このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道 3
〜湯長谷橋〜
築堤となった専用鉄道跡は、湯長谷川で一旦途切れる。
昔、鉄橋が架かっていたであろう場所に、今は水道管を通す為の橋が架けられている。
湯長谷川に鉄橋の橋台や橋脚を探したが見付からなかった。
水道橋を迂回する為、下に降り築堤を写す。
この画像で築堤の様子がお分かり頂けると思う。
専用鉄道は鉄橋に向かい緩やかな上り勾配を取る。
白煙を上げ力行する蒸気機関車を想像してみる。
水道橋を反対側の岸から見る。
専用鉄道の鉄橋は水道橋のすぐ傍に架かっていたのだろうか。
こちらの岸も鉄道跡は築堤状になっている。
脇には畑があり冬ながらも色々な作物が育っている。
上の画像の地点から反転して専用鉄道の行く先を見る。
鉄道跡は市道によって途切れるものの、その先ですぐに復活する。
足元を良く見ると、中央が盛り上がっている所がある。
配水管の上部らしきものが露出している場所が僅かながら見受けられた。
専用鉄道は廃止後、配水管の敷設路として長い余生を過ごしていたのだ。
末永くこの風景が変わらない事を祈りたい。
市道を渡り更に先に進む。
この辺りが「下湯長谷」と呼ばれる一帯だ。
江戸時代には湯長谷藩の屋敷などが建ち並んでいたと言う。
この下湯長谷の地に専用鉄道を通す為、三星炭鉱創始者の一人、加納五郎氏の敷地が充てられたという。
加納氏も昔の湯長谷藩の家臣であった名家である。
専用鉄道跡は、右手からやって来た急な上り坂の道路と出会う。
鉄道でこの勾配はありえない。合流という訳では無さそうだ。
専用鉄道跡は何処へ…?
舗装路は急勾配のまま登って行く。
一方の専用鉄道は舗装路とは合流せずに独立して先に進むようだ。
しかし、その先に謎の空間が見える。
何であろうか?
何じゃこりゃ…?
上を道路が通っている。
私はその下の半円形の空間を見てしばし思案に暮れる。
ああ!そうか「跨線橋」か!
専用鉄道を道路が跨いでいるのだ。大正時代の跨線橋と言うのは珍しいのではないだろうか。
ましてや線路の方を通ると言う体験は滅多に無い。
跨線橋の下部は大きな石材で華麗なアーチを描いている。
現代では見られない造形だ。
ちょうど頂点に当たる石には扁額が嵌め込まれている。
この橋に賭けた当時の三星炭鉱の意気込みが伝わってくる。
内部は強度的な問題からかモルタルによる左官が施され、鉄道現役当時の様子を窺い知ることは出来ない。
もし当時の石が露出していたならば、蒸気機関車が付けた煤が見れると思ったのだが…
中央の扁額には「湯長谷橋」と橋の名が刻み込まれていた。
何と言う素晴らしい造形の扁額だろう。初めからこの位置に取り付けるべくデザインが決められていたのだろう。
石材の種類は良く分からないが、両側のアーチ部分に使われている石とは違う物だろう。
アーチをくぐり、反対側に出る。
光が当たり、湯長谷橋の素晴らしい造形を目の当たりに出来た。
アーチを形作る石、跨線橋本体を構成する石垣。要の位置に鎮座する扁額…
正にパーフェクトと言う他に無い。
恐らくは大正5(1916)年に建造されたこの湯長谷橋。
92年前に建造された鉄道跨線橋。湯本の街にはこんな超一級の鉄道遺構があるのだ。
湯長谷橋を抜けた専用鉄道跡は急速にその姿を消していた。
現役当時は切り通し状の土地がしばらく続いていたのだろうが、銀色の建物によって鉄道跡は消滅する。
銀色の建物は「磐崎小学校」の体育館である。
これまで細々ながら続いていた専用鉄道跡はこの地点で一旦消滅する。
小学校のフェンスに沿い、小道が続いている。
その道を利用させてもらい、下の道に降りる事にしよう。
(余談)相互リンク先「サムライヲトメ」のHP製作者「ふぢ猫」さんはこの磐崎小学校出身である。
湯長谷橋の存在はふぢ猫さんも無論知っており、その昔鉄道が通っていた事、行き先はハワイアンズ(元湯本鉱)である事も御存知であった。
また、画像の地点に夏などに不用意に訪れると「タケノコ泥棒」に間違われる危険がある…と忠告を頂いた。ありがとうございます。
小学校脇の小道をブレーキ音を響かせながら降りた先は2車線の道路であった。
道路の名前は県道56号…
専用鉄道と絡み合う、3度目のご登場である。
専用鉄道は少しの間だけ脇道にそれる。画像に見える小道が専用鉄道だった道だ。
専用鉄道は僅かな距離で県道56号に舞い戻り、そのまま横断する。
今度こそ56号とはお別れだ。
56号は植田に進み、専用鉄道は西に向きを変え湯本鉱に向かって進む。
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