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〜 雪月花 戦国恋語り 信玄の娘 松姫 編 〜


〜 文紡ぎ 陰月 思ひはやまず恋こそまされ 〜


登場人物

松姫[武田信玄の五女]、織田信忠(幼名:奇妙丸)[織田信長の嫡男](文だけの登場)、

武田信玄(文だけの登場)、菊姫[武田信玄の四女]、



「山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ」

「万葉集 第十九巻 四一八六番」より

作者:大伴家持(おおとものやかもち)



松姫と奇妙丸の縁談が調ってから、六十六の月になっている。

暦は四月になっている。



季節は初夏になる。



複雑に絡まる時の中での初夏になる。



ここは、甲斐の国。



過ごし易い日が続く。

初夏に見られる花がたくさん咲いている。



ここは、菊姫と松姫の住む屋敷。



松姫の部屋。



松姫は普通に居る。



菊姫は部屋を普通に訪れた。



菊姫は懐から文を考えながら取り出した。

松姫は菊姫を心配な様子で見た。

菊姫は文を持ち、松姫に考えながら小さい声で話し出す。

「父上が私とお松の合同に宛てた文なの。」

松姫は菊姫に心配な様子で小さい声で話し出す。

「姉上。何か遭ったのですか?」

菊姫は文を持ち、松姫に考えながら小さい声で話し出す。

「お松。父上から頂いた文を先に読みましょう。文を読んだ後に続きを話すわ。」

松姫は菊姫に心配な様子で小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は文を考えながら広げた。

松姫は菊姫と文心配な様子で見た。



お菊へ、そして、お松へ

元気で過ごしているだろうか。

父は無事に過ごしている。

お菊とお松に逢えない日が続く。

お菊とお松に逢いたい気持ちが募る。

お菊とお松は、たくさんの人達に支えられて生きている。

お菊とお松は、たくさんの人達の支えに報いる言動をしなければならない。

お菊もお松も、私の心配をせずに、しっかりと過ごしなさい。

父より



菊姫は文を丁寧にたたむと、文を机に丁寧に置いた。

松姫は菊姫を心配して見た。

菊姫は松姫に考えながら小さい声で話し出す。

「お松。父上が武田軍と共に甲斐の国に戻るらしいの。甲斐の国に戻る理由は、父上の体調が関係しているらしいの。」

松姫は菊姫に心配な様子で小さい声で話し出す。

「甲斐の国に戻る理由が本当ならば、父上の体調は相当に悪い状況になります。武田軍の侵攻が遅い理由は、父上の体調が原因だったのでしょうか?」

菊姫は松姫に考えながら小さい声で話し出す。

「父上から届いた文は、比較的に短い文章だけど、しっかりとした筆跡だわ。文の筆跡からは、父上の体調の判断が出来ないわ。」

松姫は菊姫に考えながら小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫を考えながら見た。

松姫は菊姫を心配な様子で見た。



数日後の事。



ここは、松姫の乳母の屋敷。



一室。



菊姫は微笑んで居る。

松姫は文を持ち、微笑んで居る。



菊姫は松姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「お松。信忠様からお松に宛てた文よ。私に遠慮せずに、文を読みなさい。」

松姫は文を持ち、菊姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。

松姫は文を丁寧に広げた。

菊姫は松姫と文を微笑んで見た。



大切な姫へ

元気に過ごしているだろうか。

私は元気に過ごしている。

昨日、山吹の花を観た。

山吹の花を観ながら、大切な姫を想像した。

山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ

私には作者の想いが分かる。

大切な姫に逢える日を楽しみに待っている。

大切な姫と共に山吹の花を観る日を楽しみに待っている。

奇妙より



松姫は文を持ち、菊姫を微笑んで見た。

菊姫は松姫を見ると、松姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「“山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ”。お松。歌の意味が分かる?」

松姫は文を持ち、菊姫に恥ずかしく小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「お松。照れないの。」

松姫は文を持ち、菊姫を恥ずかしく見た。

菊姫は松姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「念のために、私の考える歌の意味を話すわね。“山吹を庭に植えて、その花を見るたびに、思いが止むどころか、より恋心が増すばかりです。”。お松の考える歌の意味と合っている?」

松姫は文を持ち、菊姫に微笑んで話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「お松。信忠様に急いで文の返事を書く必要があるわ。照れるのも、幸せを感じるのも、依頼人に書いた文を預けた後よ。」

松姫は文を持ち、菊姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。
松姫は文を微笑んで丁寧にたたんだ。

菊姫は松姫を微笑んで見ている。

松姫は文を懐に微笑んで丁寧に仕舞った。

菊姫は文を書く準備を微笑んで始めた。

松姫も文を書く準備を微笑んで始めた。



大切な君へ

元気に過ごされているのですね。

私も元気に過ごしています。

山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ

素敵な歌ですね。

照れます。

大切な君が私に逢った時に落胆しないように努力します。

山吹の花のような女性になるために努力します。

大切な君に逢う日を楽しみに過ごします。

姫より



暫く後の事。



ここは、松姫の乳母の屋敷。



一室。



菊姫は微笑んで居る。

松姫は微笑んで居る。



菊姫は松姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「お松。信忠様に宛てた文は依頼人に預けたわ。屋敷に戻ると、嬉しさを表に出せないわ。今の内に、しっかりと喜びなさい。」

