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〜 雪月花 新撰組異聞 編 〜


〜 萱原の幻 遠けども面影にして見ゆ 〜


〜 後書き 〜


ここまで読んで頂いてありがとうございます。

ここからは後書きになります。

この物語に登場する歌は「万葉集 第三巻 三九六番」

「陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを」

ひらがなの読み方は「みちのくの まののかやはら とおけども おもかげにして みゆといふものを」

作者は「笠郎女(かさのいつらめ)」

歌の意味は「みちのくの真野の萱原(かやはら)が遠くたって、心に思えば面影に見えるっていうのに・・・ どうして近くのあなたさまを見る事ができないの?」となるそうです。

原文は「陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見物乎」

「萱(かや)」は、「薄(すすき)」や「尾花(おばな)」などの別名があります。

イネ科の多年草です。

秋の七草の一つです。

「真野(まの)」は、現在の福島県南相馬市鹿島区だそうです。

平成18年(2006年)1月1日の合併前は、福島県相馬郡鹿島町です。

昭和29年(1954年)までは、その地に、上真野村・真野村が在ったそうです。

江戸時代の福島県は、会津藩は石高が多く広い領地でしたが、他の藩は会津藩ほどの石高や領地はなく、幾つかの藩に分かれていました。

後に合併があり、万葉集に登場する歌の地域が確定していないため、推測になりますが、物語の設定当時は「相馬中村藩(別名“相馬藩”)」に「真野」が在ったと思われます。

土方歳三さん、斉藤一さん、市村鉄之助さん、について、簡単に補足します。

土方歳三さんは、戊辰戦争の中の宇都宮の戦いの最中に、足を負傷します。

そのため、慶応四年(1868年)四月下旬(現在の暦で五月頃)に、会津に来たそうです。

会津で数ヶ月ほど療養したそうです。

療養中に、医者などの勧めがあり、現在の会津若松市に在る東山温泉で湯治をしたと伝わっています。

土方歳三さんが湯治をした頃の東山温泉には、会津藩主が利用する温泉や会津藩指定の共同湯が在りました。

土方歳三さんが湯治に通った温泉は、幾つかの逸話がありますが特定は出来ないそうです。

東山温泉は、川が流れていて、滝のように流れる場所や滝になっている場所があります。

土方歳三さんは、会津での療養中に、近藤勇さんのお墓を会津に建てます。

近藤勇さんのお墓を建てた時に、斉藤一さんが会津に居たと伝わっているそうです。

そのため、斉藤一さんが近藤勇さんの遺髪を会津に運んだ、斉藤一さんは土方歳三さんの怪我の療養中に新撰組の組長代理として指揮していなかった、という説があります。

今回の物語は、斉藤一さんが近藤勇さんのお墓を建てた時に居た、斉藤一さんが近藤勇さんの遺髪を運んだ、共に特定した内容は書いていません。

土方歳三さんは、温泉の近くに在る寺(近藤勇さんのお墓が在る寺)で療養した時期があるそうです。

土方歳三さんは、慶応四年(1868年)八月頃に、戦線に復帰したそうです。

斉藤一さんは、幾つもの名前を名乗って過ごしていました。

物語の前半の時間設定時は、「山口次郎」さんと名乗っている可能性が高いようです。

斉藤一さんのように、幾つもの名前を名乗って過ごすと、同一人物で複数の名前が登場します。

同一人物で複数の名前が登場すると分かり難くなると考えて、名前が登場する場合は、“斉藤一”さんの名前のみにしました。

斉藤一さんは、函館に向かわず会津に残りました。

会津に残った新撰組隊士は、二十名ほどと伝わっています。

会津に残った新撰組隊士は、二十名ほどで或る場所を警護していました。

その時に、新政府側が攻撃してきたそうです。

この戦いで、会津に残った新撰組隊士は全員亡くなったと伝わった事があるそうです。

実際は、斉藤一さんを含めた数名の隊士は生き残りましたが、他の隊士の方達はこの戦いの中で亡くなったそうです。

市村鉄之助さんは、明治二年(1869年)五月頃に、土方歳三さんの命令で、函館を脱出し多摩へと向かいます。

市村鉄之助さんが多摩に到着したのは、明治二年七月(1869年8月初旬〜9月初旬)です。

物語の後半の時間設定は、市村鉄之助さんが多摩に到着後です。

市村鉄之助さんが多摩に到着後の物語は、「新撰組異聞」ではなく「新撰組異聞外伝」になるかも知れませんが、物語の展開や内容から「新撰組異聞」で書きました。

市村鉄之助さんは、新撰組が京の町で活動中の時の隊士募集で入隊しました。

しかし、市村鉄之助さんは、隊士募集希望年齢以下だったそうです。

本来は、年齢制限で新撰組に入隊できませんが、土方歳三さんが特別に入隊を認めたそうです。

市村鉄之助さんは、土方歳三さん付きの小姓に就きます。

土方歳三さんは市村鉄之助さんを「頗る勝気、性亦怜悧」と表現したそうです。

土方歳三さんが市村鉄之助さんに函館から多摩に行けと命令した理由は、話や記さずに亡くなったらしいので、分からないそうです。

土方歳三さんは、明治二年五月十一日(1869年6月20日)に戦いの中で亡くなります。

近藤勇さんは、慶応四年四月二十五日(1868年5月17日)に斬首により亡くなります。

沖田総司さんは、慶応四年五月三十日(1868年7月19日)に病のために亡くなります。

今回の物語では、斉藤一さんと市村鉄之助さんは、存命中で、近藤勇さんと沖田総司さんは、既に亡くなり、土方歳三さんは、物語の後半部分では亡くなっています。

楽しんで頂けると嬉しいです。





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