このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

江名鉄道 3〜海岸沿い、崩壊す〜

 

「水産高校前」駅を過ぎると線路は海岸と並走するように敷設されていたようだ。

 

海岸沿いを走行すると程無く「永崎」駅に到着する。

 

(国土画像観覧システム)より昭和50年の小名浜地区 航空写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

果てしなく続く太平洋…海岸にはテトラポットと防波堤が設置され高波や浸食に対する備えは万全だ。

 

防波堤の内側には遊歩道が整備され、海岸を眺めながら散歩やジョギングをする人の姿も見られる。

 

線路跡を見失った私はとりあえず遊歩道に自転車と共に降りてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車がひっきりなしに走る道路より遊歩道のほうが眺めも良いし、精神的にも良い。

潮の香りが心地いい。

 

…遊歩道は緩やかな左カーブになっていた。

 

まるで鉄道のカーブのようではあるまいか。

 

いや?

 

まさか?

 

もしかして?

 

 

 

間違いない!この遊歩道は「江名鉄道」の跡だ。

 

向かい側に見える岬の形が決め手だ。

 

「海岸沿い」には違いないが、本当にこんな所に線路が敷かれていたのだろうか?

 

私自身も疑問に思うが、次の画像をご覧頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは昭和30年頃の海岸沿いを走る江名鉄道のディーゼルカーである。

後ろの岬の形を比べてみると、上の画像とほぼ同じ地点から撮影したことが分かるであろう。

ディーゼルカーの後ろには申し訳程度に貨物車が連結されている。

この貨物車には小荷物等の雑貨が積まれ、泉駅で行き先別に仕分けされ全国に発送される仕組みだ。

本来の貨物列車はサンマ等の水産物を江名港や仲之作港から全国に発送していた。

 

 

 

さらにもう一枚の画像もご覧頂きたい。

線路は文字通り海岸沿いを走り、左側の道路と暫くの区間並走するのがお分かり頂けるだろう。

 

左側の道路は現在の県道15号「小名浜四倉」線と思われる。

磐城海岸軌道の時代には道路上に軌道が敷設されていた。

 

昔から永崎海岸は人々のレジャースポットだったのだろう。波と遊ぶ人物が写っている。

線路は驚くべきことに画面中央に見える民家の右側を通っていたようだ。何故このような海岸沿いに線路を敷いたのだろうか?

 

 

 

上↑の画像の現在の様子が左の画像である。線路と県道はほぼ同じ高さで並行していた。

線路跡が遊歩道に転用されているのがお分かり頂けるだろう。

 

上の画像を見ていると分かるのだが、江名鉄道が存在していた昭和30年代には永崎海岸には防波堤やテトラポットの類は無かった。

満潮時では線路の道床はおろか線路そのものにも波飛沫が掛かっていた事が想像できる。線路の保守に苦労があった事もまた容易に想像できる。

 

そしてこの区間が江名鉄道の命を奪った…それは事実である。

 

 

 

 

 

「昭和407月の台風で永崎付近の海岸沿いの護岸が崩壊して運休」(JTBキャンブックス「地形図でたどる鉄道史」より)

「仮復旧して運行を続けたものの危険の為当局の指導により昭和41215日に運行を休止」(新人物往来社「ローカル私鉄廃線100線」より要約)

「昭和43年3月30日廃止」(同上「ローカル私鉄廃線100線」年表より)

 

 

 

台風や高潮などの影響を直接受けていた線路(路盤)が昭和40年まで持ちこたえたのはある意味奇跡的だったのだろう。

逆に考えれば、開業以来幾多の大波を受けてきた護岸が昭和40年についに耐え切れなくなって崩壊した…という解釈も出来る。

 

 

 

 

2つ上のモノクロ画像に写っている民家は現在では「永崎ビーチハウス」さんと「民宿 荒磯」になっている。

 

線路はこの2軒の右…右?!

