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鳳城(大昭)炭鉱専用軌道 本線 3
〜大昭炭鉱第一坑〜
上山田地区の中心地に入ると、またも軌道跡は里道と分かれる。
先程の分岐と違うのは、線路も共に分岐していた事だ。
分岐した線路は「大昭炭鉱第一坑」へ向かう。右側に分岐する1.5車線ほどの道がかつての支線跡である。
支線を辿り、大昭炭鉱第一坑跡を訪ねる。
支線は急カーブを切り、炭鉱へ向かう。
画像は車道橋である「天神橋」である。
資料(常磐地方の炭鉱鉄道)によるとこの天神橋と並行して(併用橋の可能性もあり)軌道の橋も架けられていたようだ。
10月になったが、植物が枯れ、見えなかったものが見えるようになるには少し時期が早すぎたようだ。
資料と目の前の光景を見比べながら軌道橋の痕跡を探すのだが、橋らしき遺構は発見できなかった。
所々思わせぶりな場所も見えるのだが、雑草に覆われ判別が出来ない。
恐らく河川改修の際に橋台もろとも消滅したのだろう。
閉山後45年。炭鉱跡はその様相を一変させ、全ての痕跡を消し去った。
炭鉱があった一帯は再開発が成され、住宅街になった。
画像の右手側に炭鉱の本体(坑口、選炭場)があった筈なのだが、何も無くなっていた。
左の画像は昭和50(1975)年当時の大昭炭鉱第一坑(跡)の様子を写した航空写真である。
33年前には開発の手はまだ入っておらず、一面の荒地が広がっていたであろう事が想像される。
画像に炭鉱の主要な建物の位置を書き込んでみた。
1067mmの専用鉄道(専用側線)を引き込んでいた大手炭鉱と比べ、大昭炭鉱第一坑がいかにコンパクトだったかが伺えよう。
ヤマの外れにポツンと庚申塚が建っていた。
炭鉱に関係した物かと思い小さい文字を判読しようと試みたが良く判別できなかった。
恐らくは炭鉱で働いていた人々が、庚申講の記念に建立したものだろう。
炭鉱跡から支線の分岐地点まで戻る途中に、一見して学校とわかる建物が見えた。
「
佇まいが余りにも我が母校(浪江小学校)の旧校舎に似ているので驚く。
今は何に利用されているのだろうか。古き良き時代を伝える歴史的建造物としてしばらくはこの地に残って欲しいものだ。
分岐地点まで戻り、専用軌道の先を見る。
流石は軌道跡(笑)。立派なものだ。
軌道跡は第一坑跡を横目に見ながら第二坑に向かって進んでいく。
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