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北海道旅行記・2004年9月22日
1.石炭の歴史村
9時過ぎにホテルの車でホテルから車で10分弱のところにある石炭の歴史村へ行った。今回人口1万数千人の過疎都市を訪れたのはこれが目的。この石炭の歴史村はかつての炭鉱の跡を整備して博物館や遊園地、プールやキャンプ場にしたところである。ここの事務所の建物はかつての夕張駅舎。新夕張−夕張間は石勝線ができる前は夕張線と名乗っており、夕張から採れた石炭を運ぶ路線であった。そのため、夕張駅も街の中心街より標高の高いところにあった炭鉱の前にった。炭鉱がなくなったので1985年、町の中心部、夕張市役所のそばに夕張駅がおかれた。そして1990年、ここから800メートル下側、街のふもとに駅が再び移転した。昨日の夜に駅を出て目に入ったホテルへのアクセスのみを考えた移転らしい。それによって夕張の人たちにとって夕張支線は使いにくいものになってしまった。夕張駅を市役所前におき、ホテルの前には新駅建設はできなかったのだろうか…。不自然な夕張駅にも納得。
9月の平日で、しかも小雨が降っているので石炭の歴史村内はほとんど誰もいなかった。まずは石炭博物館に行ってみた。ここは石炭の過程や炭鉱の仕組みを展示してあり、体験もできる博物館。元々夕張炭鉱の事務所か何かに使っていた建物のようだ。展示資料に添えられている文章が夕張に炭鉱が残っていた頃のものであるのはいかがかと思うが、炭鉱の様子などを細かく知ることができた。
その中でも特に印象に残ったのは炭鉱夫の方々の写真、そして炭鉱夫の人たちの文章だった。仕事中の食事は炭鉱の中でとるようで、上から石炭のかけらが降ってくるので弁当箱はちょっとしか開けられず、時には新聞紙を頭からかぶって傘代わりにして食べていたらしい。その写真の横にあった文章が、「この写真は俺が仕事を辞めるまで公表しないでくれ。妻は結婚してから20年経った今でも俺が炭鉱から上がって事務所で食事をしていると思っているから、このようなみっともない写真を見せられない」といったものであった。このような方々の命を懸けた苦労が我が国の経済発展を支えてくれたのだと思い、思わず涙した。
また、石炭細工が展示してあった。これは石炭の塊を球や将棋のこまの形などのおきものにするというものだ。このようなものが作られるようになったのは、炭鉱夫の人たちが少しでも精神的にも肉体的にもつらい仕事から気を紛らわそうとしたのが発祥のようだ。
本当はもっと見たかったのだが、他のところへも回りたかったので1時間ほどで見るのを終えた。次いで坑道展示を見た。ここは模擬坑道という浅い坑道があり、そこを見学できる。そこへ降りるエレベーターでは臨場感を出すためにエレベーターに入ると「これから地下1000メートルの坑道へご案内します。安全ですからご安心ください」と放送が入り、エレベーター内の電気が暗くなってあたかも1000メートル下へ降りているような感じを受ける。降りたところでは実際の炭鉱で使われていた機械が展示されていた。途中からは「まっくら探検」ということでヘッドライトとヘルメットを貸してもらい、模擬坑道へ入る。実際の炭鉱と同じ穴の大きさらしい。観光用に安全に作っているわけだが、それでも足場はけっこう危ない。実際の炭鉱ではいかに危険だったのかが分かる。
外に出てきてヘッドライトとヘルメットを返し、次いで炭鉱生活館という、夕張で住んでいた人たちが実際に使っていた道具などを展示しているところへ入った。最盛期の夕張は小学校も16校ほどあり、生徒数もすごく多かったようだ。今の夕張市の人口は最盛期の10分の1近くまで落ち込んでいるから仕方ないのだが。
そして少し歩いてSL館へ行った。ここは夕張鉄道など夕張に合った私鉄の蒸気機関車が展示されてあり、あとは普通の鉄道系博物館の展示内容があった。最盛期の夕張の鉄道網などについてもう少し紹介してくれていたらよかったのだがなあ。ここを出ようとしたすごく雨が降っていたので、ここの係員のおばさんと少し話をした。この石炭の歴史村のあった場所の付近だけでも最盛期には現在の夕張市の人口に匹敵するほどの人が住んでいたらしい。この歴史村内にかかっている橋も炭鉱夫の人が家から職場へ向かうための橋だったようだ。全く想像もつかない光景が数十年前まで広がっていたのだろう。この係員の人は小さい頃からずっと夕張に住んでいるようで、相当寂しそうだった。
