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 第4章 八雲町徳川農場のあゆみ

 

4-1  移住の状況

移住の状況

旧尾張藩士族の徳川家開墾試験場への移住は、1878・1879・1881・1888年に行なわれたいわゆる「基幹移住」と、1882・1884年に行なわれた「特別移住」、1885・1887・1892年に行なわれた退場者補欠のための移住、1886・1887・1888年に行なわれた幼年者の移住がある。以下は年次別の旧尾張藩士族の移住状況と移住者名である。

 

1878(明治11)年基幹移住(第1回)

1878年7月末の移住先発隊をのぞく最初の士族移民11戸50人を乗せた開拓使汽船ケプロン丸が遊楽部に到着したのは1878年10月12日の朝であった。11月までに遅れていた3戸も到着した。初年度の移住者は先発隊とあわせて全部で15戸77人と単身移住者10人であった。彼らが移住した地区は、現在では最初に住んだことから住初町と呼ばれており、現在は八雲町役場が置かれている。移住当初は「旧」と呼ばれていた。この年は移住の時期が遅れ移住後すぐに積雪期に入ったために、収穫は皆無であり、次回移住者のための家屋建築も翌年雪が消えるのを待って行なわれた。

 

全戸移住・15戸77名

吉田知一(知行の子)・角田弘業・服部正綾・角田弟彦・土岐冬麻呂・太田正之丞・鈴木重信・佐治為泰・伊藤信旧・水野忠順(1882年退場、高木任邦の従兄弟)・(*1)高木任邦(1882年退場)・永田 健・志水久三郎・吉田八郎・山田信勝(1884年退場)

単身移住者・10名 

赤尾政敏(時期不明退場)・天野熊三郎(1879年退場)・村上嘉十郎(時期不明退場)・高橋光造(時期不明退場)・村瀬小金次(時期不明退場)・(*2)都筑田鶴松(のち横井に改姓)・(*3)岡野頼隆・井上文治・平川鍋三郎・(*4)植松稲太(別名稔、1881年退場)

 

★1879年基幹移住(第2回)

 第2回の移住者たちは、1879年7月上旬に名古屋から四日市に向かい、四日市港から開拓使汽船函館丸に乗り込んだ。移住者たちは途中で東京に立ち寄って、尾張徳川家に挨拶に伺うことが徳川家開墾試験場條例で定められていたが、この年は東京でコレラが流行していたため東京に寄らずに函館に直行し、船内で消毒を受けた後、8月2日に遊楽部に到着した。この年の移住者は現在末広町・出雲町と呼ばれている地域に入植した。この第2回移住地区は当初、第1回移住地区の「旧」に対して、「中」と呼ばれていた。

全戸移住・14戸67名

岡野 頼(*3の頼隆父)・箕田景綱(1885年退場)・波多野太郎(1885年退場)・(*5)今村燈八(1885年退場)・原 武雄(1882年退場)・都筑貞寿(*2の田鶴松兄)・平川昌盛(1888年退場)・中西要賢(1885年退場)・森 冨崇・小泉幸年・加藤松太郎(1882年退場)・島澤徳白(1885年退場)・吉田政一(1884年退場)

単身移住者・4名

幡野弘道・(*6)川口良武・飯沼勘十郎・西村梅六

 

 

 

 

 

 

 

 

 

★1881年基幹移住(第3回)  

 1880年には移住がなく、第3回の移住は1881年に行なわれた。一行は5月に名古屋から小舟で四日市に向かい、汽船田子浦丸に乗り換えた。いったん横浜に寄り、そこから汽車で東京に向かい、徳川家に挨拶した後、市内見物を楽しんだ。再び田子浦丸に乗り、函館で玄武丸に乗り換え、室蘭に寄ったのち遊楽部に上陸した。この年の移住者は現在の航空自衛隊八雲飛行場から三杉町と呼ばれる付近にかけて入植している。この第3回移住地区は当初、「旧」・「中」に対して「新」と呼ばれていた。

全戸移住14戸・50名

遠山典國・川口良長(*6の良武兄)・辻村勘治・林 友則・近藤信章(1885年退場)・一色三四郎(1885年退場)・内堀龍眼(1884年退場)・山吹正精(1885年退場)・海部昻蔵・杉立正憲・佐久間成信・飯沼守由・若杉茂親(1884年退場)・小寺 ?(吉田知行弟)

単身移住者・7名

林吉之丞(1882年退場)・石川鍬吉・今村文治郎(*5の燈八の子)・榊原 伸(1882年退場)・守田亀吉(時期不明退場)・片桐端造(1882年退場)・櫻井武愷(1884年退場)

 

★1882年特別移住 

 1882年に移住したのは、養蚕指導者として市岡金三郎一家の1戸2人のみで、このほかに単身者6人が移住しているが、いずれも退場している。

全戸移住1戸・2名

市岡金三郎

単身移住者・6名

石原虎三郎(時期不明退場)・関 門之丞(時期不明退場)・田島作吉(時期不明退場)・小菅柳三郎(時期不明退場)・中川庄吉(時期不明退場)・澤井次郎(時期不明退場)

 

★1884年特別移住

 徳川家開墾試験場2代目委員の海部昻蔵が、徳川義礼の英国留学に同行をすることとなったので、その後任の委員として移住地探査に加わった片桐助作一家が移住した。このほか、藍の指導者として八木周市一家が移住している。この年の移住者はこの2戸のみである。

全戸移住2戸・8名

片桐助作・八木周市

 

★1885年移住(退場者補欠の移住)  

 1884年までにすでに8戸の退場者を出していたので、その補欠として2戸が1881年移住地区(「新」)の空いている家に入植した。

全戸移住2戸・11名

小出忠兵衛・本杉種助

 

★1886年移住(幼年者の移住)  

 後述する幼年者の移住の第1回目である。10歳から14歳までの少年9人が単身で移住し、現在の宮園町にあった幼年舎に収容された。

単身移住者(幼年者)・9名

秦 栄吉(時期不明退場)・(*8)大島 鍛・高木釜三郎(*1の任邦二男)・竹腰休治(時期不明退場)・高垣要人(時期不明退場)・森本鈴次郎・小澤鎌次郎(時期不明退場)・植松鯨雄(*4の稲太弟、時期不明退場)・八尾吉之助

 

★1887年移住(退場者補欠及び幼年者の移住)

 1887年には退場者補欠のための移住と第2回の幼年者の移住が行なわれた。なお、全戸移住については、史料によっては1886年移住となっているものもある。

全戸移住7戸・28名

馬場逸学・神戸彦吉・林 寶雄・(*7)太田浅太郎・林八十八・服部金吾・桑田鈴吉

単身移住者(幼年者)・8名

濱島良八(退場)・秦松之助(退場)・森川惟義(退場)・高木又市(*1の任邦三男、退場)・(*9)赤林五郎吉・岩間岩吾・野間雄登吉(退場)・市橋倞弥(退場)

 

★1888年基幹移住(第4回及び幼年者)  

 1881年以来の基幹移住で、このうち全戸移住者が入植した地域は、「旧」・「中」・「新」に対して「大新(おおしん)」と命名され、現在も地名として残っている。なお、徳川家による全戸移住者の募集はこの年で終了し、以後は単身移住や補欠移住が行なわれたのみである。

全戸移住14戸・60余名

(*10)加藤忠純・幡野包道・河合銀次郎・久保田源三郎・太田義時(*7の浅太郎の弟)・梶田理助(1895年頃退場)・藤田佐平・細川平三郎・安藤久三郎・熊澤亮輔(1889年退場)・小川富三郎(*10の加藤忠純の弟)・真野直秀・竹内義二

単身移住者(幼年者)・7名

細川成教・大島叔蔵(*8の鍛の弟)・榊原政廣・榊原安茂・赤林國麿(*9の五郎吉の弟、1897年頃退場)・小川一吉(時期不明退場)・小川乙蔵

 

★1890年移住

 1890・1891年には単身者がそれぞれ1名ずつ移住しているのみである。

 

単身移住者・1名

深澤留蔵

 

★1891年移住

単身移住者・1名

内田文三郎

 

1892年移住(退場者補欠)

 1892年には退場者補欠のための移住として3戸が大新地区に移住している。

全戸移住3戸・11名

河井惣太郎・北野豊右衛門(時期不明退場)・梅村多蔵

 

