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〜 雪月花 戦国恋語り 信玄の娘 松姫 編 〜
〜 文紡ぎ 梅津早月 降る覆う雪 取れば 〜
登場人物
松姫[武田信玄の五女]、織田信忠(幼名:奇妙丸)[織田信長の嫡男](文だけの登場)、
武田信玄(文だけの登場)、菊姫[武田信玄の四女]、
「梅の花 降る覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ」
「万葉集 第十巻 一八三三番」より
作者:詠み人知らず
松姫と奇妙丸の縁談が調ってから、六十四の月になっている。
暦は二月になっている。
季節は仲春になる。
複雑に絡まる時の中での仲春になる。
ここは、甲斐の国。
梅の花が咲いている。
寒い日の続く中で、僅かだが暖かさの気配が現れ始めている。
ここは、菊姫と松姫の住む屋敷。
松姫の部屋。
松姫は考えながら居る。
菊姫は部屋を微笑んで訪ねた。
松姫は菊姫を考えながら見た。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松。考え事をしているの?」
松姫は菊姫に考えながら話し出す。
「父上の体調の悪い話。武田軍が攻めあぐねている報告。二つの内容を聞きました。父上の体調が悪いから、攻めあぐねているように考えてしまいます。」
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「武田軍が攻めている場所は、強い人物が護る場所、城主を信じて強い家臣が集まる領地、強固な造りの城、になるわ。父上を含める武田軍が強くて評判だとしても、簡単な戦いは出来ないわ。父上の体調が悪いとしても、父上と共に戦う一族も家臣も、強くて優秀な人物達よ。お松が考え込んだら、父上、家臣、一族、全員に失礼になるわ。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「姉上の話すとおりですね。」
菊姫は松姫に微笑んで頷いた。
松姫は菊姫を微笑んで見た。
菊姫は懐から文を微笑んで取り出した。
松姫は菊姫を不思議な様子で見た。
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで話し出す。
「父上から、私とお松に宛てた文が届いたの。文を一緒に読みましょう。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は文を広げると、文を微笑んで読んだ。
松姫は文を微笑んで読んだ。
お菊へ、そして、お松へ
お菊もお松も、元気に過ごしているかな。
私は元気に過ごしている。
安心してくれ。
お菊。
気遣いと気配りをしながらも、笑顔で過ごしていると思う。
笑顔も気遣いも気配りも忘れない気持ちは大事だが、落ち着いて過ごす気持ちも大事だ。
二つの気持ちを忘れないで欲しい。
無理をしないように過ごしてくれ。
お松。
複雑な想いの中で過ごしているだろう。
私は、お松の父であり、甲斐の国を治める立場でもある。
お松の父として、甲斐の国を治める人物として、お松の想いを幾度も考えている。
私は一人なのに、私の気持ちの中に、二つの気持ちが現れる。
二つの気持ちに共通する想いは、お松に逢う時に、お松が笑顔になる言葉を伝えたい、になる。
お菊とお松は、同じ母親から生まれた大切な姉妹だ。
お菊とお松は、信じ合って過ごしてくれ。
私も、お菊も、お松も、共に忙しい。
今回の文の返事は任せる。
父より
菊姫は文を持ち、松姫を微笑んで見た。
松姫は菊姫を見ると、菊姫に微笑んで話し出す。
「父上は、完璧な体調か分かりませんが、しっかりとした筆跡です。元気な様子に感じます。」
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで頷いた。
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「姉上。父上は忙しいです。父上に返事をして良いのか悩みます。」
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで頷いた。
松姫は菊姫を微笑んで見た。
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで囁いた。
「お松。父上からの伝言を預かったの。今回の父上の文を届けた人物より少し遅れて到着する人物に、信忠様への文を預けても良いそうよ。」
松姫は菊姫を不思議な様子で見た。
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで囁いた。
「お松は、父上に文を書く時に、信忠様への文も書きなさい。」
松姫は菊姫に微笑んで囁いた。
「はい。」
菊姫は文を持ち、松姫に微笑んで話し出す。
「お松。文を書く準備を始めましょう。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は文を持ち、松姫を微笑んで見た。
父上へ
文を読みました。
元気に過ごしている様子が分かりました。
安心しました。
私もお松も、父上を信じて、武田軍を信じて、安心して過ごしています。
父上は私やお松を心配せずに過ごしください。
父上が多くの勝利を収めて無事に戻る日を楽しみに待っています。
父上の笑顔が観られる日を楽しみに待っています。
長い文を書きたいですが、戦の迷惑になるため、短い文にします。
