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大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道
〜知られざる専用鉄道〜
大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道の基礎知識
開設 大正6(1917)年6月15日
廃止 昭和7(1932)年11月30日
湯本駅〜磐崎村藤原字沢田(現
全長 6.62km
三星炭鉱藤原鉱として開削
三星炭鉱は明治30(1897)年に、
松本孫右衛門氏(
三星炭鉱は内郷地区を主な採炭地区とし、不動沢、広畑、栃窪坑等を稼働していた。
明治41(1897)年には、綴(内郷)駅に近い場所に綴坑を開削、
また、明治43(1910)年には勿来地区の勿来炭鉱を買収し三星炭鉱窪田坑を稼働するなど順風満帆であった。
しかし、大正2(1913)年5月、主力坑であった綴坑が未曾有の大出水により閉山を余儀なくされた所から三星炭鉱の雲行きは怪しくなる。
専用鉄道の敷設
綴坑の閉山という不測の事態に見舞われながらも、三星炭鉱は勿来窪田坑を稼働しつつ次の一手を打った。
湯本村(現
内郷地区では高倉線により石炭を搬出し、鉄道の利点を熟知していた三星炭鉱は藤原鉱に向け専用鉄道の開設を計画する。
大正3(1914)年に専用鉄道敷設の許可を得た三星炭鉱藤原鉱専用鉄道は大正6(1917)年6月15日に開通した。
しかし、三星炭鉱の命運は、専用鉄道が開設された頃には消えかけていた。
大日本炭鉱の登場
経営に行き詰まった三星炭鉱は、大正7(1918)年に周辺の中小炭鉱と共に大日本炭鉱に買収される。
同時に藤原鉱は大日本炭鉱湯本鉱と改称される。
大日本炭鉱は佐賀出身の古賀春一氏が設立した炭鉱で山口県宇部などにも鉱区を所有する採炭会社であった。
大日本炭鉱は湯本、窪田、磯原などを主力鉱とし、常磐炭田内屈指の採炭会社に成長する。
湯本鉱の閉山、売却、そして…
大日本炭鉱湯本鉱は大正7(1918)年から大正13(1924)年まで毎年、6万トン〜11万トンの出炭を記録していたが、
勿来鉱、磯原鉱に採炭を集中させる為に、大正14(1925)年、三井鉱山に湯本鉱を譲渡した。
湯本鉱は三井鉱山湯本鉱となる。
三井鉱山は明治44(1911)年、三井財閥グループの鉱山を一括管理するために設立された。
全国各地に鉱山を所有し、三井三池炭鉱や神岡鉱山も傘下に収めていた。
昭和5(1930)年7月。湯本鉱坑内で異常熱出水が発生した。
排水の為の必死の努力も空しく、湯本鉱は閉山となってしまう。三星藤原鉱として出炭を開始してから僅か13年の短い歴史であった。
専用鉄道も昭和7(1932)年には正式廃止となる。
フラガールへの遠い道程
異常出水により閉山を余儀なくされた湯本鉱は三井鉱山の手を離れ、磐城第二炭鉱→入山採炭→常磐炭鉱と次々に所有者が変わっていった。
しかし、藤原の地から二度と石炭の響きが戻る事は無かった。
運命とは誰にも分からないもの…人々の記憶から消え去ったかに見えた湯本鉱は意外な形で復活を遂げる。
昭和38(1963)年、常磐炭鉱(常盤興産)は湯本鉱跡地を利用して「温泉レジャー施設」の計画を発表する。
温泉レジャー施設は、日本のハワイ「常磐ハワイアンセンター」として昭和41(1966)年1月15日に開業する。
湯本鉱から湧き出る無尽蔵の温泉水を利用し、館内を暖め、熱帯植物を育て、ポリネシアンショーが毎日演じられた。
ポリネシアンショーを演じる女性達の喜怒哀楽は平成18(2006)年9月公開の映画「フラガール」で垣間見る事が出来る。
常磐ハワイアンセンターは平成2(1990)年「スパリゾートハワイアンズ」と名称を変更し、
年間140万人を集客する一大温泉リゾートテーマパークとして全国にその名を知られている。
参考資料
常磐地方の鉱山鉄道 おやけ こういち著
黒ダイヤの記憶 おやけ こういち著
写真で綴るいわきの炭鉱 草野 日出雄著
みろく沢炭鉱資料館写真集 渡邊 爲雄著
参考サイト
国土画像観覧システム(昭和50年 航空写真)
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