀」が、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)に執り行われたと伝わっています。

織田信忠の初陣は、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)、または、直ぐ後の日付になるようです。

織田信忠の初陣の相手は「北近江」の「浅井家」の「浅井長政」です。

浅井長政の継室は、織田信長の妹の「お市の方」です。

織田信忠の初陣の相手は、父親(織田信長)の妹(お市の方)の嫁ぎ先になります。

浅井長政は、織田家との戦いの中で、元亀三年九月一日(1572年9月26日)に自害して亡くなります。

織田信忠にとって、初陣の次の大きな戦は、元亀三年(1572年)十二月頃の遠江の二俣城の戦いや三方ヶ原の戦いになります。

「大簇(たいそう)」についてです。

「太簇」とも書くそうです。

意味は二つあります。

一つは、「中国音楽の十二律の一。基音の黄鐘(こうしょう)より二律高い音。日本の十二律の平調(ひょうじょう)にあたる。」です。

一つは、「陰暦一月の異称」です。

楽しんで頂けると嬉しいです。





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