松姫は菊姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫に小さい声で微笑んで話し出す。

「“山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ”。相思相愛ね。羨ましいわ。」

松姫は菊姫を微笑んで見た。

菊姫は松姫に小さい声で微笑んで話し出す。

「信忠様と逢う日が楽しみね。」

松姫は菊姫に微笑んで小さい声で話し出す。

「はい。」

菊姫は松姫を微笑んで見た。

松姫も菊姫を微笑んで見た。



「山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ」

松姫と織田信忠は、諦めずに想いを紡いでいる。



数日後の事。



元亀四年四月十二日になっている。



山吹の花の見頃が、様々な場所で終わりを迎えている日になる。



武田信玄が甲斐の国に戻る途中で亡くなった。



武田家にとって、織田家にとって、後の運命に大きな影響を与える日になった。



松姫の想いと織田信忠の想いが、大きく動く時の中に巻き込まれようとしている。



人の生きる時間に様々な出来事は起きているが、初夏の時は以前と変わらずに過ぎていく。




*      *      *      *      *      *




ここからは後書きになります。

この物語に登場する歌は「万葉集 第十九巻 四一八六番」

「山吹を 宿に植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ」

ひらがなの読み方は「やまぶきを やどにうゑては みるごとに おもひはやまず こいこそまされ」

作者は「大伴家持(おおとものやかもち)」

歌の意味は「山吹を庭に植えて、その花を見るたびに、思いが止むどころか、より恋心が増すばかりです。」となるそうです。

原文は「山吹乎 屋戸尓殖弖波 見其等尓 念者不止 戀己曽益礼」

「山吹(やまぶき)」についてです。

バラ科の落葉低木です。

春の季語です。

現在の暦で、三月から五月頃に掛けて、鮮やかな黄色の花を咲かせます。

一重の山吹、八重山吹、菊咲き山吹、があります。

八重山吹は、一重の山吹より咲き始めが遅いです。

八重山吹には実が生りません。

武田家についての補足です。

油川夫人は、元亀二年(1571年)(※月日は不明)に亡くなったそうです。

松姫と織田信忠の縁談が、破談なのか、続いているのか、分からなくなってしまった理由の一つに、「西上作戦(さいじょうさくせん)」があります。

西上作戦は、甲斐武田家が、元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)四月に掛けて行った遠征をいいます。

武田軍の関連についてです。

元亀三年(1572年)九月から元亀四年(1573年)四月の動きです。

元亀三年九月二十九日(1572年11月4日)に、山県昌景の別働隊が三河に向けて、古府中を出陣します。

元亀三年十月三日(1572年11月7日)に、武田信玄が将軍の足利義昭の要請を受けて、三万近くの本隊を率いて上洛戦を開始します。

武田信玄の本隊が犬居城に着陣します。

武田信玄は、馬場信春に二俣城の攻撃に向かわせて、本隊は木原に着陣します。

後に、武田軍と徳川軍による「一言坂の戦い」が起きます。(武田軍が浜松城へ敗走中の徳川軍に追いついて、一言坂で起きた合戦)

十月の間に、武田軍は二俣城を包囲します。

元亀三年十一月十四日(1572年12月18日)に、秋山信友が岩村城を攻略します。

二俣城は、最初は攻めあぐねていたそうですが、元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に戦法を変えたそうです。

元亀三年十一月下旬から十二月中旬の頃に、二俣城を攻略します。

元亀三年十二月二十二日(1573年1月25日)に、「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのかっせん)」(別称:三方ヶ原の合戦[みかたがはらのかっせん])が起こります。

「三方ヶ原」は、現在の静岡県浜松市に在ります。

「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康が武田信玄の上洛を阻止するため、徳川軍は一万一千の兵(内、織田信長からの援軍は、約三千、と伝わる)で、武田軍のおよそ二万五千の兵(他には、二万五千、二万七千、三万、などの兵の人数が伝わっています。)に、戦いを挑みます。

状況から見ると、武田軍、対、徳川軍と織田軍の連合軍、の戦いになります。

戦闘時間は、約二時間と伝わっています。

結果は、徳川軍の大敗で終わったそうです。

「三方ヶ原の戦い」は、徳川家康の唯一の敗戦と喩えられています。

「三方ヶ原の戦い」に関係する戦いになりますが、「犀ヶ崖の戦い」が伝わっています。

「犀ヶ崖の戦い」は、「三方ヶ原の戦い」の終わった日の夜に、徳川軍の大久保忠世と天野康景らが、一矢を報いようとして、三方ヶ原台地に在る「犀ヶ崖」で野営していた武田軍を奇襲した戦いをいいます。