 

行かなきゃいけないのか…なんか大きなワンボックスカー止まっているし…気が引ける。

 

出来るだけ線路跡を辿りたい私としては行くしかあるまい…

 

 

 

 

 

 

 

 

防波堤にはプレートが埋め込まれていた。

 

「昭和44年度 永崎海岸高潮対策事業」

と記されている。

 

江名鉄道が正式に廃止されたのは昭和43年だった。防波堤は鉄道が無くなった後に造られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意を決して民宿の右側を通る。

 

いきなりワゴン車が止めてあった。

 

車が止めてある所は「私有地」、私がこれから通行するのは「市有地」と思うのだが、民家に進入するようないけない感じがする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…今度は堂々のワンボックス停車だ。きっちり自転車1台分の幅しか残されていない。

 

この画面だけ見ると、私はただの闖入者だ。通報されてしまうかもしれない。

 

そう思った私はかなりのスピードでワンボックス車の脇を通り抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドキドキしつつ民宿の脇を通り抜けるとコンビニの裏手に出た。

 

県道15号線との再合流ももうすぐだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンビニの駐車場に出てみた。ここのコンビニは以前はローソンだった筈だが、いつのまにか違うコンビニになっているようだ。

 

ここが「永崎」駅 の存在した所だ。資料によると「前が海、後ろが墓場」と記されている。

 

ここに駅があれば、道路(県道)へのアクセスも容易であろうし、道路を挟んだ向かい側の集落「大平」地区へも簡単にアクセスできる。

元々の鉄道(磐城海岸軌道)は大平地区を通っていたのでその補償的な意味合いも在るのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

コンビニの駐車場(永崎駅)から太平洋を写す。

 

探索した日は4月らしい日差しで海岸には多くの人が繰り出していた。少し沖にはサーフィンやボディボードに興じる人達が

波のご機嫌を伺っていた。

 

それにしても何と眺めのいい所だろう。ここならコンビニ弁当でもおいしく食べられそうだ。

 

海沿いに設置された駅は全国に多々あるが、永崎駅が現役だった頃は北陸本線の青海川(おうみがわ)駅にも引けをとらない立地だったのかもしれない。波しぶきが直接駅にうちつけていたのだろう。

 

 

 

 

 

(H20.8.28)追加

 

当HPをご覧頂いた東原氏より貴重な永崎駅の画像を頂いた。

 

島式ホームにディーゼルカーが1両、ポツンと佇んでいる。

 

ホームに見える人は車掌さんであろうか。

 

シーズン以外の永崎駅はこのような閑散とした風景が日常だったのだろう。

 

素敵な写真をありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東原氏から更にもう一枚画像を頂いた。

 

背景から推測すると、永崎駅に進入せんとするB6型蒸気機関車であろう。江名鉄道の蒸気機関車の走行写真は大変貴重だ。

 

ナンバープレートの文字からこの蒸気機関車は「C508」小名浜臨港鉄道C1型タンク機関車であると思われる。

 

1905(明治38年)イギリス ノースブリティッシュ社製で、元国鉄2256として国鉄福島工場に在籍していた。

 

昭和30年11月に小名浜臨海鉄道に移籍し、そのパワーを生かして貨物、旅客の如何を問わず活躍した。

 

昭和41年8月に解体と資料には記されている。江名鉄道の終焉に合わせるかのようにその生涯を閉じたようだ。

 

道床と海岸線の驚くべき近さにも注目して頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏季は小名濱海水浴場に直結して、平、郡山各駅より臨時列車を運転して遊客の便を計っている」

と、上記のモノクロ画像の説明文には書かれていた。7,8月頃には国鉄の客車が直接この永崎駅に乗り入れていた。

 

「また、風光勝れた海岸線を走行する為、全国稀なる観光路線である」

説明文の締め括りの一文である。

私が先ほど走行してきた遊歩道…江名鉄道が現役であった頃はいかほどの絶景だったのだろうか?

日の出を車窓から見られたら筆舌に尽くしがたい絶景が展開されていただろう。

 

しかし、その「風光勝れた海岸線」が江名鉄道の命脈を絶ってしまった事は皮肉である。

波飛沫が線路のみならず、車両(気動車、貨車)に与えるダメージも看過できないレベルだったことだろう。

海の潮は車両の塗装の隙間から入り込み徐々にダメージを与えて行く。

 

 

 

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