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北海道旅行記・2005年9月1日
1.帯広→ちほく高原鉄道
7時50分頃起床。身支度をととのえ、8時50分にホテルを出た。札幌方面へ向かう貨物列車が見えたが、コンテナを積んでいない無蓋車が多かった。駅のキオスクで朝食を買い、ATMで金を下ろして、ホームに上がった。定時の9時19分に釧路行きの特急スーパーおおぞら1号が到着、キハ283系の8連で、自由席は後ろの2両。喫煙自由席の8号車はすいていた。
帯広駅付近は1996年に高架になり、きれいな駅。だが駅のプレートは伝統的なホーロー製プレートが使われており、ここはJR北海道のこだわりなのかもしれない。帯広を出てから15分ほどで池田に到着。池田で第3セクターのちほく高原鉄道ふるさと銀河線に乗り換える。国鉄末期からJR初期にかけて、北海道では1500キロもの路線が廃止された。廃止された路線の中には、廃止やむなしの路線もあったが、残して活性化できなくもない路線もあった。だがそのような余裕がないほど国鉄の赤字がふくらんでいたというのも事実。その中で、池田と北見を結ぶ池北線だけは、第3セクターのちほく高原鉄道ふるさと銀河線として残った。だが十勝の畑の中を突き進む路線だけで採算が取れるはずもなく、来年4月をもって廃止されることが決まっている。
私が今までに乗った鉄道路線の中には、もう二度と乗らない路線・区間があるかもしれない。だが鉄道が存在すれば乗りに行くことは出来る。だがちほく高原鉄道には二度と乗ることがない。いや、できない。そのような思いを抱きながら、3時間の道のりを心して乗ろうと思った。
切符は自動販売機でも買えるが、JRのみどりの窓口でも買える。切符を買って駅構内へ。かつて国鉄線だったので、改札はJRと共通。駅の写真を撮ったりして、9時55分に713Dが出発。車内は同業者を含めて15人ほど。列車は畑の中をけっこう飛ばす。スピードメーターを見たら時速80キロを指していた。高速化計画があったのも納得か。畑の中を通るので、昨日同様肥料のくさいにおいが車内に入ってくる。
池田を出てから30分後、本別で行き違いのために停車するというので、外に出てみた。駅舎に入ると大量の保育園児が!。まさかこの列車に乗ってくるのか、と思いながらスタンプを押したり、トイレに行ったりして、車内に戻ったらやはり乗ってくる…。総勢50人ほどだろうか。普通向かい合わせで4人座るボックスシートに8人座っていた。もちろん私とHisakazuの向かい側にも4人の園児が座った。だが保育園児としては総じておとなしい。併走する国道を走る車に乗っているおじさんが、保育園児に手を振るなど、面白い光景も見られた。
30分ほど園児と旅をともにし、足寄で降りていった。その代わりに足寄では一般客がけっこう乗ってきた。足寄を過ぎると山の中に入る。陸別はそこそこ集落があり、そこで降りる人も多かった。陸別からは十勝支庁・網走支庁の境界で、あたりは誰も住んでいなさそうだが、峠越えという感じはしない。
2.ちほく高原鉄道→北見→遠軽
午後0時過ぎに置戸に到着。ここからは北見盆地に着く。置戸では1分半の停車。置戸を発車した直後に列車が急ブレーキをかけた。何事かと思ったら、置戸駅の写真などを撮っていた同業者3人組(大学鉄研かと思われる)が乗り遅れた!。なんと迷惑な…。この列車には学生「鉄」だけではなく、中年男性の「鉄」らしき人も乗っていた。そのうちの1人は、池田からしばらくは列車に乗っていたのだが、途中で降り、そこからはレンタカーか何かで713Dを追いかけて、いくつもの駅で列車の写真を撮っていた。持っていたカメラも高級そうなもので、ひょっとしたら鉄道ジャーナルなどの鉄道雑誌の取材なのかもしれない。