奇襲の内容は、崖に白色の布を架けて橋と見せかけた、となります。

武田軍は、夜の時間と地理に疎い状況が合わさって、次々に崖下に落下したと伝わっています。

「犀ヶ崖の戦い」は、徳川関係の書物では見るそうですが、徳川関係以外の記録では見られないそうです。

徳川関係の書物には、幅100m近い崖に短時間で白色の布を渡したなどの記録があるそうです。

書物の内容から考えると時間や設定的に無理のある内容があるそうです。

犀ヶ崖の付近に碑があるそうなので、落下した人達がいるとは思いますが、大人数の兵士達が崖下に落下したのか分かりません。

白色の布が原因で崖下に落ちたのではなく、当日の夜に雪が降ったため崖下に落ちた、とする説があります。

伝説なのか、一部は真実なのか、詳細は分かりません。

ご了承ください。

武田信玄は「三方ヶ原の戦い」の勝利の後に直ぐに三河に侵攻せずに、浜名湖北岸の刑部で越年しました。

元亀四年一月三日(1573年2月3日)、武田軍は進軍を再開しました。

三河への侵攻を開始しました。

東三河の要衝である野田城を包囲します。

野田城は小規模な城のため、兵は四百人ほどだったそうです。

武田軍は、二万七千人だったそうです。

野田城は小規模な城だったそうですが、備えが固くなかなか攻め込めなかったそうです。

武田信玄は甲州の金掘で働く人達を使って、水脈を切ったそうです。

そのため、野田城の水が枯れたそうです。

徳川家康の援軍が来ない事もあり、元亀四年(1573年)二月に、城を明け渡したそうです。

元亀四年(1573年)二月に、長篠城に入城します。

長篠城に入城した理由は、武田信玄の病が悪化したため、と伝わっているようです。

武田信玄が長篠城に入城した頃になると、侵攻がほとんど止まった状態になったようです。

武田信玄が浜名湖北岸の刑部で越年した理由も病による体調の悪化の説があります。

刑部で越年する頃から武田軍の侵攻の内容が遅くなっています。

元亀四年(1573年)四月に、最上作戦の途中ですが、武田信玄は甲斐の国へと帰陣を始めます。

元亀四年四月十二日(1573年5月13日)、武田信玄は信濃の駒場で亡くなります。

享年は、五十三歳と伝わっています。

武田信玄の死因は、肺結核、胃癌、食道癌、などの説が有力です。

武田信玄の他の死因には、武田信玄は敵が籠城中の野田城から聞こえる笛の音に惹かれて本陣から出て行き、本陣の外に居る時に鉄砲で撃たれて、その傷がもとで亡くなる、があります。(掲載日現在、この説は俗説として考えられています。)

更に武田信玄の他の死因には、織田家の毒殺、もあります。(掲載日現在、この説も俗説として考えられています。)

織田家関連について簡単に説明します。

織田信忠(幼名“奇妙丸”)が元服するのは、元亀三年(1572年)と伝わっています。

織田信忠は、実弟の「茶筅丸(ちゃせんまる)(織田信雄[おだのぶかつ])」、実弟の「三七丸(神戸三七郎信孝[かんべさんしちろうのぶたか]、織田信孝[おだのぶたか])」、と共に元服したと伝わっています。

元亀三年(1572年)一月に元服した説があります。

織田信忠が元服時に改名した名前は「織田勘九郎信重(おだかんくろうのぶしげ)」です。

「織田信忠」と改名するのは後の出来事になりますが、名前が幾度も変わると分かり難くなるため、元服後の名前は「織田信忠」で統一します。

ご了承ください。

織田信忠の初陣は、元亀三年(1572年)と伝わっています。

織田信忠の「具足初め(ぐそくはじめ)の儀」が、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)に執り行われたと伝わっています。

織田信忠の初陣は、元亀三年七月十九日(1572年8月27日)、または、直ぐ後の日付になるようです。

織田信忠の初陣の相手は「北近江」の「浅井家」の「浅井長政」です。

浅井長政の継室は、織田信長の妹の「お市の方」です。

織田信忠の初陣の相手は、父親(織田信長)の妹(お市の方)の嫁ぎ先になります。

浅井長政は、織田家との戦いの中で、元亀三年九月一日(1572年9月26日)に自害して亡くなります。

織田信忠にとって、初陣の次の大きな戦は、元亀三年(1572年)十二月頃の遠江の二俣城の戦いや三方ヶ原の戦いになります。

「初夏」についてです。

「しょか」、または、「はつなつ」、と読みます。

「しょか」は、「夏の初め(←夏の季語)」、「陰暦四月の異称」、です。

「はつなつ」は、「夏の初め(←夏の季語)」です。

「陰月(いんげつ)」についてです。

「陰暦四月の異称」です。

楽しんで頂けると嬉しいです。





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