菊より
父上へ
文を読みました。
元気に過ごしていると分かり安心しました。
私は姉上と共にしっかりと過ごしています。
安心してお過ごしください。
父上。
お気遣いありがとうございます。
父上は強い人物です。
姉上も私も、甲斐の国で安心して過ごしています。
父上の笑顔が早く観たいです。
父上の笑顔が観られる日を楽しみに待っています。
長い文を書きたいですが、戦の迷惑になります。
今回は短い文にします。
松より
大切な君へ
元気にお過ごしでしょうか。
私は元気に過ごしています。
安心してお過ごしください。
私の住む場所に梅の花が咲いています。
梅の花を詠んだ歌を贈ります。
梅の花 降る覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ
大切な君の傍で過ごせる日を信じて待っています。
姫より
幾日か後の事。
ここは、菊姫と松姫の住む屋敷。
松姫の部屋の前に在る庭。
梅の花が咲いている。
松姫は梅の花を微笑んで見ている。
菊姫は微笑んで来た。
松姫は菊姫を微笑んで見た。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「梅の花を見ていたのね。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「武田軍が、甲州の金掘で働く人達を使って、攻めあぐねていた城の水脈を切った話を知っている?」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松。父上は大丈夫よ。父上を信じて過ごしましょう。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「お松。今は梅の花が咲いているわ。梅の花を詠んだ歌の勉強をしましょう。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「良い機会だから、今までに詠んだ梅の花の歌の復習もしましょう。」
松姫は菊姫を不思議な様子で見た。
菊姫は松姫に微笑んで話し出す。
「季節は春でも、外は寒いわ。お松の部屋で歌の勉強をしましょう。」
松姫は菊姫に微笑んで話し出す。
「はい。」
菊姫は松姫を微笑んで見た。
松姫も菊姫を微笑んで見た。
菊姫は微笑んで居なくなった。
松姫も微笑んで居なくなった。
大切な姫へ
私は元気に過ごしている。
安心してくれ。
梅の花 降る覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ
大切な姫が私に雪を見せたい時に、大切な姫の傍に居たい。
大切な姫の笑顔、梅の花、雪。
全てを一度に観られる日を信じて過ごしている。
体調に気を付けて過ごしてくれ。
奇妙より
「梅の花 降る覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ」
仲春。
梅の花の咲く頃。
松姫の想いと織田信忠の想いは、途切れずに紡いでいる。
松姫の想いと織田信忠の想いは、複雑に絡まる時の中で、先が分からなくなっている。
松姫と織田信忠は、梅の花に降り積もる雪を包んで見せようとした時に、雪が消えてしまわない場所で過ごしたいと願っている。
松姫の願いと織田信忠の願いは、複雑に絡まる時の中でも、繋がり続けると信じて過ごしている。
* * * * * *
ここからは後書きになります。
この物語に登場する歌は「万葉集 第十巻 一八三三番」
「梅の花 降る覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ」
作者は「詠み人知らず」
ひらがなの読み方は「うめのはな ふりおほふゆきを つつみもち きみにみせむと とればけにつつ」
歌の意味は「梅の花に降り積もる雪を、包んであなた様にお見せしようと手に取ってみれば、消えてしまいます。」となるそうです。
原文は「梅花 零覆雪乎 ■持 君令見跡 取者消管」
「■」は文字変換が出来ない字のようです。
武田家についての補足です。
油川夫人は、元亀二年(1571年)(※月日は不明)に亡くなったそうです。
松姫と織田信忠の縁談が、破談なのか、続いているのか、分からなくなってしまった理由の一つに、「西上作戦(さいじょうさくせん)」があります。
西上作戦は、甲斐武田家が、元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)四月に掛けて行った遠征をいいます。
武田軍の関連についてです。
元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)二月の動きです。
元亀三年九月二十九日(1572年11月4日)に、山県昌景の別働隊が三河に向けて、古府中を出陣します。
武田信玄が将軍の足利義昭の要請を受けて、三万近くの本隊を率いて上洛戦を開始するのは、元亀三年十月三日(1572年11月7日)です。
武田信玄の本隊が犬居城に着陣します。
武田信玄は、馬場信春に二俣城の攻撃に向かわせて、本隊は木原に着陣します。
後に、一言坂で、武田軍と徳川軍による「一言坂の戦い」が起きます。(武田軍が浜松城へ敗走中の徳川軍に追いついて、一言坂で起きた合戦)
十月の間に、武田軍は二俣城を包囲します。
元亀三年十一月十四日(1572年12月18日)に、秋山信友が、岩村城を攻略します。
