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山口炭鉱専用側線 山口炭鉱専用軌道 5
〜西明寺と石炭軌道〜
山口炭鉱専用側線の基礎知識
開設 昭和21(1946)年2月
廃止 昭和33(1958)年2月
磯原駅〜磯原町大塚字松下
(磯原駅〜雁ノ倉操車場までは重内炭鉱専用側線と共有)
全長 4.28km(磯原駅より)
山口炭鉱専用軌道の基礎知識
開設 明治42(1909)年
廃止(一部専用側線へ)昭和20(1945)年
軌間 508mm
全長 4.51km
雁ノ倉操車場から北東の方向を見ると行く先が二手に分かれている。
右側の築堤(藪だが)が重内炭鉱専用側線。
左側の舗装道路が山口炭鉱専用側線だ。
早速行ってみる。
山口炭鉱専用側線は雁ノ倉操車場を出てすぐに単線となり、山裾に沿い炭鉱に向けて長めのカーブを切る。
雁ノ倉操車場から旧山口炭鉱専用軌道との合流地点までは新規に築堤が築かれたと思われる。
カーブはきれいな弧を描き、急速に旧専用軌道に合流しようとする。
路肩にはデリニエーターしか設置されておらず、しかもブラインドコーナーなので四輪で通行する時は気を付けなければいけない。
究極鉄道カーブ。
偶然の産物か、築堤はこれ以上無いほど華麗な鉄道カーブを描いていた。
わたしは暫しこの光景に見とれた。
画像奥の青い車が止まっているあたりが旧軌道との合流地点だ。
右側から細い道が合流してくる。旧山口炭鉱専用軌道だ。
築堤は合流地点に向かい高度を下げていき、合流地点でほぼ周囲と同じレベルになる。
合流してきた道(山口炭鉱専用軌道)を磯原駅方面に向かって撮影する。
木皿橋からこの合流地点までは専用側線完成後、鉄道として使われなくなったので車道となったのだろう。
往時を髣髴とさせるような道幅の狭さだ。
旧炭鉱軌道と合流した専用側線は西明寺地区に向けて進む。
この景色もまた鉄道カーブだ。
山裾の日陰から日向に側線跡は出る。
専用側線は西明寺川の堤防を兼ねるように川沿いに敷設されていた。
専用側線は昭和33年に廃止され、軌道の撤去もされている。
木皿地区のように枕木やレールなどの類は見当たらなかった。
冬だと言うのに色とりどりの木々が周りを囲む。
昔のSLもこんな長閑な景色の中を走っていたのだろう。
山口炭鉱専用側線はこのように片側が法面になっている所が多いのだが、特に補強されているような所は見当たらない。
法面は草で覆われており、このように地肌が露出している事は稀である。
地肌を触ってみたが、硬く締まった感触がした。
西明寺川と共に専用側線は山元に向かって行く。
やがて正面に立派な形の山が見え、集落が見えてくる。
西明寺の集落だ。
かつては山口炭鉱が開山され賑わった場所だ。
西明寺地区に入るとそれまでの平坦な路線は極端な上り坂になった。
資料「常盤地方の鉱山鉄道」によると勾配は「40分の1から60分の1の急勾配」とされている。
鉄道としてはかなりの急坂に属するだろう。
上の画像の地点から少し進み、磯原駅方向を見る。
結構なダウンヒルである。
この急坂を利用して、専用軌道時代は、1両2tの石炭を満載した炭車を8両連ね、勢い(重力)のみで木皿地区まで降りていったと言う。
総重量16t強のトロッコ列車がこのような山間地域を爆走していたのである。ちゃんと木皿で止まれたのだろうか?
専用側線時代は機関車泣かせの坂だったに違いない。上る時には車輪の空転に気を付けないといけなかった筈だ。
この場所は山口炭鉱がかつて存在した所である。
画像左側、看板の立っている辺りに万石(石炭積込所)があったという。
万石の向かい側には炭鉱住宅が建ち並んでいたと言う。
今では閑静な山間の一地区になり、往時を思わせるものはない。
もう少し進むと高台が見え、その上に工場が建っていた。
この高台はかつてのズリ山だった所である。
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