★1896年移住

 1896年には3戸が移住している。尾張徳川家による士族の移住はこれを最後に行なわれていない。

全戸移住3戸・10余名

水野幸平(時期不明退場)・柴田鏡太郎(時期不明退場)・太田清光(*7の浅太郎弟)

 

 以上が旧尾張藩士族の移住状況であるが、これ以外にも移住年代不明の士族移民が3戸6人前後移住しており、退場した者も含めて1878年から96年までの間に78戸330余人・単身者29人・幼年者24人の約380人の士族が徳川家開墾試験場に移住したことになる。

 なお第3章で述べたとおり、1878年の第1回移住者はかつて帰田法の適用を受けていた者も多く、石高も翌年以降に移住した者と比べて高めであった。第2回目以降の移住者の石高は17石5斗の者が多くなっているが、後年の移住者では7石6斗の者も多く見られる。

移住者の中には互いに縁戚関係にあった者や親しい間柄にあった者もおり(1)、おそらく親戚や仲間たちとともに移住した士族が多かったものと推測される。後年、かなりの退場者を出しているが、同じ年に移住した者は同じ年にそろって退場している場合も多く、もともと親しい間柄であったために、連鎖反応的に退場したケースも多いものと思われる。

また、最初は単身で移住し、翌年以降に家族が全戸移民という形で入植しているケースや、いったん退場したものの、のちの幼年者の募集の際に子どもを移住させたケースもある。

 

4-2 八雲村の誕生

墓地の選定

士族移民たちは遊楽部を「墳墓の地」とする覚悟であり、移住の際は愛知県に対し、「貫族換移住願」を提出している(2)。「貫」とは戸籍のことであり、「貫族換」とは本籍を移しかえるということである。このため、移住後ただちに墓地の選定を行なった。1878(明治11)年10月、吉田知行は開拓使に対し「墳墓地御割渡願」を申請し、開拓使の許可を得て遊楽部に墓地を設置した。しかし、この墓地は遊楽部川に近く、出水のたびに川岸の決壊や浸水の被害を受けたため、1887年7月には北海道庁に対し、「墓地変更願」を申請した。こうして翌1888年2月15日、大新地区にある常丹坊主山に600坪の墓地と5坪の火葬場用地の下付を受け、現在の大新墓地となった(3)。この墓地には吉田知行ら移住者たちが多数埋葬されており、墓碑はすべて同一方向を向いている。これは、故郷である名古屋の方向を向いていると伝えられている。

 

学校の開設

士族たちは教育にも熱心であった。郷約の中には「學校ヲ起シ子弟ヲ教育スルナカルヘカラスト雖モ移住ノ初未タ此挙ニ及フノ力ナケレハ學力アル者ニ依頼シ教導ヲ緩カセニスヘカラス」という一節があり、1878年は移住時期が遅く学校を開設することはできなかったが、同年11月には早くも単身移住者の植松稲太を教師に選び、角田弟彦宅にて寺子屋形式で就学すべき児童に読み書きを教えさせた(4)

さらに徳川家開墾試験場では、第2回移住者を迎える前に、いち早く公立学校の設立を計画して認可を受け、場内の土地3500坪を利用し、建築費も全額徳川家が負担して校舎を新築した。この学校は1879年6月に完成し、「八雲学校」と名づけられている。八雲学校は現在の出雲町にあったとされ、移住者は当初、熱田神宮の御札と徳川家歴代の神霊を学校の2階に祀り、これを氏神として崇拝していたという。 

ところで、遊楽部の徳川家開墾試験場が「八雲村」として独立するのは、2年後の1881年のことであり、施設等に「八雲」と名の冠したものが現れるのはこの八雲学校が最初である。八雲学校は引き続き植松稲太を教師として、1879年8月18日から授業を開始している。

 なお、翌1880年3月からは試験場外からも児童を就学させることとなり、学校維持費として村民の賦課金と遊楽部川渡船賃の収益の一部を充当することとなり、それでもなお不足する分は徳川家から援助が行なわれることとなった。学校の設立がこれほど早くから行なわれたことは、いかに移民たちが教育の必要性を重視していたかを物語っているといえよう。

 

八雲村の誕生

 1879年3月12日、徳川家は開墾試験場を「八雲」と称して一村として独立することを開拓使に出願したとされている。実際に分離独立が認められたのは2年後の1881年7月8日のことであり、開墾試験場のほか山越内村遊楽部と黒岩を合わせて分離独立が認められ、ここに胆振国山越郡八雲村が誕生することとなった。ただし、この時点では戸長(村長)の単独設置は認められず、これまでの山越内村戸長が兼ねることとなり、戸長役場(村役場)の名称は「山越内村外一ケ村戸長役場」と改められ、事務は従来通り山越内村戸長役場で執行されていた(5)

 分離独立にあたり「八雲」の名称を挙げたのは徳川慶勝の意向によるものとされている。その命名の起源について的確に伝える資料は残されていないが、須佐之男命(すさのおのみこと)(『日本書紀』では素戔鳴尊が詠んだとされる「や雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」(『古事記』所収)という古歌から採用されたというのが通説となっている。

 「や雲たつ」とは、「出雲」にかかる枕詞(まくらことば)であり、「立つ」とは勢いのあるという意味で、ほめ詞として使われたという。「八重垣」とは「幾重にもめぐらす垣」であり、「妻ごみに」は「妻を籠らせるため」または「妻とともに」と解されており、結婚のために新築する家を喜び祝う歌であることから、慶勝のこの地の将来に寄せる深い期待がうかがえる。第1回移住者で歌人の角田弟彦の日記『膽振日記』の一節に、八雲村独立や命名の際の記述があるのでここに紹介する。

 

  二十一日曇天(引用者註:明治14721日)

 山越内村之内黒岩、遊楽部、開墾地三ヶ所合併向後八雲村と改称すべき旨御布達有之候趣事務所より通辞あり、これは徳川開墾地を一村立として村名は八雲と唱へ度旨兼て従一位様(引用者註:徳川慶勝)より開拓使庁へ御出願相成居候処今度許可に相成しものなり、然して遊楽部、黒岩の二字をも合併せよとの御達しは望外事なり、さて八雲の二字は全く従一位様の思召より御撰出遊はされ候なり。後に移り住む人々此儀ゆめゆめおもひたかひてゆるがせにすへからすあなかしこ。

 (八雲史料408『胆振日記』より)

 

 この時期の徳川家開墾試験場の人口および戸数の変遷は以下の通りである。

*八雲史料466、「開墾地一覧概表」などから作成。

 

4-3 移民の保護と統制

徳川家開墾試験場は、1878年の移住開始から、1912年に士族移民が完全独立するまで34年間継続した(1885年3月「徳川家開墾地」と改称)。「徳川農場発達史」や『和合会史』などでは、このうち1878年から1885年3月の直接保護制度廃止までは「直接保護時代」、1885年から1889年7月の「八雲村徳川開墾地郷約」制定までは「間接保護時代」、郷約発布により開墾地のことはすべて移住者の手で行なわれるようになった1889年7月以後は「保護廃止時代」と、徳川家による保護のあり方によって3つに区分しており、本論文でもそれに準拠する。

直接保護時代—直接保護の概要

徳川家による旧藩士の移住は士族授産の性格が強いものであり、徳川家は移住に先立って、1878年6月に「徳川家開墾試験条例」を制定し、士族移民の開墾試験場における一切の面倒を見ることにし、開墾地委員には吉田知行を任命し、陣頭指揮をさせて移住者の保護育成を図った。

開拓使より払下げされた150万坪の土地は、遊楽部川南(砂蘭部) 地区の100万坪と川北(鷲の巣)地区の50万坪に分かれていたが、このうち川南地区は1879年より道路・防風林・事務所敷地を除いて、1戸につき1万5000坪を割渡して開墾させることとした(6)

移民の生活にも徳川家により手厚い保護が与えられていた(表5)。徳川家は第11国立銀行に投資した5万円の利子のうち3000円を開墾費用として10年間毎年支出し、さらに移住3年目から8年間に徳川家歳入から1万6000円を支出して移住者の保護に充当することにし、移住の旅費・家屋建築費・農機具種苗費・米菜料などの貸与を行なうとともに、物品売買・運輸・醸造・貯蓄・教育・医療・勧業などに対する諸施設を設けた。なお、実際には家族構成の加減により余裕が出るので、その分は預金しておいて、不足した家が願い出れば無利子で必要額を貸与し、満5年以内に償還させることとした。

