このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
神俣石材軌道
〜石灰石と滝根町〜
神俣石材軌道の基礎知識
開設 大正7(1918)年
廃止 不明(昭和35年頃?)
磐越東線 神俣(かんまた)駅〜田村郡(現 田村市)滝根町字菅谷東釜山(滝根鉱山)
全長 不明
軌間 不明(610mm?)
磐城セメントの設立
神俣石材軌道を語る為には、まず磐城セメント(株)四倉工場の成り立ちから説明しなければならない。
遥か昔、一説には和銅(708〜714年)年間に発見されたと伝えられる、
(現)いわき市四倉町玉山菖蒲平に存在する八茎鉱山(やぐきこうざん)。
八茎鉱山は永らく銅鉱石、鉄鉱石、金などを産出していた。
明治40年頃、八茎鉱山からズリ(廃石)として捨てられていた石灰石を
セメントの原料として活用する為、
八茎鉱山社長の広瀬金七氏と実業家 磐崎清七氏両名により、磐城セメント㈱が設立された。
翌41(1908)年9月には、
常磐線
石灰石の入手先として
磐城セメント㈱四倉工場は、八茎鉱山から産出された石灰石を索道と軽便鉄道
(磐城セメント専用軌道:軌間610mm:
住友セメント玉山鉄道
の前身)で運搬していたが、
親会社の八茎鉱山の経営が銅相場によって左右される為、石灰石の供給が不安定である事に悩まされていた。
その為、原料の石灰石を別の鉱山より入手する事を検討した磐城セメントは、八茎鉱山と同じ鉱脈に存在し、
石灰石の露頭(地表に現れている事)が認められる滝根村(現 田村市滝根町)の大滝根山の石灰石の採掘権を取得し、
大正6(1917)年に滝根採石所を開設した。
大正7(1918)年には前年(6年)に開設された磐越東線 神俣駅西口より採石所に至る軌道を敷設し、石灰石の運搬を開始した。
「神俣石材軌道」の開設である。
神俣石材軌道は採石所(滝根鉱山)から産出された石灰石を神俣駅西口の積替所まで運搬し
そこで貨車に積み替えられた石灰石を、四ツ倉駅まで運搬していた。
四ツ倉駅には専用側線が設けられ、石灰石が積載されていた貨車を直接工場内に運び入れていた。
八茎鉱山は大正14年〜16年、昭和27年〜33年に一時休山して石灰石の産出を停止しているので、
滝根鉱山の存在は磐城セメントにとって重要なものであった事が伺える。
神俣石材軌道の疑問についての考察
(石材軌道の軌間):神俣石材軌道は磐城セメントの関連会社なので、磐城セメント専用軌道(明治41年〜昭和27年)と
同規格である軌間610mmと考えられる。
(石材軌道の廃止時期)神俣石材軌道の廃止時期について明確に記された資料が発見できないので、私の推測ではあるが
昭和35(1960)年〜昭和44(1969)年の間ではないかと考えている。
滝根鉱山の終焉とあぶくま洞の開発
昭和44(1969)年。採掘権等の問題から滝根鉱山における石灰石の採掘はほぼ同年で終了する事が決まっていたと言われる。
その晩年の採石時の発破において、偶然にも現在のあぶくま洞の観光洞出口付近が発見されたのだ。
調査により大規模な鍾乳洞である事が判明し、鉱山跡地を利用し
昭和48(1973)年には「あぶくま鍾乳洞」として観光地として再出発する事になった。
あぶくま鍾乳洞はたちまち人気観光名所になり、滝根町の財政改善に大きく貢献したと言う。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |