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〜 雪月花 新撰組異聞 編 〜
〜 秋の砌 音に聞く あだ波は 〜
〜 後書き 〜
ここまで読んで頂いてありがとうございます。
ここからは後書きになります。
今回の物語に登場する歌は、「小倉百人一首 七十二番」、及び、「金葉集」です。
「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」
ひらがなの読み方は、「おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ」です。
作者は「祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのき)」です。
意味は、「噂に聞く高師の浜のいたずらに立つ波はかけません。袖が濡れるとたいへんですから。浮名の高いあなたの噂は気にかけません。涙で袖が濡れるとつらいですから。」となるそうです。
平安後期歌人ですが、生没年未詳だそうです。
後朱雀天皇の皇女の祐子内親王の女房です。
母親は歌人として知られている「小弁(こべん)」です。
父親は、平経方といわれていますが、藤原師長ともいわれているそうです。
夫とも兄ともいわれているのが、藤原重経です。
作者は家族関係がはっきりとしていないようです。
名前のふりがなは、「ゆうしないしんのうけのきい」とする事もあります。
別称は「紀伊(きい)」・「一宮紀伊(いちのみやきい)」です。
「紀伊」の名前は、藤原重経の紀伊守という役職にちなんで付いたようです。
この歌は、康和四年(1102年)閏五月に堀川院で催された艶書合の歌会で詠んだ返歌です。
返歌の前の作者は「藤原俊忠(中納言俊忠)」で、返歌の前の歌は「人知れぬ、思ひありその、浦風に、波のよるこそ、いはまほしけれ」です。
この歌を読んだ時の二人の年齢は、藤原俊忠が二十代後半〜三十代前半で、祐子内親王家紀伊は七十歳前後になるそうです。
今回の物語でお孝さんが斉藤一さんに謝る場面があります。
「新撰組異聞 短編 竹の春の頃の出来事」を基にしようと思いましたが、時期や設定を変えた方が良いと考えました。
「新撰組異聞 短編 向暑の砌」や「新撰組異聞 短編 竹の春の頃の出来事」などのような出来事があって、お孝さん斉藤一さんに謝っていると想像してください。
「砌(みぎり)」には幾つか意味がありますが、今回の物語では「時節。おり。ころ。」という意味で使用しています。
お孝さんの思いとは関係なく、再び周りを騒がしくしてしまいました。
そんなお孝さんが登場する物語です。
楽しんで頂けると嬉しいです。
はじめに
本編
目次
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