これら徳川家が士族移民へ支出した金額はあくまでも「貸与」という扱いであり、返済することが義務付けられ、移住5年目より5年1期として6期に分けて30ヶ年で全額を無利子で返済させることになっていた。すなわち返済は春夏秋冬の4回に分けて行ない、第1期1円25銭ずつ、第2期1円75銭ずつ、第3期2円25銭ずつ、第4期2円75銭ずつ、第5期3円25銭ずつ、第6期4円13銭7厘5毛ずつ返済する計画であった(7)

また、条例外の貸与もしばしば行なわれた。1885年には前年の凶作のため、1反歩につき75銭ずつを各自の作付反別に応じて貸与したほか、同年6月には蝗虫(トノサマバッタ)が大量に発生し農作物を荒らす被害が出たため、移民たちはその撲殺に努めたので、徳川家は慰労金として50円を下賜して

 

(表5) 移住者1戸当たりへの資金の貸与額

家族移民の場合

旅費(1戸につき15歳以上5人と見積もった金額)

四日市→東京 12円

東京→函館 22円50銭

荷物(1戸につき80才として。1才=1尺立方=約0.027立方メートル)

四日市→東京 4円48銭

東京→函館 5円32銭

家屋新築費(畳・建具つき、破損修繕は自費)

130

農具類(現物支給、修理費や他品購入は自費)

4円45銭

種苗費(1戸につき養蚕用桑苗500本)

1円25銭

飯米料(現物支給、1戸5人・1人1日玄米5合として)

初年  36円50銭

2年目 18円25銭

3年目 9円12銭5厘

菜料(現金支給、1人1日2銭として)

初年  36円50銭

2年目 18円25銭

3年目 9円12銭5厘

旅費・家屋新築費・農具種苗費・米菜料の合計

307円75銭

単身移民の場合

 

旅費・荷物運賃(東京→函館の旅費は開拓使の官費により渡航するため支給せず。また家族移住者と同時に出発する場合は名古屋→四日市の旅費のみ支給。)

名古屋→東京 15

函館滞在費  150

函館→遊楽部 1円60銭

家屋新築費・米菜料など

支給せず

月給(5ヶ年間支給。本人の勉強不勉強に応じて)

6円50銭〜10円

※「徳川家開墾試験場條例」より作成。

 

いる。さらに翌1886年9月には「蝗虫撲殺假定」(8)が制定され、蝗虫1匹につき2厘ずつ買い上げが行なわれた。こうして徳川家が開墾試験場のために支出した経費は、1878年から1884年の間の合計で11万9620円33銭3厘という巨額に達した(9)

このほか、徳川家は資金の援助以外にも士族移民に対して、青年4人を現業生として七重勧業試験場に派遣し西洋農具や牛馬の取扱いなどについて実習させたり、板蔵を建て物資を貯蔵・販売・貸与したり、製麻教師を招き製造方法を学ばせたりするなど、様々な保護や便益を図っている。

 

直接保護時代—士族移民の統制

 士族移民に対しては、手厚い保護が行なわれる一方で、厳重な統制も行なわれていた。徳川家は移民を総括指揮し一切の事務を管理処分させるために開墾地委員を選任し、初代委員には吉田知行を任命した。委員の月給は75銭で、毎月末に開墾試験場の状況を仔細に徳川家に報告した。また、委員による移民統制の下部組織として伍組の編成が行なわれ、1年ごとに選挙で伍長を選出し、伍長は各伍組を警戒して士族の体面を汚す行動などに注意し、委員の命令を伝えて遵守履行させ、各伍組の状況を委員に報告する義務を負った(10)

 移民たちは営業・販売・貸借・移動・労働・品行などに関して多くの制限が加えられていた。また、条例や郷約を遵守し委員の命令に服従する義務があり、違反者は1882年9月に制定された「八雲村開墾地申合罰則」(11)により処罰された。これは違反事実の内容の軽重によって与えられる罰則の基準を示したものであり、軽いもので「罰役二日間」、最も重いもので「退場」となっていた(表6)。また、罰役二日間相当の罪であっても、それを何度か繰り返すと罰役の日数が増えたり、場合によっては退場処分になったりすることもあった。

 

 

(表6) 士族移民への制限と罰則一覧

 おもな制限・禁止事項

違反した場合の罰則

(営業) 各自随意の営業は禁止。農業と養蚕に従事し余力のある場合は営業をなすことは勝手だが、その場合も農業・養蚕・製麻・牧畜に属する工業以外は禁止。

罰役3日間、再犯した者は退場

(農産物等の販売) 収穫物は必ず板蔵を経て販売し、密売及び交換は禁止。ただし余剰となった日用野菜はこの限りではない。

罰役5日間、代価を板蔵に納付、各戸に謝罪、3度目は退場

(貸借) 伍長の認可を受けずに5円以上の金・穀物を貸借することは禁止。

罰役2日間、5度目に及べば5日間

(移動) 理由なく転籍・移動は禁止。1泊以上の旅行は伍長に理由を話し、委員の許可を得て出発。無届で場外に宿泊及び場外の者を宿泊させることは禁止。

初犯は許すが、再犯以上は罰役1日間、5度目からは罰役3日間

(労働) 驕惰放恣で委員伍長の訓戒を無視し、種まき・収穫を遅らせた者

罰役3日間、4度目は退場

(労働) 耕地を荒涼不毛にした者

罰役3日間、再犯は退場

(品行) 誹謗中傷し他人の名誉を毀損した者

 

罰役3日間と謝罪、4度目は退場

(品行) 飲酒暴行を働き他人に迷惑をかけた者

罰役3日間、4度目は退場

(品行) 人倫を破壊し、醜態極まりない者

即刻退場

(品行) 国憲に抵触し、試験場の栄誉を傷つける者

程度により罰役5日間以上ないし退場

(品行) 戸主が罪を犯し一家が立ち行き難い場合

協議の上、家族の希望により婿養子・相続人を立てるか総代理人を選んで家を維持

※八雲史料502より作成。

 

また、士族移民の統制のため徳川家の当主または代理人がしばしば来場視察した。徳川慶勝自身はこのときすでに高齢であったことから生涯に一度も八雲を訪れたことはないが、移住後二年目の1879年8月には慶勝の養子でのちに第18代尾張家当主になる徳川義礼(よしあきら)が早くも来場視察し、移民一同へ「後來開墾ノ功ヲ奏スルハ一ニ移住人ノ勉強ニアリ、(中略)…此ノ上一層ノ勉勵アランコトヲ望ム」旨を口達した(12)。このほかにも、慶勝の実子で尾張徳川家分家の当主であった徳川義恕(よしくみ)、慶勝の出身家である高須松平家当主松平義生(よしなり)、かつて尾張藩御付家老をつとめた成瀬正肥(まさみつ)など旧尾張藩関係者が来場しており(13)、尾張徳川家による北海道開拓事業は、徳川家内部で重要な事業の一つと位置づけられていたことがうかがえる。義礼は1880年にも再び八雲を訪れ、その際士族移民一同に対して「八雲村諸子ニ告グ」という檄文を発している。以下はその一部である。

 

「八雲村諸子ニ告グ」(一部)

…余本年復タ来リ視ルニ事業ノ進ムコト一昨年ノ比ニ非ス是諸子ノ強耐ニシテ能ク辛酸ヲ厭ハサルニ由ルナリ余欣喜ノ餘リピュリタン之米國ニ移住セシ景況ヲ諸君ニ告猶一層憤勉シ余ノ来ル毎ニ余ヲシテ事業進歩ノ速カナルニ驚カシメンコトヲ欲ス今ヤ我邦ノ國庫ハ北海道ヲ捨テ他ニ之ヲ求ムルヘカラスト云フ此ニ因テ此ヲ見レハ北海道ノ土壌肥沃ニシテ物産ノ多キ推シテ知ル可キナリ諸子之ヲ記憶セヨ且ツ傍ラ武事ヲ講シ北門之鎖鑰ト成ランコトヲ希望ス

                                    (八雲史料495、「八雲村諸子ニ告グ」より)

 

このなかで義礼は、アメリカ移民のピューリタン(清教徒)の故事を伝え、士族移民たちをアメリカの開拓者になぞらえて一同の奮起を促している。また、最後に「北門之鎖鑰(さやく)」となるように武芸に励むことを希望している点は注目に値する。これは、後年士族移民の子孫の間で、移住の目的として「単なる士族授産ではなくロシアの南下から北方を防備することが目的の移住であった」と広く理解されるようになったが、実際に存在する八雲に関する史料のなかで「北方防備」について言及されている数少ない史料だからである。

