このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

〜 雪月花 新撰組異聞 編 〜


〜 秋の砌 音に聞く あだ波は 〜


〜 後書き 〜


ここまで読んで頂いてありがとうございます。

ここからは後書きになります。

今回の物語に登場する歌は、「小倉百人一首 七十二番」、及び、「金葉集」です。

「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」

ひらがなの読み方は、「おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ」です。

作者は「祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのき)」です。

意味は、「噂に聞く高師の浜のいたずらに立つ波はかけません。袖が濡れるとたいへんですから。浮名の高いあなたの噂は気にかけません。涙で袖が濡れるとつらいですから。」となるそうです。

平安後期歌人ですが、生没年未詳だそうです。

後朱雀天皇の皇女の祐子内親王の女房です。

母親は歌人として知られている「小弁(こべん)」です。

父親は、平経方といわれていますが、藤原師長ともいわれているそうです。

夫とも兄ともいわれているのが、藤原重経です。

作者は家族関係がはっきりとしていないようです。

名前のふりがなは、「ゆうしないしんのうけのきい」とする事もあります。

別称は「紀伊(きい)」・「一宮紀伊(いちのみやきい)」です。

「紀伊」の名前は、藤原重経の紀伊守という役職にちなんで付いたようです。

この歌は、康和四年(1102年)閏五月に堀川院で催された艶書合の歌会で詠んだ返歌です。

返歌の前の作者は「藤原俊忠(中納言俊忠)」で、返歌の前の歌は「人知れぬ、思ひありその、浦風に、波のよるこそ、いはまほしけれ」です。

この歌を読んだ時の二人の年齢は、藤原俊忠が二十代後半〜三十代前半で、祐子内親王家紀伊は七十歳前後になるそうです。

今回の物語でお孝さんが斉藤一さんに謝る場面があります。

「新撰組異聞 短編 竹の春の頃の出来事」を基にしようと思いましたが、時期や設定を変えた方が良いと考えました。

「新撰組異聞 短編 向暑の砌」や「新撰組異聞 短編 竹の春の頃の出来事」などのような出来事があって、お孝さん斉藤一さんに謝っていると想像してください。

「砌(みぎり)」には幾つか意味がありますが、今回の物語では「時節。おり。ころ。」という意味で使用しています。

お孝さんの思いとは関係なく、再び周りを騒がしくしてしまいました。

そんなお孝さんが登場する物語です。

楽しんで頂けると嬉しいです。





はじめに       本編  

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