二俣城は、最初は攻めあぐねていたそうですが、元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に戦法を変えたそうです。
元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に、二俣城を攻略します。
後の出来事になりますが、天正七年九月十五日(1579年10月5日)に、徳川家康の嫡男の徳川信康が二俣城で切腹して亡くなります。
元亀三年十二月二十二日(1573年1月25日)に、「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのかっせん)」(別称:三方ヶ原の合戦[みかたがはらのかっせん])が起こります。
「三方ヶ原」は、現在の静岡県浜松市に在ります。
「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康が武田信玄の上洛を阻止するため、徳川軍は一万一千の兵(内、織田信長からの援軍は、約三千、と伝わる)で、武田軍のおよそ2万5千の兵(他には、二万五千、二万七千、三万、などとの兵の人数が伝わっています。)に、戦いを挑みます。
状況から見ると、武田軍、対、徳川軍と織田軍の連合軍、との戦いになります。
戦闘時間は、約二時間と伝わっています。
結果は、徳川軍の大敗で終わったそうです。
「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康の唯一の敗戦と喩えられています。
「三方ヶ原の戦い」に関係する戦いになりますが、「犀ヶ崖の戦い」が伝わっています。
「犀ヶ崖の戦い」は、「三方ヶ原の戦い」の終わった日の夜に、徳川軍の大久保忠世と天野康景らが、一矢を報いようとして、三方ヶ原台地に在る「犀ヶ崖」で野営していた武田軍を奇襲した戦いをいいます。
奇襲の内容は、崖に白色の布を架けて橋と見せかけた、となります。
武田軍は、夜の時間と地理に疎い状況が合わさって、次々に崖下に落下したと伝わっています。
「犀ヶ崖の戦い」は、徳川関係の書物では見るそうですが、徳川関係以外の記録では見られないそうです。
徳川関係の書物には、幅100m近い崖に短時間で白色の布を渡したなどの記録があるそうです。
書物の内容から考えると時間や設定的に無理のある内容があるそうです。
犀ヶ崖の付近に碑があるそうなので、落下した人達がいるとは思いますが、大人数の兵士達が崖下に落下したのか分かりません。
白色の布が原因で崖下に落ちたのではなく、当日の夜に雪が降ったため崖下に落ちた、とする説があります。
伝説なのか、一部は真実なのか、詳細は分かりません。
ご了承ください。
武田信玄は「三方ヶ原の戦い」の勝利の後に直ぐに三河に信仰せずに、浜名湖北岸の刑部で越年しました。
元亀四年一月三日(1573年2月3日)、武田軍は進軍を再開しました。
三河への侵攻を開始しました。
東三河の要衝である野田城を包囲します。
野田城は小規模な城のため、兵は400人ほどだったそうです。
武田軍は、2万7000千人だったそうです。
野田城は小規模な城だったそうですが、備えが固くなかなか攻め込めなかったそうです。
武田信玄は甲州の金掘で働く人達を使って、水脈を切ったそうです。
そのため、野田城の水が枯れたそうです。
徳川家康の援軍が来ない事もあり、元亀四年二月十日(1573年3月13日)頃に、城を明け渡したそうです。
元亀四年(1573年)二月に、長篠城に入城します。
織田家関連について簡単に説明します。
織田信忠(幼名“奇妙丸”)が元服するのは、元亀三年(1572年)と伝わっています。
織田信忠は、実弟の「茶筅丸(ちゃせんまる)(織田信雄[おだのぶかつ])」、実弟の「三七丸(神戸三七郎信孝[かんべさんしちろうのぶたか]、織田信孝[おだのぶたか])」、と共に元服したと伝わっています。
元亀三年(1572年)一月に元服した説があります。
織田信忠が元服時に改名した名前は「織田勘九郎信重(おだかんくろうのぶしげ)」です。
「織田信忠」と改名するのは後の出来事になりますが、名前が幾度も変わると分かり難くなるため、元服後の名前は「織田信忠」で統一します。
ご了承ください。
織田信忠の初陣は、元亀三年(1572年)と伝わっています。
織田信忠の「具足初め(ぐそくはじめ)の儀」が、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)に執り行われたと伝わっています。
織田信忠の初陣は、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)、または、直ぐ後の日付になるようです。
織田信忠の初陣の相手は「北近江」の「浅井家」の「浅井長政」です。
浅井長政の継室は、織田信長の妹の「お市の方」です。
織田信忠の初陣の相手は、父親(織田信長)の妹(お市の方)の嫁ぎ先になります。
浅井長政は、織田家との戦いの中で、元亀三年九月一日(1572年9月26日)に自害して亡くなります。
織田信忠にとって、初陣の次の大きな戦は、元亀三年(1572年)十二月頃の遠江の二俣城の戦いや三方ヶ原の戦いになります。
「仲春(ちゅうしゅん)」についてです。
「(春の三ヶ月の真ん中の意味から)陰暦二月の異称」です。
春の季語です。
「梅津早月(うめつさつき)」についてです。
「陰暦二月の異称」です。
楽しんで頂けると嬉しいです。
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