「鎖鑰」とは、鎖や鍵のことであり、北海道を開拓することで北方防衛の要となるように、という意味がある。これは明治初期のロシア南下の脅威が叫ばれた時代には盛んに叫ばれたスローガンであった。しかし、慶勝が移住を考えた時期にはすでにロシアの脅威は1875(明治8)年の樺太千島交換条約によって薄れ、移住に当たって徳川家が開拓使に提出した徳川家開墾試験條例や各種願にも移住の理由は「士族授産のため」となっており、「北方防備のため」とはどこにも書かれていない。義礼がこの時期になって「北門之鎖鑰」論を持ち出したのは、徳川家開墾試験場内に、後述する退廃の気風が醸成されつつあったために、あえて使い古されたスローガンを出して、士族のプライドに訴えて奮起を促したということだとも考えられよう。

なお、士族移民の徳川家への負担は貸与額の30年賦返済以外にはとくになかったが、旧主の恩恵に報いるために、1879年以来毎年移民各戸より大小豆2升(のち5升に変更)を集めて徳川家へ献上している。

 

直接保護時代—退廃の気風醸成

尾張徳川家は、士族移民に対し、移住先においても明治維新を彷彿させるような主従関係を法的に規定してきた反面、封建制時代の家禄支給にも似た手厚い保護を与えてきた。それは、鎌倉時代以来明治維新まで続いてきた主君と武士との間の「御恩」と「奉公」の関係にも似ており、旧藩士の士族授産を成功させようという徳川家の強い責任感のあらわれであったともいえよう。

しかし、実際にはこのような手厚い保護は、反面では士族移民の間の徳川家への依頼心を助長させ、農家として自主独立のできる経営をしているものは少なく、徳川家の保護によってかろうじて生計を立てているありさまであった。さらに、移住当初は収穫も順調であったが、1882年以降、冷害と蝗虫による被害などで不作が続き、移民の間で不平不満の声が高まり、しだいに風紀を乱し驕奢に流れる者が出てくるなど、退廃の気風が醸成されていった。

1881年に開墾地委員の吉田知行を助けるため海部昻蔵が移住した。海部昻蔵はかつて愛知郡和合村で和合書院を開いていた人物であったが、着任早々開墾試験場の退廃の気風を感じたので、同年11月に「松葵会」を結成して開墾主義の強化を図り、さらに12月には「攻玉会」を結成して会議・討論・演説・筆記などを行なって知識を磨くことにつとめた。また、翌1882年8月には16歳から30歳までの青年49人が「青年党」を組織して、有志青年の開拓精神を振興しようとした(13)。しかし、退廃の気風を一掃するには至らず、開墾試験場の諸事業も見るべき成果は上がらず、徳川家の保護によってかろうじて安定しているかに見えていただけであった。

1883年、吉田に代わり2代目委員に就任した海部は、すぐに徳川家に対し以下の改革の提案を行なっている。すなわち、① 救助主義ヲ廃除スルコト、② 懶惰者ヲ沙汰スルコト、③ 新ニ移住人ヲ募ルコト、④ 鷲巣開墾ノ経費ヲ分離スルコト、⑤ 器械取扱人ヲ解免スルコト、⑥ 家令扶巡視ノコト、⑦ 復生金ヲ以テ別途ノ貯蓄ト為スコト、の7点についてである(14)

海部の提案についていくつか解説すると、①では、「然ルニ彼ニ庇護ノ形アレハ此ニ依頼ノ実ヲ生スルハ則千人ノ通情ナリ」として、開墾に際して「救助主義」を撤廃すべきと主張している。②では、「懶惰(らんだ)者」すなわち怠け者を退場処分とすること、③では退場者が続いているのでその補欠として新たに移住者を募ることを主張している。また、④の器械取扱人は、すでに移住後数年経過し移民たちも器械の取り扱いに慣れてきたため廃止すべきと主張している。

また、徳川家内部でも多額の経費を要する開墾事業に反対する声が出てきた。海部の提案を受け、東京から監察官のような立場で派遣された辰巳 守という人物は、徳川家開墾試験場の経営について各種の試算を行なっている(15)。それによれば当時徳川家が開墾試験場に支出していた金額は総額で年間6939円余りであったが、農業純益は2500円程度であった。当時の開墾試験場の人口は250人前後であり、1人あたりに直すと10円程度の収入しかなかったことになる。したがって、徳川家による移住者への貸与額は年々膨らむ一方であった。このため、これまでの直接保護の方針を改め、移民の自立を促す制度へ改革することが急務となってきた。

 

間接保護時代の概要

1884年、2代目開墾地委員海部昻蔵は徳川義礼の英国留学に随行することになったので、移住地探査メンバーであった片桐助作が3代目委員となって移住着任した。着任早々、片桐も徳川家開墾試験場内の退廃の気風を肌で感じた。片桐は徳川家が災害を理由に行なっている金品の貸与がこの原因であると考え、これを改革する必要性を痛感した。

そこで1885年3月、片桐は開墾地諸制度の改革を断行し、士族移民に対する徳川家の保護を従来の25%に削減し、条例外の補助は1885年限りで一切打ち切り、移民のうちこの先自給自足の見込みがない者は旅費を与えて退場帰県させることにした。また同時に「徳川家開墾地」と改称し、今後来る移民には従来の移民のような手厚い保護は与えないこととした(16)。これが伝えられると場内は騒然となり、8戸が退場帰県を命じられている。しかし、残留する者は「今後どんな苦しみがあっても耐えて一層努力し、高恩に報いる」旨の血判書を片桐に提出した。これらの処置により開墾試験場から退廃の気風は一掃され、移民たちは一致団結して開拓に専念するようになった。

 こうして移民の依頼心を助長するような保護は全廃されたが、共立商社の設立・輪作の奨励・ハッカ教師の招聘・果樹の奨励・牧場の奨励・神社の建立など、士族の独立自営を促進させるための援助はかえって積極的に行なわれた。

たとえば、共立商社は農家の日用品を販売し、農産物の購入をすることを目的とした商社で、士族の生活の便宜を図るばかりか商社の活動を通じて士族の経済観念を育成し、徳川家の保護を離れ独立自営の道を歩むことを期待したものであった。また、輪作が奨励されたのは、同じ土地に同じ作物を繰り返し栽培する連作を続けると地味が痩せてしまうので、それを防ぐためであり、「輪作補助規程」(17)が制定されて1反歩につき1円の補助金が交付された。

士族を自立させるためのこれらの援助が行なわれた時代は、これまでの直接保護時代に対して間接保護時代といわれている。

 

間接保護時代−幼年者の移住と小作人の移住

 片桐は、士族移民のうち約4割が退場帰県したのは、彼らが都会で育ち農業の経験に乏しく技術的にも未熟なだけでなく、都会での生活が長かったため精神的にも望郷の念にかられやすく、農業に対する熱意を欠いていたためと考えていた。そこで片桐は、都会での生活にまだ深く馴染んでいない幼年者を移住させて、幼少時より農業訓練を施すことを考えた。さっそく片桐は「八雲村開墾地幼年者移住規則」を制定し、旧名古屋藩士族で10歳以上14歳未満の者を1886年より3年間にわたり移住させることにした。以下は幼年者移住規則の一部である。

 

「八雲村徳川家開墾地幼年者移住規則」(一部)

一、    旧名古屋藩士族子弟拾一年已上拾四年未満ノモノ拾名宛明治十九年ヨリ廿一年迄三ヶ年三拾名移住セシムル事

一、    移住子弟ハ身体強健ナルモノヲ撰擇スル事

一、    移住子弟ハ終身農業ニ從事スル事

一、    移住子弟十五年未満ハ飲食衣服費トモ徳川家ニ於テ取賄ヒ可申事

一、    移住旅費ハ徳川家ニ於テ支弁致スヘキ事

一、    幼年ノ内ハ小學ニ入レ普通教育ヲ受ケシムヘシ

一、    廿五年已上ニ至ラサレバ結婚ヲ許サズ尤モ廿五年已上ト雖モ其身家ヲ成スニ足ルト見込マザルモノハ結婚ヲ許サザル事

一、    家ヲ成スノ日ニ至レバ獨立農業ヲ営ムヘキ事

一、    移住ノ後?ニ退場シ又ハ他業ニ轉スルコトヲ許サズ

一、    其身懶惰放?又ハ破廉恥ノ甚シキモノ又ハ傲慢ニシテ取締人ノ命ヲ奉ゼサルモノハ退場申付クベシ其父兄親戚タルモノ何時ニテモ引受ク可申事

                              (八雲史料503、「八雲村開墾地幼年者移住規則」より)

