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磐城炭鉱軌道 2
磐城炭鉱軌道に存在した「三函隧道」。
軌道は隧道という手段を用いて湯本の市街地に躍り出るのだ。
この隧道の反対側は何処であろうか。
早速迂回してみよう。
湯本温泉街で随一の規模を誇る老舗旅館「古滝屋」。
隧道の出口はこの古滝屋に関連する場所にある。
古滝屋の第二駐車場。
そこにはGWを楽しむ観光客の車が隙間無く止められていた。
この駐車場の脇の小道こそがかつての磐城炭鉱軌道なのだ。
駐車場の奥に行き、隧道の出口があると思われる地点を撮影する。
…見えやしない。いや、見えなくて良かったと言うべきか。
もし少しでも隧道が見えたら接近を試みなければならないではないか。
少々安心した。
脇の小道を通り抜け、あわよくば隧道に出来るだけ接近をしようとしたのだが、この光景を見て即座に断念した。
犬がいるではないか。これが猫であったならばモフモフする為に大接近を敢行するのだが…犬はどうしても駄目なのだ。
犬は小型ながら鋭い声を発し、部外者の侵入を拒む。今時立派な番犬だ。
…いや、いいです。これ以上接近しませんから…ここで引き返します。
駐車場脇の小道はコンクリートによって舗装されている。
軌道跡はそのまま直進し、前を通る県道14号 いわき石川線を横切る。
県道14号線に出る。
軌道は現在の県道より少々内側(南側)を並行するように敷設されていたと思われる。
画像でいうと中央よりやや右側だろうか。
県道14号線
温泉神社は1651年(慶安4年)にこの地に遷座されたと言われる。
温泉神社は1300年余りの歴史を誇るとされる。神体は湯本にそびえ立つ霊峰、湯の岳である。
通りに面した鳥居には「皇紀二千六百年記念」と大きく刻まれていた。
皇紀2600年とは昭和15(1940)年の事である。太平洋戦争で活躍した「零戦」は皇紀2600年の下一桁、すなわち「零年」に制式採用されたのでその名が付いた。有名な戦闘機「飛燕」は昭和18(1943)年に作られたので「三式」と呼ばれる。
私くらいの齢の者が「皇紀」と書かれた物に触れることは少ない。その点でこの鳥居は貴重な建造物と言えるだろう。
神社に登る階段の手前にもう一つ鳥居があった。
鳥居の左手奥の石碑の裏から温泉が湧き出している。辺りには硫黄の卵に似た匂いがかすかに漂う。
軌道はこの鳥居の直前を横断していたものと思われる。
神社の前を通った軌道は、現在の「
軌道が現役であった頃はこの場所に炭鉱軌道の修理工場があったそうだ。
この道は炭鉱軌道由来の道のようだ。
湯本の駅前通り、県道56号線と軌道跡が重なる。
駅には人がごったがえしていたが、この辺りは意外に人通りが少ない。
一本向こうの通りにある「みゆきの湯」や先程の「古滝屋」、更には「スパリゾートハワイアンズ」に人が流れているのだろう。
炭鉱軌道は画像の右側辺りに敷設されていたと考える。
湯本駅から正面の道を進むと「ホテル うお昭」が見える。
この「うお昭」の辺りが磐城炭鉱軌道の「湯本停留所」があった場所のようだ。
湯本駅から100mと離れていないので乗り換えは簡単であっただろう。
本来ならこのレポートは湯本停車場で終了するのだが、もう少し先もお伝えしよう。
県道から分岐して鹿島方面に進む道がある。この道も磐城炭鉱軌道が通っていたのだ。
現在、常磐線小名浜街道踏切は工事中だ。向こう側の国道6号線に出るには東側跨線橋を使用しなければならない。
封鎖されている道路の手前、電気屋マルヨシさんの前を横切る道はかつて
大日本炭鉱湯本鉱専用鉄道
(大正6(1917)年〜昭和7(1932)年)だった。
磐城炭鉱軌道と湯本鉱専用鉄道は平面クロスで交差していたという。
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