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品川白煉瓦専用軌道 2
〜2つの専用鉄道の終点〜
(日曹赤井炭鉱専用線)
左の画像で一番右に位置し、築堤の上を直進するのが日曹赤井炭鉱専用線である。
専用線の跡はこの先、市道が県道133号線と交差する地点で消滅する。
この場所から築堤上に行けば、廃線跡を少し辿れるとは思うが、現役の線路(磐越東線)と同じ高さに上がるのは気が引ける。
そこで、手持ちの資料に登場して頂く。
左の画像は昭和40年代後半頃の専用線跡の様子である。
場所は現在、磐越東線と県道133号線が立体交差する辺りだろうか。
専用線跡には枕木が残っているのが確認できる。
赤井炭鉱跡も荒涼としたズリ山のままのようだ。
かつて赤井炭鉱が存在した山を県道133号線から見る。山の手前の平地は
ヤマは今でも木があまり生えていない。
閉山後48年も経つので赤井炭鉱の遺構は無いかと思っていたが、よくヤマを見てみるとコンクリート製らしき構造物が目に入った。
画像中央より少し左に写っているのがお判り頂けるだろうか。
早速コンクリート構造物の元に近づく。
…何だろうかこれは。
ヤマの麓にポツンとコンクリートの塊が放置されている。中央部は鉄筋が露出している。
資料「常磐地方の鉱山鉄道」からすると、選炭場の跡のようだ。
赤井炭鉱は木造の立派な選炭場と万石(石炭積込場)が一体化し、この付近に建っていた。
私の今立っている所は線路だった所らしい。背後に万石が聳え立っていたのだろう。
左の画像は昭和40年代後半の同所の様子である。
上の画像と同じコンクリートがある。選炭場の跡は40年近くこの地に骸をさらし続けているのだ。
何らかの事情でここまでしか解体されなかったのだろう。
(日曹常磐炭鉱専用鉄道)
一方、専用鉄道は緩やかな左カーブを切っていた。
現在の市道は専用鉄道の道床を利用して作られたのだろうか。
なかなか良い鉄道カーブだ。
市道深田堀ノ内線は県道133号 赤井停車場(あかいていしゃば)線に合流する。
専用鉄道は現在の県道の左側辺りに敷設されていたようだ。
この画像の地点から終点まで専用鉄道はほぼ直線で進む。
専用鉄道跡にはこのような建物がある。
これは「国土交通省 東京航空局 いわき航空路監視レーダーサイト」と言う国の施設だ。
「レーダーサイトから約370km以内の空域にある航空機の位置を探知し、航空機の誘導及び航空機相互間の間隔設定等レーダーを使用した航空路管制業務に使用される。」(国道交通省 用語解説ページより)
日本国内にはこのような航空路監視レーダーサイトが19箇所あり、航空機の安全運航を地上からサポートする。
建物の屋上には方向指向性レーダーが2機装備されている。
このレーダーで航空機の位置を監視し、他のレーダーサイトや空港レーダーと連携して航空機の安全運航を守るのだ。
航空ファンでもある私は廃線探訪と共にこのレーダーサイトも見てみたかったのだ。一石二鳥である。
なお、毎年9月20日(空の日)前後などに建物内の一般見学などが出来る日があるので、興味のある方は一度訪れてみては如何だろうか。
話を専用鉄道跡に戻す。
専用鉄道は直進を続ける。
画像の場所では丁度私の立っている所が線路跡だ。
県道を横切るように常住川(じょうじゅうがわ)が流れている。
県道の橋のすぐ横にレンガ積みの橋台がある。
これが日曹常盤炭鉱専用鉄道唯一の遺構である常住川橋梁跡である。
反対側にも橋台が残っていた。
こちらは歩道の側溝の水がそのまま橋台に流れるような構造になっているので、たいへん見た目がよろしくない。
しかし、レール撤去後59年。よくぞ残っていたものだと思う。
場所柄、しばらく橋台はこのままの姿でいるだろう。
側溝のふたを載せる鋼材にはレールが使われていた。
どこのレールだろうか。
レールのサイズや鉄道の廃止時期からすると、専用鉄道のものではなく、日曹赤井炭鉱専用線から転用したとも考えられる。
当の日曹常磐炭鉱専用鉄道のレールは、昭和24(1949)年に撤去され、北海道の日曹手塩炭鉱専用鉄道で使われたと言う。
橋を過ぎ、比良地区から常住地区へ移ると、手厚かった歩道は急激にその幅を減じてご覧のようになる。
専用鉄道は画像左側の住宅が建っている所に敷設されていた。
県道133号線は右にカーブするが、専用鉄道はそのまま直進する。
専用鉄道の終点はもうすぐだ。
赤井地区を緩やかに流れる茨原川(いばらがわ)。
そこに「大門橋」という小さな橋がある。
そこから専用鉄道の終点だった場所を見てみよう。
川と住宅の間に三角形の土地がある。
この画像で見える付近がかつて日曹常磐炭鉱専用鉄道の終点だった所と思われる。
今では万石(石炭積込場)や線路など一切の痕跡は残っていないようだ。
県道133号線から終点付近を見る。
現在では田圃と化していて、ここに鉄道があった事を思わせるものは無い。
背後の山にかつて日曹常磐炭鉱が存在したという。
今では只一つ、昭和10年頃に建造された煉瓦工場の煙突のみが往時を伝える。
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