 

こうして、1886〜1888年の間に24人の子供が両親から引き離され「幼年舎」に収容され、そこで農村の労働に親しむよう教育された。幼年舎は1890年に「青年舎」と改称され、遊楽部川を渡った鷲の巣地区に移転した。青年舎生の中でもとくに優秀な者は、将来の指導者を育成するために、学費を開墾費から支出して札幌農学校に入学させた。この青年舎生たちの中には労苦に堪えかね中途退場して帰県する者もいたが、のちに徳川農場長を務めた大島(きとう)や八雲町長を務めた内田文三郎など、のちに八雲町の中心的な役割を担った人物を数多く輩出している。

 また、開墾の進渉を図るため、1888年には初めて愛知県出身の農民を徳川家の小作人として、徳川家開墾試験場が1883年に民間の開拓会社であった開進社から譲渡されていた野田生(のだおい)地区の徳川家開墾地に移住させた。小作移民も当初の数年間はもっぱら愛知県出身者とくに東春日井郡の出身者のみを募集していたが、その後他府県出身者も募集するようになった。このため開墾地の人口は急増し、1890年には戸長役場・警察署・郵便局などが山越内村から八雲村に移管され、名実ともに一つの村として晴れて独立した。以下はこの時期の徳川家開墾地の戸数と人口である。

*八雲史料466、「開墾地一覧概表」などから作成。

 

「八雲村徳川開墾地郷約」制定と保護の廃止

1888年になると、開墾地委員の役割は「総監督」として間接的に統制するのみとなり、開墾地の一切の事務は士族移民の中から選出された「惣代」に委任された。こうして開墾地自治の端緒が開かれ、移民の農業も徳川家からの援助がなくても自立経営ができるようになったため、1889(明治22)年、士族移民一同は「八雲村徳川開墾地郷約」を制定した。これは、1878年に締結された前述の「郷約」とは別のものであり、開墾地自治のための規約ともいうべき性格のものであった。

これにより徳川家開墾地は、これまでの徳川家の植民地的な農場経営ではなく、小作制農場として経営されていくことになり、士族移民たちは徳川家開墾地の小作人として独立するようになった。そして、徳川家が士族に与えていた保護はすべて廃止するとともに、開墾地のことはすべて移民たちにまかせることとした。この郷約は全10章、88箇条からなる長大なものであった。各章のタイトルは以下の通りである(八雲史料502、郷約全文は巻末史料1参照)

 

第一章                移住人ノ心得

第二章                移住人徳川侯ニ対スル義務

第三章                役員并ニ開懇地会所ヲ設クルコト

第四章                役員撰挙并二任期ノ事

第五章                役員責任ノコト

第六章                議会ノコト

第七章                貯蓄金穀ノコト

第八章                開墾地取締法 

第九章                懲罰例則

第十章                定款更正ノコト

                                   (八雲史料502「八雲邨徳川開墾地郷約」より)

 

 この郷約には士族移民としての心得が細かく定められているほか、徳川家に対する義務が定められていた。また、開墾地役員の任期や選挙・開墾地議会についての規則・移民に関する諸規則・品行不正の徒に対する罰則など様々な事柄について詳しく定められており、開墾地自治の基礎と呼べるものであった。とくに議会に関する規則はおそらく1889年に発布された大日本帝国憲法を参照にしながら作成されたものであろう。

 郷約の発布は7月1日、徳川義礼代理として家令海部昻蔵(2代目開墾地委員)が参列して八雲神社で行なわれ、いよいよ徳川家の保護を離れて小作人として自主自営に入る基礎がつくられたのである。

 

(表8) 八雲村および徳川家開墾地の人口・戸数の推移(1893〜1910年)

年  次

1893

1894

1895

1896

1897

1898

1899

1900

1901

八雲村

 

戸数

 337

 406

 492

 521

 643

 527

 641

 685

 685

人口

1873

2119

2374

2563

2820

2016

2387

2709

2709

徳川家開墾地

戸数

 121

 150

 148

 152

 177

 198

 266

 303

 

人口

 693

 783

 789

 821

 938

 996

1292

1374

 

 年  次

1902

1903

1904

1905

1906

1907

1908

1909

1910

八雲村

 

戸数

1189

1324

1511

1908

2016

2108

2444

2705

3039

人口

5142

6789

7726

9455

10165

10565

11455

18812

12884

徳川家開墾地

戸数

 

 

 

 

 

 

 

 

 319

人口

 

 

 

 

 

 

 

 

1531

*八雲史料466、「開墾地一覧概表」などから作成。1901〜1909年の開墾地の人口・戸数は不明。

 

保護廃止時代の統制

士族移民には郷約発布後も「郷約」によって厳しい統制が課せられていた。移民たちは徳川家に対し、米菜料の返納・豆類や鮭の献上・小作料の納付・土地引き上げの承諾・土地売却の制限・農事の報告・新年その他の挨拶など数多くの義務負担を課せられていた。また、士族にはそれまで1戸あたり1万5000坪の土地を割渡されていたが、1896年にはさらに1万5000坪を加増された。士族が割渡された合計3万坪の土地は、開墾成功の暁にはそれぞれ士族に譲渡されることとなっていたが、1898年には未墾地の成功期限が5ヶ年と定められ、1902年までに1戸分の成功地積が2万2225坪に達しない場合は徳川家に返却しなければならなかった(18)

士族たちは移住に要した費用や移住後3年間に支給された米菜料などを、徳川家開墾試験場條例によって5年目より30ヶ年賦で無利子にて返還することになっていたが、現実には返還が予定通り進まず滞りがちであったので、1894年には徳川家は士族の負担軽減のために30ヶ年賦を100ヶ年賦に延長した。それと同時に士族移民の名義になっている土地家屋と将来移民の所有となるべき土地に抵当権を設定し、年賦金返納未済中に転出する者は抵当に差し出した土地・家屋はもちろん、いまだ本人の所有名義にならない部分もあわせて徳川家に引き渡さねばならなかった。また、年賦返納金を3ヶ年滞納した場合は抵当土地・家屋はすべて徳川家名義に付け替えられた(19)

 

小作人の義務負担

当初小作人に対しては何の統制規定もなかったが、1893(明治26)年に「小作約定書」(20)を締結して小作人の義務負担を明らかにした。この小作約定書によれば、小作人は新墾費を支給され、新墾から5年目までは鍬下期間として小作料を免除されたが、6年目以後は借地料として白大豆を毎年9月30日および12月15日に地主に納める必要があり、9月納付分は収穫前のためその時の相場によって地主が決定した代金をもって納めることになっていた。その価格に小作人が異議を申し立てることはできず、また借地料は年の豊凶を問わず約定通り差し出すこととされ減免は認められなかった。さらに、成墾期限7ヶ年を過ぎてもなお未墾地がある場合は、地主は既墾地の分も合わせて返地を要求することができ、その場合小作人は異議なく返地しなければならなかった。

そのほか、地主が水路や道路を通すために借地の返地を要求した場合や、公共事業のために必要な敷地の譲渡を官庁や会社が地主に申し込み、地主が承諾して小作人に返地を要求した場合にも小作人は応じなければならなかった。また、借地を返還した結果、家屋を移転する必要に迫られた小作人には地主が移転費を支給したが、その金額の多少に小作人が異議を申し立てることは一切できなかった。

このように地主は一方的に小作地の引き上げをすることができたが、逆に小作人が自分の都合により移住後10ヶ年未満で転出する場合は、鍬下期間の小作料免除も取り消され、この期間の小作料も転出前に地主に納付しなければならなかった。このように小作人の義務負担は重く、地主との一方的な契約関係にあった。

1905年には士族に割渡された土地を除いた面積は75万6135坪であり、その大部分は小作人に貸し渡されており、そのほとんどが成墾されていた。しかし、士族が割渡された土地が成功の暁には士族に譲渡されることになっていたのに対し、小作人が貸し渡された土地は純然たる小作地として永久に徳川家の所有である(21)など、士族と平民出身の小作人との間の隔たりには封建的色彩がなお残っていた。

この当時の平民出身小作移民と士族との力関係を示すものとして、第2回移住者の都筑貞寿の子である都築省三が開拓時代のできごとを綴った『村の創業』という本のなかに次のような一節があるので紹介する。これはかつて武家に仕えていた百姓が、のちに八雲に移住してかつての主人に再会するという一節であるが、これは小作移民も当初は士族移民とゆかりの深い人物を選んでいたのではないかということも示唆している。