SL館は石炭の歴史村の入り口から相当奥にあり、雨が降っているのでここから入り口付近までを結んでいる軽便鉄道に乗ることにした。使われている列車は蓄電池の機関車にトロッコ風の列車と、そこらの遊園地にありそうなものだが、線路は炭鉱があった時代の貨物線をそのまま使っているようだ。この列車を運転していたおじさんとも少し話をした。
入り口付近のレストラン(屋外だったので寒かった)で食事をし、お土産屋を少し見てから石炭の歴史村を出た。夕張駅へ向かうバスは乗ろうとしたらおばさんが念入りに掃除していたので発車直前まで乗れなかった。石炭の歴史村から乗ったのは私だけだが、他のバス停でいくらか乗ってきた。夕張駅前のバス停は「夕張駅前」ではなく、「レースイリゾート前」という。レースイというのは駅前のでかいホテルの名前。このホテルからスキー場のゴンドラが出ているようだ。もはや夕張の人たちにとって夕張駅は日常の足とはなっていないことがここからも伺える。
2.夕張→南千歳
列車の時間までしばらくあったので郵便局に行ってみたりした。13時23分発の追分行き2637Dに乗った。新夕張までの途中の駅はどこも広々とした構内で、かつて石炭を満載した貨物列車がたくさん停まっていたのだろうということが容易に想像できる。新夕張では私以外全員降りてしまった。今回道内だけでも30ほどの列車に乗ったが、車内が私だけになったのは今回だけ。街の中心部から遠ざけてしまったのだから仕方ないが、この夕張支線に乗っていると、JR北海道はもう少し攻めの経営ができないのかなあという気になる。列車を増発しなくても、特急との接続をよくするなどして、客を鉄道に戻すということは不可能ではないと思う。実際、私が乗ったこの列車で札幌に行くためには追分駅で1時間半以上も特急を待たねばならない。このようなひどい接続であれば誰も鉄道を利用する気にならない。その辺を改善するだけでもちょっとは乗客が増えると思うんだけどなあ。
追分駅には14時半頃に到着。転車台だけが整備されて残っていたが、ここの追分機関区は最後まで蒸気機関車が現役で働いていたところで、夕張炭鉱の全盛期には夕張線の要であったようだ。駅前の橋の欄干にも蒸機の車輪のモニュメントがついている。駅から少し離れたところにあるコンビニで買い物をしたりした。駅で列車を待っていると次第に高校生が駅にやってきてやかましくなった。15時40分頃に私の乗る特急とかちと苫小牧行きの鈍行が同時に改札開始。高校生はみんな苫小牧行きに乗るので特急のホームは静かだった。15時50分発の特急とかちは次の南千歳で降りるので何連あったのかはメモしていないが、列車はキハ183系だった。
3.南千歳→小樽
10数分で南千歳到着。ここで跨線橋を渡って反対側のホームへ。新千歳空港からやってきた快速エアポート161号に乗車。この列車はセミクロスシート721系の6連。2日ぶりに「電車」に乗った。車内は新千歳空港からの客でけっこう混んでおり、ロングシート部にしか座れなかった。南千歳から30分強で札幌到着。札幌では客がほぼ全員降りたのでクロス部に移動。札幌を出た後、小樽築港駅付近まで寝ていたので幻の張碓駅(1年を通じて全く列車が止まらない駅)は見られなかった。
終点小樽には17時16分に到着。みどりの窓口の横の旅行案内所で旅館を紹介してもらった。たかだか5000円のビジネスホテルなのに紹介料を500円も取られた。まあ自分で電話するのは面倒くさいからなあ…。荷物をおいて街へ。運河近くの観光案内所で明日訪れる函館の地図を入手。次いで運河沿いを歩き、運河に接しているレストラン街(もとの倉庫を改造)を見て回った。こういう時に1人旅だと店に入りにくい。結局、運河のそばにある小樽運河食堂に入っているすみれという札幌ラーメンの店に入った。みそラーメンを食べたがけっこううまかった。この小樽運河食堂は今はやりの昔の町並みを再現して屋台風のラーメン屋が…というところ。このすみれは近々ここから撤退するようだ。
その後、小樽市街を少し歩いた。小樽駅前のスーパーで酒とつまみを買ってホテルに戻ったのが7時半。部屋のシャワーを浴び(今回の旅行で部屋の風呂に入ったのは今回だけ)、テレビを見ながらまったりと酒を飲んだ。
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