置戸から先はぼちぼち人が乗ってくる。訓子府を過ぎると水田が見られるようになった。終点北見には定刻12時54分に到着。もう一生乗ることのない銀河線の旅が終わった。駅から外に出たら、高原鉄道の事務所があり、そこの1階がギャラリーになっていた。ギャラリーにいた老夫婦(高原鉄道の職員の方っぽい感じだった)に色々話しかけられたので、関西から来たことや、銀河線がなくなるから乗りに来たこと、気になった駅は境野駅(JRと同じホーロー製プレートが残っていた)ことなどを話した。すると「お目が高い」と言われ、絵はがきを1枚もらった。
駅のキオスクで発泡酒とゆで卵を買った。発泡酒は北海道限定の冷醸。買い物をしてトイレに行ってからからホームに戻った。ここから乗るのは網走始発の遠軽行き4658D。キハ40の2連で、ここで高校生が相当降りた。よって車内は比較的静かになった。列車は北見盆地を進む。途中の東相内駅や相内駅はかつて農産物や木材の出荷地だったので、広い引き込み線跡があった。乗降客が多いという留辺蕊駅はキオスクがなかった。わが国で「る」で始まる駅は留辺蕊駅と留萌駅、そして日本一長い駅名であるルイス・C.ティファニー庭園美術館前だけ。
留辺蘂を出ると乗客がかなり少なくなった。金華駅で対向列車を待ってから、常呂郡と紋別郡の郡境にある常紋峠を越える。勾配25パーミル、半径300メートルの急カーブが続く線路を、キハ40は唸り声を上げながら登ってゆく。蒸気機関車が走っていた時代は写真撮影の名所でもあった。これを登り切ったところで常紋トンネルに入る。この常紋トンネルは「出る」ことで有名。それには訳がある。この常紋トンネルは明治末期から大正初めにかけて、タコと呼ばれた強制労働者によって作られた。過酷な労働によって100人以上のタコがここで命を失ったと言われる。亡くなったタコは線路わきに埋められたり、トンネルの壁に人柱として塗り込まれたりした(実際に何体かの遺体が壁から出てきている)。このような経緯から、「出る」噂以外にも、にも常紋トンネル常紋峠の信号所が有人であった時代は、勤務員やその家族が病気やけがをしたりといったことがあったそうな。
また、信号所での行き違いも何年か前に行われなくなったので、テープで×をつけた信号や、シェルターに覆われた暗い待避線跡があり、これだけでも充分怖い。このような曰く付きの峠・トンネルを抜けると、列車は息を吹き返したかのようにスピードを出して峠を下ってゆく。そして遠軽駅へと向かう。
3.遠軽→札幌
14時53分に遠軽駅到着。遠軽駅はかつて名寄本線が出ていたところで、未だに名寄本線があった時代の案内板が残っている。だがこのようなものが残っているだけあって、跨線橋や駅舎もかなり汚かった…。写真を撮ったりして時間を過ごす。
札幌行きの特急オホーツク6号が来る10分前に改札が始まった。列車は1連増結の5連で、後ろ2両が自由席。自由席車両の乗り場に並び、それからここの駅弁、かにめしを買った。駅のホームでの立ち売りだったので、汽車旅らしい雰囲気が出ていた。列車は定時に到着し、ここで進行方向が変わるので3分間停車し、午後3時17分に発車した。駅を出た直後に検札が来た。かにめしを食べたら眠くなり、旭川の手前まで就寝。北見峠を見ないで過ぎ去ってしまった…。ちほく高原鉄道が廃止されるので、石北本線は高速化せねばならない路線だが、なかなか大変そうだな…。旭川から札幌に向けては特急がたくさん出ているが、このオホーツクにもかなり乗ってきた。ここからは夕暮れの景色をぼーっと眺めていた。定時の6時43分に札幌駅到着。人の多さに少し面食らった。
札幌から地下鉄ですすきのへ。すすきの駅から歩いて10分ほどの所にあるホテルを予約してあったので、チェックインして荷物をおいた。夕食を取るために再び外出。ラーメン横丁にあるこぐまという店で夕食。このラーメン横丁は観光客向けなので大してうまくないらしい。だが私はうまいと思った。すすきのはかなり大きな歓楽街で、風俗とかそういう系統の店が多いようだ。食事後、酒を買いに少し寂れた酒屋とコンビニに寄った。部屋に戻ってから風呂に入って、飲み会。午前0時過ぎに就寝。
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