 

庄八は昔武家時代に私の家の大祖父様−横井牧多お大祖父さんの家の百姓だつたさうだ。今年の春まだ雪の消え残つてゐる頃に、庄八は私の家へお大祖父さんを尋ねて来た。

「私は尾張の勝川村の裸庄左の息子の庄八でございますが、旦那様には御機嫌よろしうござりまするか。」と、縁側の舌の土の上に坐つてお辞儀をした。私は土の上に坐つてお辞儀をする人を始めて見て吃驚した。何故あんな事をするかとお祖母さんに聞いて見たらば、昔の百姓がお侍の前に出ると、皆あゝしたもので、あれが土下座と云ふことだと云はれた。私は障子の陰に隠れて、黙つて様子を見てをると、

「おゝ、貴様が庄八だつたかえ。大分爺いになつたなう。よう御座つた。」

 大祖父様は鷹揚にかまへて録にお辞儀らしいお辞儀もせない。私はお祖母さんの昔話によく聞いてゐた、お地頭様と百姓とを今始めて見たのだ。

                                             (都築1921187-188頁。

 

4-4      士族移民の完全独立と農場の興隆

士族の完全独立

 1894(明治27)年に徳川家は士族移民の負担軽減のために開墾費用の30ヶ年賦返済を100ヶ年賦に改正したが、その後は生産力の増加と物価の上昇に支えられて借金は順調に返還され、士族のために割渡された未墾地の開墾も成功したので、1910年に至り徳川家では士族名義の土地・家屋に設定した抵当権を解除し、徳川家名義の土地も各自に無償譲渡して自由売買を許すことにし、翌1911年に年賦金の一時返還と抵当権解除・土地所有権移転の登記手続を行ない、翌1912年に士族移民75戸の年賦金が完済されることとなった。この結果、923町9反4畝23坪の土地が各戸に分配され、士族移民は名実ともに自作農として独立し、徳川家による旧藩士授産事業もここに終了した(22)

 旧藩士授産事業が終了し、士族に土地を無償譲渡した後も、徳川家にはなお1708町歩の畑地や山林が残っていたので、1912年に、今までの徳川家開墾地を「徳川農場」と改称し、もっぱら小作農業の経営に移ることにした。そして初代農場長には青年舎出身の大島 鍛が就任した。当初の徳川農場は、八雲農場と野田生農場と亀田郡大野町にあった大野農場からなっていた。

徳川農場は、小作農業のほか林業に着目し2479町歩余を買収し山林に植林を強力に推進したほか、緑草堆肥研究・火山灰地処理法の研究・小作人の農業技術改良などの各種農事試験研究・統計調査を実施した。また、第5章でふれる澱粉原料用馬鈴薯栽培の勃興にともない、徳川農場でも1915年以来、馬鈴薯の品種改良を進めた(23)

未墾地の開墾は終了したことから、小作人に対する鍬下期間の小作料の免除や新墾費の支給は行なわれなくなった。しかし、道路や排水溝の新設及び修理・護岸工事などの公共事業や小作人への農事奨励などは熱心に行なわれた。また、徳川家当主および代理人による視察は、徳川農場発足後もたびたび行なわれた。とくに1908年に義礼の跡を継いだ第19代当主徳川(よし)(ちか)は農場主として頻繁に来場しているが、その目的は農場の管理よりも熊狩りや避暑など遊覧的性格にしだいに変わっていった。

 ところで、本州各地や北海道では大正期以降、1920年代に展開された蜂須賀農場争議などの小作争議が頻発しているが、徳川農場では徳川家の豊富な資金力を投入して、小作人に対し農業技術改良のための各種の奨励を行なったり、防寒にすぐれた家屋の建築を奨励したり、農閑期に熊彫りを奨励したりするなど小作人の生活の向上に努めたためか、第二次大戦後に徳川農場が閉場するまで小作争議が行なわれたという記録は一切ない(24)。これは、農場主である義親も来場のたびに士族のみならず小作人や一般町民とも親しく交わっており、義親に対する尊敬の念があったこともその理由のひとつではないかと思われる。

 なお、この間の徳川農場の収支は保護奨励のための経費がかさんだことから赤字の連続であり、徳川農場の経営は徳川家の「道楽」に近い感がある(表9)。1923年の関東大震災後は復興資材として木材の需要が高まり、山林事業が黒字となったことから、徳川農場では1933年以降山林事業に経営の主体を移すことにし、1931(昭和6)年には山林面積が2944町6反9畝6歩(約883万坪)に増大した。小作地については漸次解放し、小作人の自作農化を図ることとした(25)

その後、徳川農場は戦後の農地改革により寄生地主制が否定されたことにより、1948年10月15日にすべての小作人に農地を解放して閉場したが、八雲の発展の歴史にとっては大きな足跡を残したといえるだろう。

 

(表9) 徳川農場の収支(1920〜1931年)単位=円

 

1920

1921

1922

1923

1924

1925

歳入

26,032.03

36,146.34

22,165.57

50,427.00

35,293.72

42,730.23

歳出

19,610.75

29,602.62

30,161.05

46,475.98

40,695.24

40,015.74

差引

 6,410.28

 6,543.72

-7,995.48

 3,951.02

-5,301.52

 2,714.49

 

1926

1927

1928

1929

1930

1931

歳入

27,811.07

30,671.62

36,588.70

33,319.86

27,760.59

18,265.19

歳出

37,476.23

35,449.03

37,632.41

37,314.59

37,096.38

26,672.43

差引

-9,665.16

-4,777.41

-1,043.71

-4,094.73

-9,335.79

-8,407.24

*林1963より作成。

 

その他の農場

 徳川農場は1923年には小作人戸数319戸、所有面積71万5500坪となり、八雲で最大の農場として八雲発展に中枢的な役割を果たしたが、19世紀末ごろには、徳川農場以外にも数多くの農場が相次いで創設され、それぞれに八雲の発展に重要な役割を果たした。その主なものを挙げてみる(26)。愛知県出身の小作移民が多いのは、やはり徳川農場があった影響だといえるであろう。

★石川農場(1895年創設)

 尾張の人蟹江史郎が山崎地区に土地の払下げを受け「蟹江開墾地」としていたが、1898年に愛知県幡豆郡平坂村(現西尾市)の石川錦一郎がこれを引き継いで「石川農場」とした。小作人戸数46戸、所有面積33万坪であり、経営に当たっては牧畜思想を普及させ、略奪農業経営から合理的農業経営への転換させることに努め、優良牛馬の繁殖に努めるなど牧畜の振興に力を注いだほか、常に小作人による植林や農耕を奨励した。

また、自ら製酪所を設け、1912年にはバターを製造し「笹印バター」と名付け、樺太から神戸まで販路を拡張している。その後、1931・35年にいち早く農地を解放して自作農を創設し農場を閉鎖した。

大関(だいかん)農場(1895年創設)

 大阪の長谷川寅次郎・井上徳兵衛と下関の人安井作次郎・大井重吉の4人がユーラップとトワルベツ(現上八雲・富咲)地区に創設した農場で、移民の安住に意を用い、社寺の建立・学校や病院の設立を行なった。また、市街地に「大関商店」を設けて生活物資の仕入れ供給や生産物の集荷販売を行ない、農場経営の安定を図ったので一時期は小作農120戸を数えた。しかし、第一次大戦後の不況のあおりを受けて離農者が続出したため経営が急激に悪化し、1922年に徳川家に譲渡されて「ユーラップ農場」として再開された。1934年に農場主の徳川義親は農地を解放し、38戸の自作農を創設してユーラップ農場を閉鎖した。

★鈴木農場(1896年創設)

 東京の鈴木義宗・桜井郁次郎と千葉県の畠山禎治が上砂蘭部(現春日)地区に創設した農場で、当初は「八雲農場」(徳川農場の八雲農場とは別)と呼ばれ、愛知県と福井県から小作人を入植させた。1918年頃には小作人戸数120戸ほどであったが、その後の農村恐慌により農家戸数は激減した。その後も小作人40数戸ほどで経営を継続し、1948年の農地解放まで存続した。

★久留米農場(1897年創設)

