このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

松永軌道と四ツ花軌道 3

 

 

 

田村氏滝根町神俣字入新田。「中継」と呼ばれたこの場所から2本の軌道が並行して神俣駅に向かっていたのだと言う。

四ツ花軌道は松永軌道の開設から遅れること4年の大正9(1920)年に開設された。

大日本鉱業株式会社の創業者である武田恭作氏(1867〜1945)の設計であるという。

四ツ花軌道のレールは鉄製であり、「木線」(もくせん)と呼ばれた松永軌道に対して、こちらは「金線」(かなせん)と呼ばれたと言う。

四ツ花軌道は開設後、経営が地元神俣の先崎氏に譲渡され、松永師以外の山師が使用料を支払い使用したという。

四ツ花軌道は松永軌道と同じく、昭和初期に廃止されたと伝えられる。

「四ツ花」と言う麗しい響きの名前にはどんな意味があるのだろうか。四つの花びらといえば桜の事だが…

 

 

 

 

大日本鉱業と言う鉱山開発、採掘を業務とする企業の創始者が四ツ花軌道を開設したのは何故なのだろうか。「中継」の背後には「万太郎山」という名の山が控えている。万太郎山は良質の石灰石と炭酸カルシウムを産出する鉱山である。今現在でも日東粉化工業㈱の手により、「万太郎鉱山」として稼業している。

 

万太郎山などの滝根町の山々は阿武隈の鉱脈地域に属し、同じ鉱脈に属するいわき市の八茎鉱山では鉄鉱石、銅、金、石灰石などが産出されていた。

恐らく武田氏は万太郎山や大滝根山の豊富な鉱物資源に目を付け、採掘の布石として四ツ花軌道を開設したのではないだろうか。鉱山鉄道としての運営を考えていたのだろうか。しかし、万太郎山などの鉱石採掘が何らかの事情により本格化しなかった為、武田氏は四ツ花軌道の経営権を譲渡した…と考える。

 

 

 

滝根の市街地に入り、鉄道の痕跡は全く無くなった。

今、私の前に伸びる県道とて2つの軌道の跡をそのままなぞっているとは考えがたい。

 

四ツ花軌道がもし鉱山鉄道として本格化したならばどのような歴史を辿っただろうか。

滝根町内から集められた石灰石などの功績が軌道によって神俣駅まで運ばれ、隆盛を見たことであろう。

滝根町は山口県美祢市のような工業都市に変貌を遂げていたかも知れない。美祢市も石灰石を産出し市内には鍾乳洞もある。町の成り立ちは滝根町とよく似ている。

 

しかしながら滝根町には大企業の進出による町の飛躍的な発展が見られなかった。それが美祢市との大きな違いだ。

 

 

 

私の立っている地点には滝根町に存在したもう一つの軌道「神俣石材軌道」(かんまたせきざいきどう)が通じていた。

 

神俣石材軌道は神俣駅から北東方面に進み、滝根鉱山から石灰石を運んでいたと言う。

 

神俣石材軌道は大正7(1918)年に開設された。

 

3つの軌道が同時期に存在していた事を考えると、松永軌道と四ツ花軌道は画像のように現在の滝根中学校へ向かう道に敷設されていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

北東へまっすぐ伸びる一本の道。

 

これが神俣石材軌道跡だ。

 

本HP内レポート「住友セメント玉山鉄道」の歴史にも関るこの軌道跡のレポートはこちらから。

 

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磐越東線の神俣駅は福島県内でも屈指の個性的な駅舎として知られている。

 

この駅舎は旧滝根町内の「星の天文台」をモチーフにして建築されたのだそうだ。

 

駅舎はコミュニティセンターも兼ねており、駅舎内では多くの方々が休日の長閑な時間を過ごされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

神俣駅の島式ホームの東側には、使われなくなった重厚な石作りの貨物ホームが残されている。

 

松永軌道や四ツ花軌道が運搬した木材もこのホームから全国に発送されたのだろうか。

 

神俣駅の貨物取扱は昭和56(1981)年に廃止されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貨物ホームの向こうには青い屋根の建物と、隣接する事務所が見える。

 

事務所には(合)松永商店と看板が掲げてあった。松永軌道創始者の松永師と何らかの関係があるのだろうか。

 

松永軌道の探訪は松永商店さんで終わる。

 

良い締めができた所でこのレポートは終了。

 

 

 

 

 

 

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