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大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道 1
〜その道は鉄道だった〜
(←国土画像観覧システムより 昭和50年 航空写真)
平成20年1月20日午前11時。私は大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道の探訪をする為、湯本駅西口に立った。
1月3日の常磐炭鉱専用鉄道 鹿島鉱線探訪に続き、1ヶ月で2度目の湯本訪問である。
日曜日の湯本駅は人で賑わっていた。スパリゾートハワイアンズにこれから行く人、帰る人が入り混じり観光地らしい心地よい喧騒に包まれていた。
私の目的地もハワイアンズには違いないのだが、私の通る道は他の人とは少々違う。
古の専用鉄道跡を探訪するのだ。
ここは鹿島鉱線のレポートでも通った「小名浜街道踏切」である。
昔は「磐城炭鉱軌道」と「常磐線」が平面クロスした由緒正しき踏切だ。
平面クロス…胸躍る単語だ。
だが、平面クロスはすぐ傍にもう一個あったのだ。
踏切に背を向けると…
このような風景が目に入る。
画像左奥から右手前に通る道路は「磐城炭鉱軌道」だった道だ。
画像右手のフェンスの辺りから画像左側の塀の前辺りに「大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道」が通じていた。
磐城炭鉱軌道は僅か20mほどの間に「大日本炭鉱専用鉄道」と「常磐線」を「平面クロス2連続」と言う荒業で交わしていたのである。
2連続平面クロス…当時の様子はどのようなものだったのだろう?
上の画像に見えるフェンスを背にして専用鉄道跡を撮影する。
マルヨシ電気さんの右に見える砂利道…一見普通の生活道路だが、この道こそが専用鉄道だったのだ。
砂利道に入ってみる。
道は街中を横断するようにしてほぼ真っ直ぐ進んでいた。
道に歴史ありとは言うが、この道が鉄道跡だったと言われてもにわかには信じられないのではないだろうか。
この画像の左側には大日本炭鉱が経営する「電気動力製材所」(大正9年〜14年頃?)があり、製材所専用の引込線があったと言う。
当然の事ながら今ではその痕跡を全く残さない。
現在では湯本川改修工事により川岸は整地され、急速にその様相を変えている。
鉄道跡っぽくなってきた。
舗装こそされていないものの、道幅は広くこの画像のように2台が両端に駐車しても、車一台分が通行できるスペースが確保されている。
画像でも分かる通り、鉄道跡は数十m先でコンクリートブロックの塀によって一旦途切れている。
とりあえずブロック塀の近くまで行ってみる。
塀の向こうはやや広い空き地が広がり、更に先には住宅地がある。
電柱の傍辺りに専用鉄道があったのだろう。
空き地を迂回する為に県道に一旦出る事にする。
塀と民家の僅かな隙間をすり抜ける。
県道に出ると丁度青看が見えた。
県道56号 常磐勿来線と専用鉄道は暫くの間着かず離れずの関係となる。
専用鉄道は一度県道を跨ぐ。
その位置を見に行く。
一軒だけ他のお宅と明らかに向きが違う薄空色の民家。
この民家は専用鉄道の跡に建てられたのだ。
専用鉄道の敷地の幅=民家の幅と考えて良いだろう。
県道を横切った専用鉄道はどうなっているのであろうか。
廻れ右。
「いわきのこんぴらさん 金刀比羅神社」
という看板が目に入った。
専用鉄道は神社の前をかすめていたのだ。
看板の足元には…
専用鉄道の築堤が残っていた。
画面中央、看板の下の土地が1m程盛り上がっているのがお分かり頂けるだろうか。
築堤に登り、専用鉄道の行く先を見る。
砂利道の築堤とその先に見える舗装された市道。
それらを繋ぐと古の鉄道の跡が浮かび上がった。
90年前、この場所を石炭を満載した列車が走り抜けていたのだ。
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