 福岡県久留米の井上岩記と福島県の川口誠夫・大坪 実・斎藤常盤の4名がブイタウシナイ(現花浦)地区に「北海道久留米殖民組合農場」を創設し、福島県から小作人22戸を移住させたものである。1909年に神奈川県の岡田正三の所有に移り「岡田農場」と改称されたが、1929年函館の近藤清太郎らに譲渡、翌1930年には青森県の高橋庄七に譲渡され「高橋農場」と改称された。しかし、高橋農場も造田事業の失敗で経営が悪化したので1934年には青森市の青森信託株式会社に移管され、さらに1941年には士族移民出身の八木勘市の所有となり「八木農場」と改称された。

 他の農場と異なり、このような頻繁な経営主の変更に対して小作争議が絶えなかったが、とくに八木勘市は1941年12月、小作人に対して小作契約の解除を通知したため、本格的な小作争議に発展し、5ヶ年にわたる調停裁判の結果、1946年4月に各戸の小作地は従来通りと決定された。その後、農地解放により1950年12月までの間に37戸の自作農が創設された。

★その他

 上記以外にも明治末期には西田・宮村・岩磐・若松・中藤・大橋・竹内・後藤・渡辺など数多くの農場が開かれたが、第一次大戦後の農村恐慌や土地条件の悪さなどから経営困難に陥る農場が多く、成功したものは少なかった。また、徳川農場をはじめ、これらのすべての農場は戦後の農地改革によって寄生地主制が否定されたことにより自作農を創設して閉場することとなった。

 

4-5 尾張徳川家と八雲

尾張徳川家歴代当主と士族移民

徳川慶勝が最初に士族を入植させた1878年は、まだ明治維新から日が浅く、四民平等が謳われたといっても、鎌倉時代以来長い間続いてきた旧藩主と士族との間の主従関係がまだきわめて深い時代であった。しかも最初の10年間はもっぱら士族のみの移住であったため、八雲では旧藩時代の主従関係がそのまま持ちこまれていたといっても過言ではない。徳川家もまた旧藩主として士族授産を何とか成功させようという使命感を持っていた。

また、尾張徳川家は秩禄処分で受領した金禄公債の額が大きかったため有数の資産家となり(27)、徳川家の莫大な資金力を背景に行なったさまざまな保護によって、移民の多くは経済的に徳川家に深く依存していた時代であった。このため徳川家は旧藩主として移民たちに対して絶大な権威を持っていた。それは、鎌倉時代以来主君と家臣の間に結ばれてきた「御恩」と「奉公」の関係にも似ていた。ここでは徳川農場閉場までの歴代当主と八雲とのかかわりについてみていきたい。

★徳川義直(16011650

 義直は、死後「源敬公」と(おくりな)され、尾張徳川家の祖として広く尊敬されていた。1878年に士族移民一同が移住するにあたって締結した「郷約」にも「敬公ノ神霊ヲ合祀シ移住人ノ氏神トシ…」とあり、毎年6月の八雲神社例大祭は当初は「源敬公御祭典」と呼ばれていた。しかし、1897年頃を最後に、源敬公御祭典ではなく単に八雲神社例大祭と呼ばれるようになり、以後史料に義直に関する記述は存在しない。

★徳川義宜(よしのり)18581875

 義宜は慶勝の三男である。1864年に第15代藩主茂徳(慶勝の弟)が一橋徳川家を継いだため、第16代尾張藩主となった。しかし、わずか7歳であったため、実質的には父慶勝が当主であった。1868年、尾張藩内の佐幕派が義宜を擁立して江戸に向かうという動きがあったといわれ、これが青松葉事件の発端となった。義宜は元来病弱であったため、1875年に18歳の若さでこの世を去っている。

 義宜は八雲開拓の3年前に他界しているため、本来は八雲に入植した士族とは何のかかわりもないはずであるが、実際には命日である11月24日には毎年「従三位公(義宜)御祭典」が毎年開かれており、八雲史料によれば死後45年経過した1920年ごろまで行なわれている。また、第1回移住者角田弟彦の帰田時代の日記によれば、義宜が危篤の際、名古屋から東京まで急ぎ出かけ、見舞ったとの記述があること(28)、また同じく八雲移住者である小寺 ?宅に義宜直筆の巻物が伝わっていることなどから(29)、八雲に移住した士族たちと義宜との間に何らかの関係があったことは明らかである。

★徳川慶勝(1824〜1883)

 慶勝は明治維新後、生活に困窮していた士族のために帰田法を制定し、それが失敗した後も、士族授産のため大金を出資して士族を北海道に移住させるなど、士族の生活の向上に腐心した人であった。八雲という地名を決めたのも慶勝であり、士族移民のために熱田神宮の分霊を明治天皇に願い出たのも慶勝であった。死後の1918年には北海道開拓の功績を認められ、開道50周年記念式典で北海道拓殖功労者として道庁長官より表彰されている(30)。実際には高齢だったこともあり、慶勝が八雲に足を運ぶことは一度もなかったが、慶勝の名は八雲開拓の始祖として今日でも広く知られている。

 慶勝は1883年、東京で60年の生涯を閉じた。その日は奇しくも八雲で最初に鍬入れの行なわれた8月1日であった。慶勝は1934年5月4日に八雲神社に合祀されているが、それに先立つ1900年前後から毎年8月1日に「従一位公(慶勝)御祭典」が行なわれ、1911年には「従一位公御霊社」が建立されている。8月1日は開町記念日と重なることから、後には「八雲祈念祭」と同時に行なわれており、これは現在に至るまで続けられている。

★徳川義礼(1863〜1908)

慶勝の後を継いで尾張徳川家第18代当主となったのは讃岐松平家松平頼聡二男で徳川家に養子に入った義礼であった(31)。義礼は1879年8月1日に徳川家開墾試験場に初来場して開墾の実況を視察して以来、1881・1888・1891年の計4回八雲を訪問している(32)。慶勝の遺志を継いだ義礼は、移住者への保護を直接保護から間接保護に改めたり、幼年舎(のち青年舎)を設置したりするなど開墾地の改革を進め発展させたが、1908年に46歳の若さで逝去した。義礼に関する祭典はとくに行なわれてはいないようである。

★徳川義親(1886〜1976)

義親は越前松平家松平慶永(春嶽)の五男として生まれたが、義礼は男児に恵まれなかったため尾張徳川家に養子入りし、1908年義礼の死去に伴い第19代当主となった。義親は、士族移民たちに土地を無償譲渡して完全独立させ、残った小作地は小作制の徳川農場として経営にあたることとした。こうして、士族移民と徳川家との間の直接の関係は農場関係者の士族をのぞいてなくなった。

義親は1909年に初めて八雲を訪問して以来、ほぼ毎年八雲を訪れるようになったが、この時期になると士族たちは完全に独立していたので、義親の八雲訪問も視察というよりは遊覧的性格の強いものとなっていた。また、義親は気さくな人柄であり、士族のみならず小作人や町民とも親しくし、徳川家の莫大な財力によって八雲に多額の資金援助を行なったり、農民の生活改善を提案したりしたので、義親はよき農場主として全町民から広く尊敬されるに至った(33)

義親と八雲との関係で特筆すべきは1918年以降ほぼ毎年行なった熊狩りであり、「熊狩りの殿様」「熊狩り侯爵」などと揶揄されるほどであった。これについては次項で詳しく述べることとする。

 

徳川義親と八雲

 徳川義親は1909年に八雲を初訪問して以来、1969年までの間にのべ40回以上も八雲を訪問している。義親は狩猟を趣味とし、1918年以降はほぼ毎年のように春に八雲を訪れて遊楽部岳に分け入って熊狩りを楽しんだ。この時期義親は、春は熊狩りのため、夏は避暑のためとして、年に2回八雲を訪問することも多く、なかには年に3回訪問した年もあった。

 徳川義親

 

 義親は1909年に八雲を初訪問して以来、1969年までの間にのべ40回以上も八雲を訪問している。義親は狩猟を趣味とし、1918年以降はほぼ毎年のように春に八雲を訪れて遊楽部岳に分け入って熊狩りを楽しんだ。この時期義親は、春は熊狩りのため、夏は避暑のためとして、年に2回八雲を訪問することも多く、なかには年に3回訪問した年もあった。

 また、義親は当時アイヌ研究で著名であった宣教師ジョン・バチェラーと親交が深かったため、八雲のアイヌの人びととも交流を深めた。熊狩りの際には、地元のアイヌの人びとに案内を頼み、雪中で寝食をともにした。とくに渡島半島随一の伝承者として活躍した(しい)()(とし)(ぞう)(アイヌ名トイタレキ)とは親交を深め、ときには自ら祭主となって農場内でイオマンテ(熊の霊送り)を執り行なっている。熊狩りの際には事前に徳川農場にアイヌの人びと数名を招き、ときには酒肴も提供しながら、熊狩りのルートについて協議をした(34)。また、アイヌの人びと数名を東京の徳川家に招いたこともあり、アイヌの人びとからも「殿様」と呼ばれて親しまれていたようである(35)

 また、義親は1912年には士族75戸を自作農として徳川家から完全独立させた一方で、平民出身の小作人に対しては当初は土地の分譲は行なわなかったものの、のちに漸次農地の解放を進めた。この時期、徳川農場をはじめ各地に小作制農場が相次いで創設されており、1920年代以降各地で小作争議が頻発している。北海道では、旧徳島藩蜂須賀家が開き、日本最大の小作制農場といわれた空知(そらち)の蜂須賀農場で小作料値上げをめぐり争われた13年にも及ぶ争議が有名であるが、徳川農場では小作争議があったという記録は一切ない。その理由として、筆者の推測では義親の人柄や功績に負う部分も多かったのではないかと思われる。

 たとえば、義親は熊狩りに出かけるなかで、貧しい生活をしている一般農民の生活を垣間見て、すべての農民の生活を向上させなければならないと考えたと後年語っている(36)。そこで、防寒にすぐれた住宅を建設して燃料の節約と農民生活の改善を行なおうとし、1923年以降洋式の模範住宅を建設して普及させようとした。また、同年8月には農業の効率化のため、早くもトラクターなど動力機械農具を購入してその利用普及を奨励した。1923年1月にはデンマークの国民高等学校にならった八雲高等国民学校を設立し、義親自らが校長に就任した。さらにヨーロッパの農民が熊彫りを農閑期に行なって生計を立てているのを見て、八雲でもそれを奨励しているというように、義親が八雲の発展に果たした功績は枚挙にいとまがないのは事実である(37)

 

和合会の結成

 封建時代の武士たちは、さまざまな家臣団から構成されており、藩主はこれらを権威によって統率・撫育していわゆる股肱(ここう)の臣をつくってきた。家臣団はこれに応えて服従・信頼・尊敬の念を主君に対して抱いてきた。この主従関係は明治維新によって法的には否定されるが、現実には旧主と士族の間の隔たりは経済的にも大きいものがあった。とくに尾張徳川家は秩禄処分により莫大な資産を手にすることができたが、これに対し士族は生活に困窮した。そこで士族授産が重要な課題となり、徳川家は士族を八雲に移住させたが、徳川家による移住は、徳川家の豊富な資金力によってさまざまな保護が与えられたため、伊達など他の士族移民に比べてきわめて恵まれたものであったといえる。このため、八雲の士族移民たちは徳川家に対する尊敬の念を抱き続け、自主的に士族移民の会を結成し徳川家への忠誠を誓うこととした。

 士族移民の会のはじまりは1899年に結成された「移住人同志会」であるが、この会はすぐ解散したと見られ、記録もほとんど残っていない。ついで1914年 月には「温古会」が開かれている。これは、1883〜84年の間開墾地委員を務め、のち徳川家家令となり東京に移っていた海部昻蔵が,八雲に立ち寄った際に移民たちが開いた親睦会のようなものであり、24人の士族が参加している。うち6人は海部がかつて愛知郡和合村(現愛知郡東郷町和合)に開いていた私塾和合書院の生徒であった。この温古会を契機として、翌1915年8月4日に徳川農場内部にあった「(しん)萩館(しゅうかん)」において「徳川家移住人和合会創立総会」が開かれた(38)。「和合」とは和合書院から採られたものであった。

 こうして64人が会員となって和合会が発足した。和合会は「我徳川侯家カ至誠至仁ナル御精神ヲ以テ士族授産ノ為メ開墾地ノ事業ヲ與シ玉ヒシ高恩ヲ永遠ニ記念シ且ツ之ニ報インコトヲ記スルト共ニ移住人士ノ親睦和合ヲ計ル」ことを目的としており、会員となることができるのも士族移民に限られた。さらに当初会員になった64人はそのなかでも分家や家族を除いた各戸の代表としての戸主のみであった(39)

 ここで注目したいのは1915年という設立時期である。前述の通り、1912年にはすでに士族は徳川家から完全独立していたので、もはやこの時期には徳川家に対する士族移民の義務はなくなっていたにもかかわらず、新たに会を発足させて徳川家への忠誠を誓ったのである(40)

 

 

<註>

(1) 移民同士の縁戚関係については、前出の愛知県公文書館所蔵「旧名古屋士族別簿」などに記載されている。

(2) 八雲史料178、「移住人名簿」より「貫族換移住願」。

(3) 八雲史料301、「八雲開発史料七」

(4) 八雲史料468、「八雲村徳川家農場沿革略」。

(5) 『八雲町史』上巻、113-114頁。

(6) 横井1984、37頁。

(7) 八雲史料163、「徳川家開墾試験場條例」(以下「條例」と略す)、第77款。

(8) 八雲史料452、「蝗虫撲殺規定」

(9) 八雲史料452、「八雲村徳川家開墾地沿革」。

(10)八雲史料50。

(11)前出「條例」、第13・14・25款。

(12)前出「八雲村徳川家開墾地沿革」。

(13)八雲史料、「八雲日記」参照。

(14)八雲史料501、「八雲村開墾ニ関スル書類」。

(15)前出「八雲開発史料七」。

(16)林1956、58-59頁。

(17)八雲史料483、「牛馬損害手数料規則」。

(18)林前掲論文、78頁。

(19)同、91頁。

(20)八雲史料506、「小作約定書」。

(21)林前掲論文、78頁。

(22)196382-83頁。

(23)『八雲町農業協同組合四十年史』、22頁。なお、徳川農場における土壌や農作物など各種改良の試みを記したパンフレットなどは八雲史料のほかにも道立図書館などで閲覧することが可能である。

(24)ただし、昭和期に入ると士族移民の子孫のなかには小作人を雇って地主となる者も出現し、

  その小作人に一方的な立ち退き要求がされることもあった(『大新九十年史』、27-28頁)。

(25)『八雲町史』上巻、553-557頁。  

(26)同、389-400頁。

(27) 1898年の高額所得番付では、尾張徳川家の所得はおよそ11万6000円であった。これは、当時の高額所得番付の全国第12位(華族では第7位)という高額であり、国内有数の資産家であったといえる(小田部1988、41頁)。

(28)八雲史料3560、『北山日記』。

(29)この巻物は現在、八雲高等学校の校史資料館に収蔵されている。なお、小寺 ?は青松葉事件の際、処刑された14名の介錯役をつとめたとされる。

(30)横井前掲書、74頁。

(31)慶勝には実子の義恕がいたが、義恕が生まれたのは義礼が養子に迎え入れられた後であったために、義恕は尾張徳川家分家の初代当主になり、本家は義礼が相続した。1985年から88年まで宮内庁の侍従長を務めた徳川義寛は義恕の長男である。

(32)八雲史料304〜364、「日誌」(初期のものは「八雲日記」)に徳川家関係者や要人の来場の際の記述が多く見られ、迎え入れる際に周到な用意がされていたことがわかる。

(33)前出「日誌」には、義親の八雲訪問が中止となり一同が落胆する様子や、夜行列車で深夜八雲を通過した際に数人が八雲駅に立ち寄り挨拶をした様子などが記されており、義親がいかに尊敬されていたかが伺える。

(34)前出「日誌」によれば、熊狩のために義親が来場する数日前に農場員とアイヌの人びとたちが綿密にルートの協議をしていたという記述がある。

(35)徳川1921、123-124頁。同書にはアイヌの人びとのイオマンテの様子やユカを語る様子なども記されており興味深い。

(36)徳川1984、106-107頁。

(37)戦後の1966年、義親は八雲町の「名誉町民」第1号に満場一致で推挙されている。

(38)横井前掲書、54-60頁。

(39) 2002年に行なった和合会員からの聞き取り調査による。

(40)同様の士族の会は伊達や当別に入植した士族移民の間にもある。伊達士族の会である「士族契約会」は和合会よりも30年近く早い1888年に結成されている。ただし、士族契約会では伊達士族以外の平民出身移住者の参加も認めるなど、現在では八雲の和合会とはその性格がかなり異なっている(榎本1993、82-87頁)。

 

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